書き下ろしイヤミス

よかった

約4,524字 読了目安 約9分 2026年10月28日 公開

「明日の夜、君が俺を抱きしめる夢を見た」

夫がそう言ったのは、私が食器棚から皿を出しているときだった。

「へえ」

「二人とも泣いてた。俺が、よかった、って言ってた」

私は皿を新聞紙で包み、段ボールに入れた。

「じゃあ、何かいいことがあるんじゃない? 少なくとも、悪い夢じゃないでしょ」

夫はしばらく黙っていた。

「明日、引っ越すんだよね。それなのに、抱きしめてくれるんだ」

私は次の皿を手に取った。

夫は三年ほど前から、ときどき正夢を見るようになった。

最初はささいなことだった。夫の出張が急になくなる。私が夕飯の味噌汁をひっくり返す。妹が転職する。どれも夫が先に話していて、どれも当たった。

味噌汁をこぼした日は、珍しく夫が配膳を手伝ってくれた。夫が食卓の端に寄せた椀を取ろうとして、私の袖が引っかかったのだ。妹の転職には驚いた。本人がまだ辞めるつもりなどなかった頃の話だったからだ。

夢を見た朝、夫は決まって機嫌がよかった。

「夢では、どこにいたの」

「この家だと思う。君が俺を抱きしめて、俺が泣いてた。すごく安心してた」

「そっか」

夫は私の隣にしゃがんだ。

「引っ越し、少し待ってみない?」

皿を包む手が止まった。

「またその話?」

「夢でそうなったんだから、何かあるんだと思う」

「何かあっても、引っ越しはするよ」

「でも、抱きしめるんだろ」

「夢の中ではね」

「だったら、まだ気持ちが残ってるってことじゃないかな」

私は新しい新聞紙を広げた。

結婚して十一年。夫は一度も私を殴ったことがない。怒鳴ったことも、たぶんない。友人からは優しい旦那さんだと言われていたし、実際に優しい人だった。私が熱を出せば仕事を早く切り上げて帰ってくる。買い物の帰りには重い袋を持ってくれる。疲れたと言えば、夕飯を作ってくれる。

ただ、私が「いらない」と言うと、どうしていらないのかを必ず聞いた。理由を言えば、その理由を解決しようとした。もう一度断れば、別の方法を考えた。

去年、一人で旅行に行きたいと言ったときもそうだった。夫は私が一人旅をしたがる理由を聞き、疲れているなら二人で温泉に行こうと言った。静かな場所がいいと言えば、部屋に露天風呂のある宿を探してくれた。結局、旅行には行かなかった。

別居を決めた理由を、夫はいまだによくわかっていない。

「ねえ。明日、引っ越しが終わったら、夕飯だけでも一緒に食べない?」

「食べないよ」

「どうして」

私は包んだ皿を段ボールに戻した。

翌朝、妹が車で迎えに来た。

「荷物、これで全部? 意外と少ないね」

「家具は置いていくから」

「もったいない。お姉ちゃんが選んだのばっかりなのに」

妹は夫とも仲がよかった。結婚したばかりの頃は、週末になるとよく遊びに来た。私が仕事で遅くなる日に、二人で夕飯を食べていたこともある。妹は何度も私に言った。お義兄さん、いい人なのに。私もそう思っていた。

最後の段ボールを運び終えたところで、夫が玄関に出てきた。

「本当に行くんだね。向こうに着いたら連絡して。困ったことがあったら、いつでも言って」

私はうなずいた。妹が私の鞄を持とうとしたので、断った。

「自分で持てるから」

「お姉ちゃん、そういうとこあるよね。なんでも一人でやろうとするとこ」

「そうなんだよ」

夫が笑った。

「昔からそう。私が手伝うって言っても、全部自分でやっちゃう。今日だって、私がいなくても引っ越せたんじゃない?」

「そんなことないよ。助かった」

妹は満足そうにうなずいた。私は鞄を肩にかけた。

「昨日の夢、覚えてる?」

夫が言った。

「覚えてるよ」

「今夜だから」

「何の夢?」

妹が顔を上げた。夫が説明すると、妹は私と夫の顔を見比べた。

「ええ、すごいじゃん。じゃあ、仲直りするんじゃない?」

「しないよ。引っ越しはするの」

「まだわかんないじゃん。まあ、どうなるか楽しみだね」

私は、楽しみではなかった。

新しい部屋に着いたのは昼前だった。妹は家具の位置を考えたり、段ボールを開けたり、頼んでいないことまで手伝ってくれた。四時頃、ようやく荷物が片づいた。

「お茶でも飲む?」

「ううん。ちょっと出てくる。買い忘れたものがあって。お姉ちゃん疲れてるでしょ、すぐ戻るから」

一時間経っても、妹は戻らなかった。電話をかけても出ない。

『どこにいるの?』

既読はついた。返事はなかった。

六時を過ぎて、もう一度かけた。呼び出し音が鳴りつづけ、留守番電話に切り替わった。妹は連絡がまめなほうではない。それでも、買い物に出たきり二時間も戻らず、既読だけつけて黙っているのは珍しかった。

近所のスーパー、ドラッグストア、駅前の雑貨店。妹の行きそうな店を回ったが、どこにもいなかった。歩きながら、妹が最近よく夫の話をしていたことを思い出した。お義兄さん、ちゃんとご飯食べるかな。一人になって大丈夫かな。お姉ちゃん、もう少し考えたら?

夫のところへ行ったのかもしれない。電話をかけると、夫はすぐに出た。

「どうしたの」

「妹、そっちに行ってない? 四時頃に買い物に出て、それきり帰ってこないの。連絡も取れなくて」

「ああ、そうなんだ」

夫は少し黙った。

「心配だね」

「そっちには行ってないんだよね?」

「今、妹さんがここにいるかってこと?」

「そう」

「君は今どこ? 一人?」

「駅の近く。一人だけど」

「じゃあ、うちに来たら? 一緒に探そうよ。妹さんの行きそうなところ、俺も考えるから。車もあるし」

私は駅前の人混みを見た。

「……わかった」

夫は玄関で待っていた。

「寒かったでしょ。とりあえず入って。お茶いれるから」

数時間前まで暮らしていた家なのに、家具の並びがよそよそしく見えた。食卓には、朝のコップが二つ残っていた。私は、いつも座っていた椅子を引いた。

「妹さん、最近何か悩んでた? 誰かと付き合ってるとか。仕事は?」

「知らない。聞いてない。普通だと思う」

「落ち着いて考えよう。きっと大丈夫だよ」

夫は台所に立った。私は携帯を見た。既読のままだった。

「もう一回かけてみる」

呼び出し音が鳴った。一回、二回、三回。

廊下の奥で、小さく電子音がした。すぐに止んだ。夫はお湯を注いでいた。

「今、何か鳴らなかった? 携帯みたいな音」

「そう?」

夫は湯呑みを二つ持ってきた。

「熱いから気をつけて」

私は立ち上がった。

「どこ行くの」

答えずに廊下に出た。寝室の隣に、小さな物置がある。季節外れの布団や古い旅行鞄をしまっていた部屋だ。扉が閉まっていた。取っ手を回したが、開かなかった。

「ここ、鍵かけた?」

夫が廊下に来た。

「うん」

「開けて。さっき、ここから音がした気がする」

「まず、お茶飲まない? せっかくいれたし。冷めちゃうよ」

夫は湯呑みを取りに戻ろうとした。

「妹がいるの?」

夫が足を止めた。

「妹さん?」

私はもう一度妹に電話をかけた。扉の向こうで、短く振動する音がした。夫も扉のほうを見た。

「……ああ。うん、いるよ」

「どういうこと」

「まず、落ち着いて聞いてほしいんだけど」

「開けて」

「ちゃんと説明するから。そんなに急がなくても」

「開けてよ」

夫はポケットから鍵を出した。

「いるんだから、心配しなくていいんだ」

私は夫の手から鍵を取った。夫は逆らわなかった。鍵を差しこむと、扉が開いた。

妹は折り畳み椅子に座っていた。手に携帯電話を持っていた。

「お姉ちゃん。ごめん」

妹は立ち上がり、夫のほうを見た。

「先に話したほうがいいよ」

夫が言うと、妹はうなずいた。

「ちょっと、驚かせようと思って」

「心配したんだけど。ずっとここにいたの?」

「昨日、お義兄さんから夢の相談されてたの。私、途中で帰ろうと思ったんだよ。でも、お義兄さんが、もう少し待ってみようって」

「何を」

「お姉ちゃんが来るのを。だって、二人にちゃんと話してほしかったから」

妹は携帯を握ったまま、少し声を落とした。

「お義兄さん、私の前で泣いたんだよ。一回だけでいいから、って。あんなふうに頼まれたら、断れないよ」

夫が近づいてきた。

「大丈夫?」

私は一歩さがった。

「どうして、こんなことしたの」

「心配させるとは思ったけど、妹さんがここにいるってわかれば安心するでしょ」

「だったら最初から言ってよ」

「でも、そうしたら来なかったよね」

夫は当たり前のことを確かめるように言った。私は妹に向き直った。

「帰ろう」

妹は動かなかった。

「お姉ちゃん、待って。せっかく来たんだから、ちょっとだけ話していったら? 夢では仲直りするんでしょ?」

「仲直りとは限らないよ」

夫が言った。

「夢では、君が俺を抱きしめてくれた。それだけだから。別に、仲直りしなくてもいいんだ」

「そうだよね。最後にちゃんと抱きしめてあげるくらい、いいじゃん」

妹は嬉しそうにうなずいた。私は鍵を手放した。夫が私の前に立った。

「お願いしてもいい?」

「嫌」

「どうして」

「嫌だから」

「最後に一回だけだよ」

「お姉ちゃん、そんな意地張らなくても」

「嫌なら、もちろん無理にとは言わないよ」

私は玄関へ向かった。

「お姉ちゃん、私まだ鞄、あっちに置いてるんだけど。ちょっと待ってよ」

妹が物置へ戻った。靴を履きかけた私の背中に、夫が言った。

「俺たち、十一年も一緒にいたんだよ。その最後が、これでいいのかな」

「もう終わったことでしょ」

「そうだね。だから、最後に一度だけ」

妹が鞄を持って戻ってきた。

「お姉ちゃん、帰るの? お義兄さんと、ちゃんと話した?」

「話したよ」

「お義兄さん、もう大丈夫?」

「俺は大丈夫なんだけど。最後に抱きしめてほしいって、お願いしてるんだ」

妹は鞄を床に置いた。

「お姉ちゃん。もう、これで終わりにしてあげなよ」

玄関の時計は九時を過ぎていた。妹は鞄を足元に置いたまま、夫は私の返事を待っている。どちらも、動こうとしなかった。

私は靴を脱いだ。

「いいの?」

夫が顔を上げた。私は夫のほうへ歩き、その体に両腕を回した。夫は強く抱き返してきた。

「よかった」

耳元で声がした。

「本当に、よかった」

夫は泣いていた。私も泣いていた。夫の背中に手を置いたまま、私は妹を見た。妹は笑っていた。

「ほら。夢のとおりだ」

夫がもう一度言った。私は夫の肩を押した。夫はすぐに腕をほどき、涙を拭った。

「ありがとう」

妹が鞄を持ち上げた。

「帰ろっか」

私はうなずいた。

エレベーターの中で、妹が言った。

「ごめんね。あんなに心配すると思わなかった。でも、ちゃんと会えてよかったじゃん」

私は階数の表示を見ていた。

「お義兄さん、ずっと落ちこんでたんだよ。お姉ちゃんが出ていくって聞いてから、どうしたらいいかわからないって」

「それで、あんなことしたの?」

「私だって反対したよ。でも、あの夢の話を聞いたら、きっと大丈夫なんだろうなって」

「何が」

「二人のこと。私、お義兄さんの夢ってすごいと思う。私が仕事辞めるときも、先にわかってたんだよね。あのとき本当に迷ってたから。お義兄さんに相談してなかったら、まだあの会社にいたかも」

エレベーターが一階に着いた。外は雨が降りはじめていた。妹は鞄から折り畳み傘を出して開いた。

「お姉ちゃんも入る? 濡れるよ」

「すぐそこだから」

「ねえ」

私は足を止めた。

「次にお義兄さんが夢を見たらさ」

妹は傘を私のほうに傾けた。

「今度は、最初から教えてもらおうよ」

了