嘘をついていい日
第一章
娘が三十歳になった。
誕生日の夕食は、駅前のイタリア料理店にした。娘が小学生の頃から通っている店で、どこで食べたいかと聞くと、娘はあそこがいいと言った。ホームページを見ると、娘が昔好きだったピザがまだ載っていた。トマトとチーズだけの、何ということもないピザだ。小さい頃の娘はそれしか食べなかった。妻がほかの料理を取り分けても首を振った。私が皿にピザを一切れ載せてやると、必ず「ありがとう」と言った。その言い方を、今でも覚えている。
当日、店に着くと、娘はもう席にいた。
「遅いよ、パパ。私、十分前からいる」
「まだ五分前だろ」
「あなたも、いつも早く来るじゃない」
コートを脱ぎながら妻が言った。
メニューを開いてピザを指さすと、「わかってる」と言われた。
「これにしろとは言ってないだろ」
「顔に書いてある」
娘は真剣な顔でメニューを眺めはじめた。三十歳の娘は、もうすっかり大人だった。仕事をして、一人で暮らしている。私の知らない友人も大勢いるだろう。それでも向かいに座っていると、小学生の頃とあまり変わらない気がした。
「何? また三十歳になったとか考えてた? 今日そればっかりじゃん」
私は笑ってしまった。
*
ピザが来ると、娘は食べる前から「懐かしい」と言い、一口かじって「変わってない」と言った。正直なところ、私は昔の味など覚えていなかった。
「三十歳って、もっと大人だと思ってた。パパが三十のときって、もう私いたんだよね。すごいね、子ども育ててたんでしょ」
「育ててたのは母さんだけどな」
冗談のつもりだった。妻はグラスを置いた。
「そうね」
「いや、俺もそれなりにやっただろ」
「何もしてないなんて言ってないわよ」
妻はサラダを取り分けた。娘が言った。
「パパ、私が熱出したとき、夜中に車で病院連れてってくれたよね。ずっと手握ってくれてた」
二年生の冬だった。待合室は混んでいて、娘は私の膝で眠ったり起きたりしていた。帰りの車ではぐっすり眠り、私は娘を抱いて寝室まで運んだ。翌朝、腰が痛かった。手を握っていたことは、覚えていなかった。
「お父さん、次の日も仕事だったのよ」
妻が言った。それも覚えていなかった。
「ありがとうね、パパ。今言っとこうと思って」
娘はピザをもう一切れ取った。妻がその皿にサラダを載せた。
「野菜も食べなさい」
「はーい」
子どもの頃と同じ返事だった。
*
娘は仕事の話をした。最近は後輩を指導していて、自分もわからないことだらけなのに教えるのは難しいという。
「そんなもんだろ」
「パパっていつもそう言うよね。そんなもんだろ、とか。何とかなる、とか」
「実際、何とかなることのほうが多いからな」
「困ったら人に相談しなさいよ」
妻が言うと、娘は「ママにはしてるよ」と答えた。
「俺には?」
「パパにもしてるじゃん」
仕事で失敗するたびに電話をかけてきた頃を思い出した。泣いていたこともある。私は話し終わるまで聞いているだけで、助言らしいことはほとんど言えなかった。それでも娘は、ありがとうと言って電話を切った。
「ねえ。私、結婚しなくてもいいと思う? 友達が結婚してさ、みんなちゃんと人生進んでるなって」
「結婚しないと人生が進まないわけじゃないでしょう」
妻が言い、私もうなずいた。
「じゃあ、ずっと実家にいてもいい?」
「家賃払ってくれるならな。三十歳だからな」
「ひどい!」
本当に帰ってくると言われたら、断りはしないだろう。娘の部屋は、今は物置になっている。
*
デザートが来た頃、娘が言った。
「あ、そうだ。今日、嘘ついていい日じゃん」
「まだ続いてたの?」
「当たり前でしょ」
娘が小学生の頃、誕生日だけは嘘をついてもいいという遊びを始めた。普段は嘘をつくなと言う父親が、その日だけ反対のことを言う。それが面白かったらしい。最初の年は学校に恐竜が来たと言い、次の年は宇宙人に会ったと言った。大きくなると、テストで百点を取ったとか、先生に褒められたとか、妙に現実的な嘘をつくようになった。私が本気で喜ぶと、娘は嬉しそうに「嘘でした」と言った。妻はくだらない遊びを教えないでと言っていたが、誕生日が来ると誰より先に「今年は何を言うの?」と聞いた。
「今年は何だ」
「もう三十だからなあ。大人っぽいのがいいじゃん」
娘は私と妻を順番に見て、グラスを置いた。
「じゃあさ。私が生まれてなかったら、二人って、とっくに離婚してた?」
「何それ」
妻が先に笑った。
「三十歳の誕生日にする質問か」
「だって、今日は嘘ついていい日でしょ」
私はワインを飲んだ。
妻とは結婚して三十二年になる。娘が生まれる前は、休みのたびに知らない街を歩いた。妻は店を選ぶのが下手で、おいしそうだと言って入った店の料理が驚くほどまずかったことがある。文句を言うと、妻は自分でも笑い出して、しばらく止まらなくなった。あの笑い方が好きだった。娘が生まれてから二人で出かけることは減り、娘が大きくなってまた二人になった頃には、どこへ行きたいのかもわからなくなっていた。
離婚を考えたことがないと言えば、嘘になる。口をきかない日が続いたこともあった。家に帰るのが面倒だと思った夜もある。
「してたかもな」
「えっ、そこは嘘でもしてないって言ってよ」
「今日は嘘をついていいんだろ」
娘は笑いながら妻を見た。
「ママは? 離婚したいと思ったこと、ある?」
「あるよ」
妻はあっさり答えた。娘は吹き出した。
妻が離婚を考えたことがあると、本人の口から聞いたのは初めてだった。
「パパもある?」
「そりゃあるよ」
「何か、安心した。二人とも、そういうこと考えたことあるんだなって」
娘が何に安心したのか聞こうとしたが、娘はもう友達が飼いはじめた白い犬の写真を見せていた。パパも飼えばいいのに、と言われ、毎朝散歩するのが面倒だと答えると、そういうところがパパらしいと言われた。
*
駅までの道、娘が車道側を歩いていたので、私は場所を替わった。娘は気づかなかった。改札の前で、娘は私と妻を順番に見た。
「パパもママも、ちゃんと仲よくしてね。だって二人とも、離婚したいと思ったことあるんでしょ」
「今日は嘘をついていい日だからな」
「便利だね、その言葉」
娘は笑い、妻も笑った。
*
帰り道、妻はあまりしゃべらなかった。私は、娘の誕生日が無事に終わったことに満足していた。
「さっきの話だけど。あなた、本当に私と離婚してたと思う?」
「まだ気にしてるのか。今日は嘘をついていい日だろ。あの子も楽しそうだったし、いいじゃないか」
「そうね」
しばらく歩いてから、妻はまた言った。
「あの子がいなかったら、私と結婚したこと、後悔してた?」
答えに詰まった。娘がいなかったら。そんな人生を、どう考えればいいのだろう。
「そんなの、わからないだろ」
「そうね」
それきり、妻は何も話さなかった。
家に着くと、妻は先に風呂に入った。娘からメッセージが来ていた。
『今日はありがとう! 久しぶりにあの店行けてよかった!』
『また行こう。仕事、無理するなよ』
『パパもね!』
娘の部屋を、今度片づけておこうと思った。
風呂から出た妻が、居間の入り口で立ち止まった。
「今日、あの子、嬉しそうだったね」
「そうだな」
「あなた」
「何?」
妻は首を振った。
「ううん。何でもない」
私はテレビを消して、風呂に向かった。
*
第二章
妻が一人で暮らしたいと言い出したのは、娘の誕生日から五日後だった。
帰りが遅くなった日で、食卓には鮭の塩焼きとほうれん草のおひたしが並んでいた。妻はもう食べ終わっていた。
「ちょっと話があるんだけど。来月から、部屋を借りようと思ってる」
「何の」
私は鮭の骨を外しながら聞いた。
「私が住む部屋」
箸が止まった。
「一人で? 何で」
「一度、一人で暮らしてみたいの」
「ふうん」
骨を皿の端に寄せた。
「それだけ? 私、家を出るって言ってるのよ。驚いたとか、どうしてとか、あるでしょう」
「どうしてって、今聞いただろ」
「そういうことじゃない」
妻はよく、こういう言い方をした。何が違うのか聞いても、すぐには答えない。私が何か言うと、また違うと言う。
去年の秋から考えていたという。去年の秋といえば、娘と三人で紅葉を見に行った。雨でほとんど観光できなかったが、娘は旅館の夕食を気に入って、帰ってからも何度もその話をした。妻も楽しそうだった。
「言ってくれればよかったのに」
「何度か話そうとしたよ。だから、話せなかったんでしょう」
「言いたいことがあるなら、言えばいいじゃないか」
「あなたはいつも、そう言うのね」
妻は娘が独立してから勤務日数を増やしていた。家にいるより働いていたいのだろうと思っていた。そのためでもあった、と妻は言った。部屋はもう二つ見てきたという。先週の土曜、友人と会うと言って出かけた日だ。私は家で映画を観ていた。
「言ってくれれば、一緒に見に行ったのに」
「あなたと住む部屋じゃないのよ」
言われてみれば、そのとおりだった。それでも、駅から遠くないか、夜道は暗くないか、建物は古くないか、少しは気になる。
「離婚したいのか」
「今すぐ、そうしたいわけじゃない。とりあえず一年くらい暮らしてみたら、これからどうしたいのか、わかるかもしれないでしょう」
「家賃は」
「そういうことは聞くのね」
「大事だろ」
「自分で払えるところを探してるから」
妻は私の顔を見た。
「あなた、本当に何とも思わないの? 一度くらい、引き止めてくれてもいいんじゃない?」
思わず笑ってしまった。
「行くなって言えば、やめるのか」
妻が私を見た。私は笑うのをやめた。
「そういうことじゃない」
「じゃあ、何なんだよ」
妻は答えなかった。私は腹が立った。一年も前から考えて、仕事を増やし、部屋まで見てきた人間を、今さら私が引き止めてどうするのだ。
「お前が決めたことなら、好きにすればいいよ」
「そう」
食事を再開した。鮭は冷めていた。
「あなた、私のこと好き?」
三十二年一緒に暮らして、今さら何を聞くのかと思った。
「ああ。愛してる」
「そう」
何か言うのを待ったが、妻は黙っていた。
「でも、出ていくんだろ」
「うん」
「だったら、好きにすればいいよ」
妻はグラスに手を伸ばし、持ち上げかけて、また置いた。
「あなた、本当にずるいわね」
「何が」
「何でもない」
何でもないなら、言わなくてもいいのに。
「愛してるかって聞かれたから、ちゃんと答えただろ。それじゃだめなのか」
妻はしばらく私を見ていた。
「だめじゃないよ」
空の食器を持って、台所へ行った。
*
食べ終えて台所に立つと、妻は皿を一枚ずつ拭いていた。
「ねえ。あなた、本当は少し嬉しいんじゃない? 私が出ていくこと」
すぐに否定しようとして、言葉が出なかった。妻のいない暮らしを、私はまだ具体的に思い描いていなかった。ただ、誰にも何も言われずに過ごせるのだろうとは思った。休みの日にいつ起きてもいい。夕飯に何を食べてもいい。映画を、途中で話しかけられずに最後まで観られる。
「嬉しいわけないだろ」
「そう」
妻はそれ以上言わなかった。少しして、娘にはまだ言わないでおこうと言った。娘は三十になったばかりで、仕事も忙しい。誕生日を楽しく祝ったばかりなのに、すぐに心配をかけることはない。落ち着いてから話そう。妻とこんなに簡単に意見が一致したのは、久しぶりだった。
引っ越しは来月の半ばになるという。手伝おうかと言うと、業者に頼むから大丈夫だと言われた。
*
寝室に入ると、妻はもう横になっていた。結婚してから、ずっと同じ部屋で寝ている。娘が小さい頃は、二人のあいだに寝かせていた。娘は寝相が悪く、夜中によく私の腹を蹴った。私と妻は眠っている娘を真ん中に戻し、起こさないように声をひそめて話した。何を話したのかは覚えていない。
「部屋、夜道は大丈夫なのか」
「駅から近いよ。オートロックもあるし」
「なら、いいけど」
目を閉じた。しばらくして、妻が言った。
「今日、ちゃんと話せてよかった」
私は少し驚いた。
「ああ」
妻は寝返りを打った。
「おやすみ」
「おやすみ」
それから、どちらも何も言わなかった。
*
第三章
引っ越しが近づくにつれて、妻の物が少しずつ減っていった。最初は服だった。クローゼットの妻の側に隙間ができ、ハンガーが一本ずつ離れて、奥の壁が見えていた。
新婚旅行のとき、私がスーツケースに詰めたシャツを、妻は一枚ずつ出して皺にならないように入れ直した。どうせ着るんだから同じだろと言うと、呆れた顔をした。あなた、本当に適当ね。あの頃は、それも旅行の楽しみの一つだった。
隅に残ったコートを指さすと、冬になったら考える、と妻は言った。
*
前の晩、妻は肉じゃがを作った。私の好物だった。じゃがいもが残っていたから、と妻は言った。いつもより、少し味が濃かった。
「冷凍庫に、ご飯が何食分かあるから。肉じゃがも残ったら冷凍しておけばいい。それから、洗濯機の横の棚に洗剤の詰め替えが」
「そのくらい、自分でわかるよ」
妻が黙った。言いすぎたと思った。だが妻も、私が何もできないと思いすぎている。
「ありがとう」
付け足すと、妻は「うん」と答えた。
*
翌朝、業者が来た。荷物は思っていたより少なかった。段ボールが十箱ほどと、小さな棚が一つ。結婚した頃に買った食器棚は置いていった。新しい部屋には大きすぎるという。
食器は、白い茶碗が一つ、小皿が二枚。それから、マグカップが二つ。
「二つ持っていくのか」
妻は手を止めた。
「うん。洗い替え」
「ああ」
妻はカップを新聞紙で包んだ。昼前には運び出しが終わった。妻は靴を履き、鞄から鍵を出した。
「これ、返しておく?」
「持ってろよ。返す必要ないだろ。忘れ物があったら取りに来ればいいし」
「そう。ありがとう」
妻は鍵を鞄に戻し、玄関を出た。外で車のドアが閉まる音がした。私は居間に戻ってテレビをつけた。
*
一人になって最初にしたのは、昼寝だった。前の晩、あまり眠れなかった。起きると昼過ぎで、家の中は静かだった。冷凍庫のご飯を温め、残っていた肉じゃがと一緒に食べた。午後は録画しておいた映画を観た。途中で話しかけられることはなかった。夕飯は駅前で弁当を買い、テレビを見ながら食べた。妻は食事中にテレビをつけると嫌がった。今日は好きな番組を見ながら食べられる。
思っていたより、困らなかった。
夜、妻から『無事に片づいたよ』と来た。『お疲れさま』と返し、少し考えて『何か困ったことがあったら言ってくれ』と送った。
『ありがとう。そっちも無理しないでね』
*
最初の一週間は、拍子抜けするほど普通に過ぎた。洗濯は二日に一度で足りた。土曜は昼近くまで寝て、午後に掃除をした。休みの日に遅くまで寝ていると、もったいないと妻に言われたものだ。今は誰も起こさない。それでも、玄関の靴は揃えたし、洗濯物は畳んでからしまった。洗面所の電球が切れたときは、替えを見つけるのにずいぶん手間取った。妻がいつも買い置きしていたのだ。
*
二度目の日曜日、妻から電話があった。
「どう? ご飯、ちゃんとしたもの食べてる?」
「大丈夫だよ」
昨日の夕飯は、カップ麺とスーパーの総菜だった。
妻は、近所に朝早くから開いているパン屋を見つけたと言った。焼きたてのクロワッサンがおいしかったらしい。職場まで歩いて行けるので朝が楽になった、とも言った。家にいた頃より、明るい声だった。それから職場の話になった。新しく入った人の覚えが早いのだという。私はテレビを見た。ちょうどニュースが始まるところだった。何度か相槌を打った。
「ねえ、聞いてる?」
「聞いてるよ」
妻が黙った。私はテレビの音を小さくした。
「それで?」
「ううん。もういい」
また連絡すると言って、妻は電話を切った。うまく暮らしているなら、それでいい。ただ、もう少しくらい不便なことがあってもいいのではないか、と思った。
*
三週間ほど経った日曜日、娘からメッセージが来た。
『今日、実家行ってもいい?』
娘が来る日は、仕事を早めに切り上げ、好きな菓子を買って帰った。妻は娘の好物を作り、三人で夕飯を食べた。私はその時間が好きだった。すぐに来いと返したかった。だが、妻はもういない。靴も服も、ほとんどなくなっている。娘はすぐに気づくだろう。
『今日はちょっと都合が悪い。会社の人と約束がある』
『そっか! じゃあまた今度ね』
予定は何もなかった。午後から映画を観るつもりだった。前に妻と観た作品だった。妻は途中で眠ってしまい、私は最後まで一人で観た。今日は、最初から一人だった。
終わり近くで、娘から電話が来た。
「パパ、今日はごめんね、急に。会社の人との約束、楽しかった? 珍しいね、日曜日に会社の人と会うなんて」
「たまにはあるよ」
「そういえば、ママにも連絡したんだけど、ママも今日は忙しいみたい。だから、二人とも無理しなくていいよ。私、もう三十歳だからね。あんまり気にしなくていいから」
「……ああ」
電話を切って、映画の続きを再生した。数分で止めた。さっきの場面で主人公が何を言っていたのか、わからなくなっていた。
*
夜、妻からメッセージが来た。
『今日、あの子から連絡あった?』
『あった。予定があるって断った』
『私もそう言った』
画面を見た。
『そろそろ話したほうがいいかもな』
『そう思う』
『俺から話そうか』
『そうしてくれる? ありがとう』
娘に『今度、少し話がある』と打ちかけて、消した。余計に心配させる。
『今度の日曜、飯でも食わないか』
『いいよ! 何食べる? パパの好きなものにしよう』
娘の好きなものにしたかった。けれど今度は、話さなければならないことがある。駅前の蕎麦屋にしようと返すと、『了解! 楽しみにしてるね』と来た。
返事はしなかった。何か書けば、また嘘をつくことになりそうだった。
*
第四章
日曜日、約束の十分前に蕎麦屋に着いた。奥の席に案内され、メニューを開いたが、何を食べるか決められなかった。娘に何と話すか、まだ考えていた。
妻が家を出たこと。しばらく別々に暮らすこと。離婚するかは決まっていないこと。事実だけなら、長い話ではない。だが理由を聞かれたら何と答えるのか。妻が一人で暮らしたいと言ったから。それでは、妻が勝手に出ていったように聞こえる。
娘が来るまでに、水を二杯飲んだ。
「ごめん、待った?」
「いや、今来たところ」
娘は空のグラスを見た。
「絶対嘘」
娘は天ぷらそばにした。私も同じものにすると、パパはいつも鴨南蛮じゃんと言われた。
「そういえば、ママ元気? 最近、忙しいのかな」
「そうでもないと思うよ」
今話してしまおうかと思った。だが料理が来るまでに話し終える自信がなかった。食べてからにしよう。
娘は後輩のミスを一緒に謝った話をした。
「自分のミスじゃないのに怒られたんだよ。でも、確認しなかった私も悪いんだけどね。その子、すごく落ちこんじゃって。昨日は普通にしてたけど」
「それならよかった」
「パパって、いつもそういうこと言うよね」
娘は昔、失敗すると私に電話をかけてきた。今は、誰かの失敗を心配する側にいる。
*
食べ終わって、温かいお茶が来るのを待ってから口を開いた。
「ちょっと話があるんだ。母さんが、今、家を出てる。別に部屋を借りて、一人で暮らしてる。三週間くらい前から」
娘は湯飲みを置いた。
「どうして」
「一度、一人で暮らしてみたいって。離婚すると決まったわけじゃない。とりあえず一年くらい、別々に暮らしてみようって話で」
娘はテーブルの上を見ていた。それから、私に聞いた。
「パパは? パパは、どうしたいの?」
答えに詰まった。妻がなぜ出たのか、離婚するのか。そういうことを聞かれると思っていた。
「母さんがそうしたいなら、いいんじゃないかと思ってるよ」
「喧嘩したの?」
「喧嘩ってほどじゃない」
「仲悪くなったの?」
「そういうわけでもない」
「でも、一緒には住まないんでしょ」
「そうだな」
説明になっていないと、自分でも思った。
「母さんにも、いろいろ考えるところがあったんだろう」
「パパにはないの?」
責める口調ではなかった。ただ、答えを待っていた。
「考えてないわけじゃないけど」
続かなかった。娘は「そっか」と言い、湯飲みに目を落とした。
「この前、私が実家行っていいって聞いたとき。会社の人と約束あるって言ってたよね。あれ、嘘だった?」
「そうだ。悪かったな。急に話しても驚くだろうと思って、母さんと、落ち着いてから話そうって決めてたんだ」
「怒ってないよ」
娘は笑った。
「私、もう三十なんだけどな。別に、何でも話してほしいわけじゃないよ。でも、あの日、パパ一人で家にいたんでしょ。じゃあ、行けばよかった」
返事ができなかった。娘は、妻のいない家を見に来たかったわけではない。私に会いに来ようとしていたのだ。
「今度は行っていい?」
「もちろん」
思っていたより大きな声が出た。娘が驚いて私を見た。
「いつでも来いよ」
*
駅までの道、娘は今日母親に電話してみると言った。
「パパは、寂しくない?」
「大丈夫だよ」
「本当?」
娘は私を見ていた。好きな時間に食べ、映画を観て、休日は昼まで眠る。その暮らしを、私は気に入っていた。それを娘に言う気にはなれなかった。
「まあ、静かすぎるときはあるけどな」
「そっか」
改札の前で、娘は「今日、話してくれてありがとう」と言った。
「遅くなって悪かったな」
「ううん。今度、実家行くね」
*
三日後、娘から電話があった。昨日、仕事帰りに母親の部屋に寄ったという。
「駅から近くて、思ってたよりきれいだった。家具も自分で選んだんだって。何か、学生の一人暮らしみたいだった。ママ、楽しそうだったよ。でも、パパのこと気にしてた。ちゃんと食べてるかなって」
「食べてるよ」
「そう言ったんだけどね」
妻は、娘が初めて海に入った旅行の写真を見たがったらしい。妻が娘の手を引き、私が写真を撮った旅行だ。
「懐かしいねって言ってた。ねえパパ、ママもちょっと寂しいんじゃない? 別々に暮らしてても、ご飯くらい一緒に食べられるでしょ。たまには誘ってみたら?」
妻は新しい暮らしを楽しんでいる。パン屋に通い、家具を選んでいる。それでも、寂しいと思うことはあるのだろうか。
「考えとくよ」
電話を切ってから、妻にメッセージを送った。
『今度、飯でもどうだ』
『どうしたの?』
やはり、そう聞かれると思った。
『別に。たまにはいいかと思って』
しばらくして返事が来た。
『いいよ。いつ?』
土曜の夕方に決まった。妻の部屋の近くの和食店を予約して名前を送ると、『そこ、気になってた。楽しみにしてる』と来た。
妻が、私との食事を楽しみにしている。悪くなかった。
*
第五章
土曜日、約束の十五分前に店に着いた。結婚する前も、待ち合わせではたいてい私が先に着いた。妻が待たせてごめんと言い、私は今来たところだよと答えた。実際には、十分以上待っていることが多かった。
「お待たせ」
「いや、今来たところ」
「昔から、そればっかりね」
妻は店に入っていった。
奥の二人がけの席だった。一緒に暮らしていた頃は毎晩向かい合って食べていたのに、テレビのない食卓は勝手が違った。ビールで軽くグラスを合わせると、妻はパン屋の話をした。
「食パンもおいしかったの」
「クロワッサンの店だろ」
「覚えてたの?」
妻は次は違うパンを買ってみたいと言った。家にいた頃より、よくしゃべった。娘は、妻も寂しいのではないかと言っていたが、目の前の妻はそう見えなかった。
「そっちは? 困ってない?」
「ああ」
「そう。よかった」
その言葉が、物足りなかった。困ってほしかったわけではない。
「最近、料理してる?」
「昨日は野菜炒めを作った」
「あなたが? 今まで、ほとんど作らなかったじゃない」
「作る必要がなかったからな」
妻が黙った。
「いや、母さんが作ってくれてたから、ってことだよ」
「わかってる」
妻は刺身を食べた。私はそれ以上説明しなかった。
*
食事の終わりに、海の旅行の話になった。
「あのとき、帰りの車で二人とも寝てたよな。あの子もお前も、ぐっすり。俺だけずっと運転してた」
「私も? そうだった? ごめんね」
妻は笑い出した。一度おかしくなると、しばらく止まらなくなる。昔の笑い方だった。私はその顔を見ていた。
「何?」
「いや」
「変なの」
もう少し昔の話がしたかった。だが妻は、娘が仕事で頑張りすぎていないか心配だと話しはじめた。三十なんだから大丈夫だろうと言うと、三十でも心配はするでしょうと言われた。
「あなたは昔から、あの子のことになると大丈夫って言うのね」
駅までの交差点で、妻はごちそうさまと言い、小さく手を振って右に曲がった。食事は悪くなかった。妻の笑う顔も見られた。ただ、またすぐ会いたいかと聞かれたら、よくわからなかった。明日は予定がない。久しぶりに遅くまで寝ていられる。
*
翌日の夕方、娘から電話が来た。
「ママとご飯食べたんでしょ? 楽しかった?」
「まあ、悪くなかったよ」
「よかった!」
「お前、母さんに何か言ったのか。俺が寂しがってるとか」
娘はすぐには答えなかった。
「母さんが寂しがってるって、俺には言ってたよな。実際に、そう言ってたのか」
「そこまでは言ってないかも。でも、パパのこと気にしてたのは本当だよ」
「話を盛ったんだな」
「ちょっとだけ」
「何でそんなことするんだよ」
「会ってほしかったから。だって、二人とも相手のこと気にしてるのに、全然会おうとしないんだもん」
「別居してるんだから、普通だろ」
「そうなの?」
「そうだよ」
母さんが寂しがっていると聞いたから、私は誘ったのだ。妻も、私が寂しがっていると聞かされれば、断りにくかっただろう。
「そういうことは、もうするなよ。母さんにも、俺にも」
「じゃあ、今度からは何も言わないね」
娘の声が小さくなった。
「何も言うなってことじゃない。嘘はよくないだろ。誕生日でもないんだから」
娘は笑わなかった。
「そうだね」
明日も早いからと、電話は切れた。
娘が小さい頃、嘘をついて叱ったことが何度かある。誕生日だけは嘘をついてもいい。そう決めたのは私だ。それ以外の日に嘘をつけば、理由が何でも叱った。泣きながら、どうして誕生日だけいいのと聞かれたこともある。遊びだからだと答えた。娘は納得していなかった。
『さっきは言いすぎた』と打ちかけて、消した。
『また今度、飯でも食おう』
番組が一つ終わる頃、返事が来た。
『うん。今度は私がおごるね』
『三十歳だからな』
笑っている顔の絵文字が届いた。私はテレビを消さずに、しばらくその画面を見ていた。
*
第六章
三週間ほどして、今度は妻から誘われた。この前の店がランチもやっているらしい。日曜の昼に決まった。娘には知らせなかった。妻と会うたびに報告するのもおかしな話だし、娘のほうも、最近は妻のことを何も言ってこなくなっていた。
妻は髪を短くしていた。似合っていると言うと、ありがとうと答えた。窓の向こうに小さな公園があって、子どもが二人ブランコに乗っていた。
「あの子も、ブランコ好きだったね」
「降ろすと怒ったよな」
妻は職場の同僚の話をした。私は質問したが、名前がなかなか覚えられなかった。
「それで、中村さんが?」
「中村さんじゃなくて、中川さん。中村さんは辞めた人」
「似てるだろ」
「似てないよ。やっぱり、聞いてないでしょう」
それから、妻も笑った。会計は、この前ごちそうになったからと妻が払った。妻は美容院の予約があると言って、駅とは反対へ歩いていった。夕方には、何を話したのかほとんど忘れていた。また誘われれば行くだろう、と思った。
*
その次は私から誘った。昔よく通った映画館で、若い頃に観た作品をやることになったのだ。
結婚する前は、よく二人で映画を観た。結婚してしばらくすると、私が選ぶ映画を妻は途中で眠るようになった。もう映画に興味がなくなったのかと聞くと、そんなことはないと言ったが、次も眠った。そのうち誘わなくなった。
久しぶりに隣に座った妻は、最後まで起きていた。エンドロールが終わるまで席を立たず、私も座って待った。
喫茶店で、妻は結末が嫌いだと言った。私はあれでよかったと言った。どちらも譲らなかった。店を出る頃には、登場人物がどうすべきだったかを言い合っていた。
「昔も、こんな話してたよね。あなた、帰りの電車でもずっと映画の話するんだもの」
「お前もしてただろ」
「そうね」
駅まで話は続いた。また面白そうなのがあったら誘って、と妻は言った。
それから、月に一度か二度会うようになった。娘に妻と会った話をすると、「そうなんだ」と言うだけで、以前のように、どうだった、楽しかった、とは聞かなくなった。娘は娘で忙しいらしく、実家に来るという話も出なくなっていた。来たくなったら来ればいい、と私は思っていた。
*
妻が家を出て半年が過ぎた頃、駅前の居酒屋で食べた。最初から会話は弾まなかった。妻は職場で揉め事があったらしく、同僚が二人言い争い、そこへ別の同僚が口を出したという話を始めた。
「それで、結局どっちが悪かったんだ」
「そういう話じゃないの」
「でも、揉めたんだろ。そんな人たち、放っておけばいいじゃないか」
「放っておけないから困ってるの。あなた、本当に変わらないね」
せっかく食事に来たのに、なぜ職場の喧嘩で責められなければならないのか。妻はそれきり仕事の話をしなくなった。私も別の話を探したが、見つからなかった。料理が来た。妻は焼き魚を、私はポテトサラダをつまんだ。終わり頃になって、妻が言った。
「やっぱり、毎日一緒にいたら大変だね」
言い返そうとした。妻が勝手に腹を立てて、勝手に黙っただけではないか。けれど、一緒に暮らしていた頃なら、家に帰ってからも妻の機嫌を気にしなければならなかった。私がテレビをつけ、妻が黙って皿を洗う。やがて妻が何か言い、私が言い返す。そんな夜が何度もあった。
「そうかもな」
*
店を出ると雨だった。妻が折り畳み傘を出し、私も入った。二人には小さかった。妻の肩が濡れないように傘を寄せると、私の右肩に雨が当たった。信号を待っていると、妻が言った。
「さっきは、ごめんね。聞いてくれてありがとう」
何を言いたかったのか、結局わかっていなかった。
駅の屋根の下で傘を畳むと、妻は鞄から銀色の鍵を出した。
「これ、返しておくね。もう使わないから」
「持ってればいいだろ。いつ何があるかわからないし」
「何かって?」
答えられなかった。
「忘れ物があったら、取りに来ればいいし」
「必要なものは、もう全部持ってきたよ」
妻はもう一度、鍵を差し出した。私は手を出した。鍵は雨で冷えていた。
「じゃあね」
妻が改札を通るのを見てから、鍵をポケットにしまった。帰りの電車で、濡れた右肩が冷たかった。
*
家に帰り、その鍵を引き出しにしまった。印鑑や保証書が入っている一番上の引き出しだった。妻の鍵には、小さな傷がついていた。何度も鍵穴に差しこまれていたはずなのに、私はその傷を初めて見た。
数日後、娘から電話があった。仕事で新しい担当を任されたという。
「ママとは最近どう?」
「この前、飯食ったよ」
「そうなんだ。よかったね」
それだけだった。友人の結婚式に着ていく服を迷っていて、もう妻には相談したという。写真が三枚送られてきた。私にはどれも同じに見えた。一番明るい色がいいと返すと、『ママもそれがいいって言ってた!』と来た。
嬉しかった。
*
翌週の日曜、物置を片づけていて、娘の部屋の扉が目に入った。開けると、しばらく使っていない布団や季節外れの家電が置いてあった。窓際に段ボールが三つあり、中学の頃のノートや学校の書類が入っていた。捨てていいのかわからず、元に戻した。本棚の本を一冊抜くと、表紙の裏に、ひらがな混じりの小さな字で娘の名前が書いてあった。
娘は最近、なかなか帰ってこない。いつ来てもいいように、部屋を片づけておこうと思った。段ボールを廊下に出し、掃除機をかけ、棚の埃を拭き、押し入れから客用の布団を出した。シーツが古くなっていたので、近所の店で新しいシーツと枕カバーを買った。どれがいいかわからず、白いのを選んだ。本棚の上の小さな時計は、娘が小学校に入ったときに買ったものだった。止まっていたので電池を替えた。秒針が動きはじめた。
窓を開けると風が入ってきた。これなら、娘がいつ泊まりに来ても困らない。
*
その夜、娘に電話した。
「パパ、どうしたの? この前も話したじゃん」
「いや、元気かと思って」
新しい仕事が忙しいが、前より面白くなってきたと娘は言った。
「パパ、最近ママと仲いいね。前より会ってるでしょ」
「まあ、たまにはな。お前、今度いつ帰ってくるんだ」
「うーん。最近、土日も予定あるんだよね。でも、また行くよ」
「泊まっていってもいいぞ。部屋もあるんだし」
「何それ、急に。落ち着いたら連絡するね」
それ以上は勧めなかった。娘には娘の暮らしがある。
電話を切ってから、娘の部屋の布団を見にいった。新しいシーツには、まだ折り目が残っていた。枕カバーは、袋から出さずに棚の上に置いた。
その夜、妻から、来月駅前に中華料理店ができるらしいと連絡が来た。行ってみないかという。手帳を開いて、『いいよ』と返した。
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第七章
娘の三十一歳の誕生日も、同じイタリア料理店にした。ホームページを見ると、あのピザは値段だけ上がって、写真は変わっていなかった。今年もあの店でいいかと娘に聞くと、『いいよ! あそこのピザ食べたい!』とすぐに返ってきた。その画面を妻に送った。
『ほらな』
『よかったね』
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誕生日の前の週、妻と映画を観て喫茶店に寄った。妻はパン屋の近くに小さな本屋を見つけたと言った。この前は料理の本を買ったという。
「まだ料理の本なんて買うのか」
「まだって、何? 新しい料理も作りたいじゃない。一人だとね、好きなものばっかり作っちゃうから」
「わかるよ。最近、同じものばっかり食べてる」
「でしょうね」
腹が立ちかけた。けれど、同じことを一人で暮らしている妻に言われると、不思議と嫌な感じはしなかった。
店を出ると、妻が言った。
「そういえば、部屋の更新、済ませたの。家賃は変わらなかった」
「そうか。それならよかったな」
妻は何も言わなかった。しばらく歩いてから、私は言った。
「今度、部屋見せてくれよ」
「うち? 何しに?」
「別に。どんなところかと思って」
「何もないよ」
少しして、妻は前を向いたまま言った。
「今度、片づいてるときなら」
妻の部屋について私が知っているのは、駅から近いことと、近くにパン屋があることくらいだった。娘は何度か行っているらしい。写真を見せてもらったこともある。白い壁と、小さなテーブルが写っていた。なぜ今まで一度も行かなかったのだろう。妻が呼ばなかったからだ。私も、行きたいと思ったことはなかった。
「来週、楽しみだね」
別れ際に妻が言った。
*
誕生日、私は十五分前に店に着いた。案内されたのは去年と同じ席だった。娘は肩より短い髪で現れた。
「髪、切ったのか」
「一か月くらい前。この前も会ったじゃん」
二か月前に一緒に食事をした。そのときにはもう切っていたらしい。
「似合ってるよ」
「ありがとう」
娘はすぐにピザのページを開いた。
「今年もこれにする」
「そうだと思ったよ」
妻が来ると、娘は立ち上がって手を振った。
「遅いよ。私たち、もう来てるもん」
「まだ時間前でしょう。あなたも、また早く来たの?」
「今来たところだよ」
「二人とも、嘘ばっかり」
妻が言うと、娘が笑った。
「今日は嘘ついていい日だからね」
「三十一歳になっても?」
「何歳になってもいいの」
*
娘は相変わらず忙しいらしかった。無理するなよと言うと、パパそればっかり、たまにはお疲れさまとか言ってよ、と言われた。
「お疲れさま」
「そうそう」
妻が娘に来月の予定を聞き、娘はスマートフォンを出して確かめはじめた。その日はもう約束がある、その次の週なら。料理を取り分けながら、何の話かと聞くと、二人で買い物に行くのだという。
「パパも来る?」
「遠慮しとくよ」
「だよね」
二人はまた日にちの相談に戻った。私は取り分けた料理を食べた。
*
ピザが来ると、娘は嬉しそうに一切れ取った。妻は、この店で誕生日を祝ったとき、娘がケーキのろうそくを一息で消せなかった話をした。娘は覚えておらず、私はなんとなく覚えていた。
「パパ、写真撮ってたよね。まだあるかな」
「アルバムに入ってるんじゃない?」
「今度探しておくよ」
娘の部屋を片づけたことを話そうとしたが、妻が別の話を始めたので、そのままになった。
*
デザートが来ると、娘が言った。
「そういえば、今日は嘘ついていい日だね」
「今年は何を言うの?」
妻が聞いた。娘は私と妻を順番に見た。
「じゃあさ。私、今でもパパとママが一番好き」
「何それ。嘘なの?」
妻が先に笑った。娘は肩をすくめた。
「今日は嘘ついていい日だから」
「ひどい娘だな」
「だって、もう三十一だよ。親が一番好きとか、言わないじゃん」
「言ってもいいだろ」
「じゃあ、本当ってことにしようかな」
「どっちなんだよ」
娘は答えず、デザートを口に運んだ。
「三十一歳まで続くとは思わなかったね、この遊び」
「来年もやるよ」
「じゃあ、来年はもっと上手な嘘を考えてきなさい」
「それ、今のが下手ってこと? ママひどい!」
今年の嘘は、娘にしてはずいぶん単純だった。三十一になっても両親が一番好き。本当のことを言うのが照れくさくて、嘘ということにしたのだろう。
「来年もここでいいか」
「うん。ここがいい」
「また同じピザ?」
「うん」
娘は当然のように答えた。
*
三人で駅まで歩いた。娘が仕事の話をし、妻がときどき質問した。私は、二人の少し後ろを歩いた。改札の前で、娘は私と妻を順番に見た。
「二人も、元気でね」
「あなたもね」
妻が言った。私は片手を上げた。娘は改札を通り、途中で振り返って、もう一度手を振った。
「楽しかったね」
駅を出ると、妻は来週行く中華料理店の話を始めた。昼は混むらしい。予約しておいたほうがいいかと聞かれ、頼むと答えた。いつもの交差点で、妻は右に曲がる。私は駅に戻る。
「じゃあ、来週ね」
妻は手を振って歩いていった。
*
家に帰ると、娘から『今日はありがとう! 楽しかった!』と来ていた。『誕生日おめでとう。また飯でも食おう』と返すと、『うん! またね!』とすぐに来た。
風呂に入ろうと廊下に出ると、娘の部屋の扉が開いていた。昼間、掃除をしたときに閉め忘れたのだろう。布団は畳んだままで、新しいシーツにはまだ折り目が残っていた。窓の鍵を確かめた。
本棚の上で、時計が動いていた。手に取ると、一分ほど遅れていたので、針を合わせて棚に戻した。
娘が泊まりに来るなら、枕も要る。押し入れから枕を出し、買っておいたカバーを掛けて、布団の上に置いた。
照明を消し、扉を閉めて、風呂場へ向かった。
了