書き下ろしイヤミス

体験版

約11,418字 読了目安 約23分 2026年10月28日 公開

一 娘の値段

「犯人のほう、返品が増えてます」

佐伯が言った。

「理由は」

「期待したほど興奮しなかった、が多いですね」

三浦圭介は椅子ごと佐伯の机に寄り、画面を覗いた。

黒木徹の犯行記憶は、発売から二か月で十一万本売れていた。一本四千八百円。事件ものとしては今年三番目のヒットだったが、ここへきて販売数が落ち始めている。

『犯人がずっと焦ってるだけだった』

『もっと特別な感覚があると思っていた』

『これなら被害者側を体験したかった』

「最後のやつ、けっこう多いんですよ」

「被害者の記憶は」

「今回の事件のですか。先月、ご遺族に断られてます」

「犯人のが出る前だよね。もう一度お願いしてみよう。最低保証を三百万にして」

「高くないですか。前回の試算、百八十万でしたけど」

「それじゃ話も聞いてもらえないでしょ」

佐伯真紀は数字を打ちこんだ。二十九歳。映像配信の会社から移ってきて四年になる。商品の中身より、それを買う人間の動きに興味がある女だった。どこで再生を止めたか、何歳の客が買ったか、レビューにどんな言葉が出てくるか。圭介が記憶の中身を見ているあいだ、佐伯はそれを買った人間を見ていた。

「被害者側って、そんなに売れますかね。犯人のほうが珍しくないですか」

「珍しいのと、買いたいのは別だよ」

佐伯は納得のいかない顔のまま、次の画面を開いた。

四年前、森下奈緒という三十一歳の女性が、帰宅途中に殺された。犯人の黒木はすでに服役している。事件は当時大きく報じられ、最近になって黒木の記憶が売り出されたことで、また話題になっていた。

奈緒の最後の記録も残っている。捜査と裁判に使われたあと、管理する権利は、本人が指定していた母親に移っていた。母親の森下澄子は前回の問い合わせに、娘の死を見世物にしたくないと答えている。

「今度も断られたら?」

「諦めよう。無理に頼むものでもないし」

圭介は以前、ドキュメンタリー番組を作っていた。取材相手が本当は何を感じているのか知りたくて、何度も同じ質問をした。だが人は、自分の気持ちをうまく言葉にできない。カメラを向けられていれば、なおさらだ。記憶なら、本人が言葉にできなかった感情まで残っている。それに惹かれて、この仕事に移った。

今でも、記憶を確かめているうちに時間を忘れることがある。ただ、確かめ終えたあとには、必ず値段を考えるようになっていた。

森下澄子の家は、駅から十五分ほど歩いた住宅街にあった。五十九歳。離婚して十年以上、一人で暮らしているという。居間には小さな観葉植物がいくつか置かれ、窓際の鉢だけ葉が黄色くなっていた。

「三百万って、本当ですか」

澄子は資料を開く前に聞いた。

「はい。最低保証としてお支払いします。売れなくてもです。売れれば、販売数に応じて追加でお支払いします」

「じゃあ、犯人の人はどのくらいもらってるんですか」

「申し訳ありません。あちらの契約については、お答えできないんです」

「そうですか。でも、ずいぶん売れたんでしょう。人殺しの記憶なんか、何が面白いんでしょうね」

圭介は答えなかった。

「私も、ちょっと見たい気はするんですけどね。あの人の頭の中を見たら、娘がどうしてあんなことになったのか、少しはわかるのかなって」

「体験しても、理由がわかるとはかぎりませんが」

「でしょうね。普通の人間だって、自分が何考えてるかわからないことありますもんね」

澄子はお茶を飲み、窓際の鉢に目をやった。

「娘のほうは、売れるんですか。犯人より?」

「それは、出してみないと」

「でしょうね。変な話ですよね。あの子、生きてるときは、そんな大金稼いだことなかったと思うんですけど」

それから資料をもう一度見た。

「でも、三百万かあ。もう少し、上がりませんか。五百万」

「社内の承認が要ります」

「じゃあ、四百万」

圭介は思わず笑った。澄子も笑った。

「こういう交渉、初めてで」

「いえ。大事なことですから」

圭介は契約の中身を説明した。奈緒は生前、死後の記録の管理を母親に任せる設定にしていた。審査を通れば、商業利用も管理者が承認できる。ただ、奈緒が自分の最期を商品にされることまで想像していたかどうかは、誰にもわからない。

「名前は出すんですか。……でも、事件のことはみんな知ってるでしょう。隠しても仕方ないか」

澄子は資料の端をそろえた。

「私も、発売前に見られるんですよね。娘が見たものを。痛いのも?」

「再現される場合があります。ただ、強さは調整できます」

「じゃあ、娘が感じたのと、まったく同じじゃないんですね」

「完全に同じではありません」

「よかった。同じじゃないなら、見られるかもしれない」

圭介は、用意していた説明を一つ飛ばした。

澄子は、販売を始めてから取り消せるか、買った人がどこまで記録を残せるかを確かめた。説明が終わると、圭介の名刺を裏返して眺めた。

「私、昔は娘に、そんなものにお金払うなんて馬鹿みたいだって言ってたんです。旅行の思い出を残すんだって、毎月けっこうな額を払ってたから。北海道に行きたいって、よく言ってました」

「行かれたんですか」

「いいえ。休みが取れないとか、お金がないとか言ってるうちに。写真だってろくに整理しないのに、記憶なんか残してどうするのって、よく喧嘩しました。結局、一度も見返してなかったと思います」

澄子は名刺を表に戻した。

「でも、残しておいてくれてよかったんでしょうね」

帰りぎわ、玄関で念を押された。

「じゃあ、四百万でお願いしますね。言ってみるものですね」

帰りの電車で佐伯に電話し、最低保証を四百万に上げる案を伝えた。

「三百万でも高いって言ってたのに。交渉されたら上げるんですか?」

「今回は上げる」

ため息が聞こえた。

「わかりました。部長には私から言っておきます」

圭介は礼を言って、次の訪問先の資料を開いた。

二 もう一度、生きる

奈緒の最後の記録は、八分四十二秒だった。

圭介は、コンビニで買い物をするところから確かめた。冷蔵ケースの前で、奈緒は炭酸水を取り、棚に戻し、お茶を取った。ガラスに映った顔は、報道で使われた写真よりずっと疲れていた。

仕事で嫌なことがあったらしい。部下のミスを自分が頭を下げて謝ったこと。上司がそれを当然のように受け取ったこと。帰りの電車で、隣の男の肘が何度も当たったこと。言葉で聞こえるわけではない。感情と、それにくっついた記憶のかけらが流れこんでくる。誰かに愚痴を言いたかった。でも、電話するほどのことでもなかった。明日は休みだった。

信号が青になり、奈緒は歩き出した。次の交差点に、男が立っていた。黒木だった。

体がこわばる。気づかれずに通り過ぎたい。それが最初の感覚だった。黒木が話しかけてくる。奈緒は立ち止まらない。声が近づく。足が速くなる。そこで恐怖が始まった。

圭介は再生を止めた。

「休憩ですか」

「ちょっと水を飲みたい」

装置を外すと、肩が固まっていた。十分ほど休んでから、続きを再生した。

奈緒は逃げようとした。声を出そうとした。何が起きているのか、うまくのみこめない。助かりたい。どうして私なのか。こんなところで死ぬはずがない。その確信が何度も揺らぎ、そのたびに少しずつ削れていく。

最後のほうは、記録が途切れ途切れになっていた。音が遠のき、視界が定まらない。誰かに何かを伝えたい。その感覚だけが一瞬残り、やがて意識が消えて、記録が終わった。

「商品になりますか」

「なると思う」

圭介は、恐怖のいちばん濃いところを中心に、五分五十一秒に編集した。コンビニの場面は冒頭の十数秒だけ残した。逃げられると何度も思い、そのたびに望みを失っていく時間は、できるかぎり残した。

「値段は」

「六千八百円」

「五分で六千八百円ですか」

「五分だからね」

「完走率、低くなりそうですけど」

「今回はそれでいいと思う」

発売前の確認には、澄子も立ち会った。途中で再生を止め、その日は最後まで見なかった。それでも販売の許可は出した。

「皆さん、これをお金払って見るんですね。変わってますねえ」

電話口でそう言ってから、少し間を置いた。

「でも、売ってください」

発売初日は一万二千本だった。三日目までは予想どおりで、四日目から数字が伸び始めた。

「広告、何か変えた?」

「いえ。口コミみたいです」

佐伯が感想を並べた。

『怖すぎて途中でやめました』

『二度と見たくない』

『今まで買った中で一番後悔した記憶です』

「ひどい評価だね」

「それが、みんな星五つなんですよ」

佐伯は別の感想を開いた。

『終わったあと、しばらく自分の手を見ていました。生きてるんだと思いました』

圭介はその一文を読み返した。

「これ、面白いね」

「似たようなの、けっこうありますよ。終わった瞬間、妙に安心したとか。死ぬのが怖くなくなると思って買ったら余計に怖くなった、でも買ってよかった、とか。週に三回再生してる人もいます」

圭介は首をかしげた。編集のために何度も見たが、仕事でなければ繰り返したいとは思わない。

「再生のあとに何を感じたか、調べてもらえる? 怖かったかどうかじゃなくて」

翌週に集まった答えには、はっきりした傾向があった。恐怖の強さを評価した客より、終わったあとの安心感を評価した客のほうが、繰り返し再生している。事件に興味があったわけではない、と答えた人も多かった。人に勧められたから。気分を変えたかったから。何か強いものを感じたかったから。

「事件ものとして売る必要、ないのかもしれないね。怖い記憶を買ってるんじゃなくて、怖い記憶から戻ってくる感覚を買ってるんだよ」

「でも、体験するのは同じものですよね」

「同じでいい」

圭介は販売ページの新しい案を作った。

『もう一度、生きる』

「これ、どう?」

「死んだわけじゃないのに?」

「記憶の中では、その直前まで行くから」

「本人は、亡くなってますよね」

「そうだね」

「私は、あんまり好きじゃないです」

圭介はほかの案も考えたが、社内でいちばん評判がよかったのは最初の案だった。販売ページには、今生きていることを強く感じました、という感想を引用した。強い心理的負担を伴う可能性があることは明記し、健康への効果をうたう表現は避けた。

ページを変えた翌週から、売上が伸びた。自己啓発やウェルネスを扱う配信者たちが紹介し、奈緒の記憶は体験型商品の総合ランキングに入った。二か月後、黒木の販売数を抜いた。

「加害者側、抜きましたよ。向こう、悔しいでしょうね」

「別に競争してるわけじゃないでしょ」

「ランキングでは競争してますよ」

圭介は笑った。新しい客の七割は、それまで事件ものを一度も買ったことのない人たちだった。

圭介は、死の直前の記憶だけを扱う新規事業の企画書を書き始めた。記憶保存の事業者、医療機関、遺族向けの契約サービス。仕入れを続ける仕組みさえ作れば、大きな市場になる。

「三浦さん、楽しそうですね。さっきからずっと画面見て笑ってますよ」

「面白い企画になりそうだから」

「私も、こういうのやってみたかったんです」

佐伯は新しい市場の売上予測を作り始めた。

三 母親の記憶

「先月のお金、間違ってませんよね」

澄子から電話があったのは、奈緒の記憶が総合ランキングで一位になった翌週だった。

「販売数が伸びましたので、間違いありません」

「驚いちゃって。娘が生きてたら、私に半分よこせって言いますよ。ケチだったんです。私が貸した千円も、ちゃんと返してくる。返さなくていいのに。そのかわり、借りるときも遠慮がないの」

澄子はそこで話を変えた。

「私ね、娘の記憶を、もう一度見たんです。今度は最後まで。怖かったですよ。あの子、あんなに怖かったんですね。でも、二回目は最初ほど怖くなかった」

「繰り返し体験すると、反応が変わることがあります」

「慣れるんですねえ。娘の最後にも、慣れるものなんですね」

澄子は不思議そうに言った。それから、娘のほかの記憶は売れないのかと聞いた。旅行や、失恋の記憶。圭介は、そういうものは出回っている数が多く、大きな売上は見込めないと説明した。

「じゃあ、そっちは自分で見ます。売れるほうは三浦さんにお任せしますから」

一か月後、澄子が会社に来た。鞄から取り出したのは、彼女自身の記憶だった。

「娘の最後を見たときの、私の記憶です。自分でも保存を始めたので」

追体験している人間の経験を、さらに保存することはできる。残るのは元の記憶の複製ではなく、それを体験している本人に湧いた感情と、そのとき連想したことだ。長さは二十一分十三秒。圭介は編集室で装置をつけた。

最初に、澄子の家の居間が見えた。湯飲みを持っている。装置をつけようとして、一度やめる。台所で水を飲み、また椅子に戻る。

やがて奈緒の記憶が始まった。圭介が自分で体験したときとは、まったく違う感覚だった。澄子は、娘がこれから何をされるか知っている。それでも、逃げられると何度も思ってしまう。助かるはずがないと知っているのに、助かってほしいと願っている。

事件と関係のない場面も、何度も浮かんだ。小学校の入学式の朝の奈緒。初めて一人で電車に乗った日。母親が買ってきた服を、奈緒が着なかったこと。澄子が怒り、奈緒も怒り、そのあと二人で外へ食べに行ったこと。そんな記憶が、事件の途中にも割りこんでくる。

娘の最期の記録が終わった。澄子は装置を外し、しばらく動かなかった。悲しみと、疲れと、それから短い安堵が伝わってきた。深く息を吐いたような感覚だった。何かが終わった。ようやく終わった。

澄子は立ち上がり、台所で湯飲みを洗った。そのあいだも感情は続いていた。夕飯をどうしよう。冷蔵庫に何が残っていたか。明日はスーパーに行かなければ。そしてまた、娘のことを思い出す。奈緒はもういない。四年も経っているのに、そのことに少し驚いている。

記録が終わった。

「どうでした?」

「面白いね」

「商品として、ですか。でも地味じゃないですか。最後、お皿洗ってましたよね」

「そこがいいんだよ」

圭介は、湯飲みを洗う部分をもう一度確かめた。娘の最期を見終えた母親が、台所で食器を洗う。そのあいだにも、娘を思い出している。

「商品名、どうします?」

「『娘の最期を見た母親』とか」

「そのままですね。『母親の本心』は? 娘の最後を見たとき、母親が何を感じたのか。そういう商品ですよね」

「悪くないね」

正式な商品名は『娘の最期を見た母親の記憶』にし、販売ページに「母親の本心を追体験」という言葉を添えた。

澄子は発売前の確認で最後まで再生し、圭介に言った。

「私、案外普通ですね。もっと泣いてるかと思った」

「感情が強いことと、泣いていることは別ですから」

「そうなんですか。じゃあ、よかった」

最低保証は五十万円、追加の分配は奈緒のときと同じ方式にした。

「また三浦さんに儲けさせてもらっちゃう。今度は私のですから」

帰りぎわ、澄子は前より慣れた手つきで契約書を鞄にしまった。

初日は三千八百本。奈緒のときほどではないが、悪くない数字だった。三日目の昼過ぎ、佐伯が圭介の机に来た。

「ちょっと見てください」

『母親の感情が、思っていたのと違いました』

『最後の部分、あれは何ですか』

『この人、娘が死んだことに安心してませんか?』

「安心?」

「そういう感想が急に増えてるんです」

佐伯が画面を切り替えた。記憶を紹介する配信者が、澄子の商品を取り上げていた。見出しにはこうあった。

『娘が殺されたことを喜んだ母親?』

再生数は八十万回を超えていた。配信者は断定していなかった。娘の最期を見終えた母親の安堵は、何を意味するのか。追体験が終わったことへの安心か。それとも別の理由か。だがコメント欄には、もう結論を書いている人間がいた。

『だから娘の記憶を売ったんだ』

『四百万で契約したって本当?』

『本当の感情は隠せないんですね』

「森下さんには?」

「まだ連絡してません」

「俺から電話する」

連絡先を開いたところで、佐伯が言った。

「三浦さん。売上、ものすごく伸びてます」

午前中だけで、前日までの累計を超えていた。総合ランキング四位。圭介は数字を確かめてから、電話をかけた。澄子は出なかった。

四 本当の気持ち

つながったのは夕方だった。

「すみません、気づかなくて」

澄子の声はいつもと変わらなかった。圭介は、客のあいだで議論が広がっていることを説明した。娘の最期を見たあとに安堵しているように受け取られたこと。その理由についていろいろな憶測が流れ、澄子を責める声も出ていること。澄子は口を挟まずに聞いていた。

「私、娘が死んで安心してたんですか」

「そう受け取った方がいる、ということです」

「でも、実際に残ってたんでしょう」

「安堵に近い感情は、記録されています」

電話の向こうで、澄子が息を吐いた。

「娘の最後を見終わったとき、ほっとしたのは覚えてます。あれ、つらかったですから。でも、娘ももう苦しまなくていいんだ、って思ったのかもしれない。事件のあと、いろんなことがあったんですよ。裁判も、取材も。普段連絡してこない親戚まで、いろいろ言ってきて。娘が死んだとき、私の人生も終わったような気がしたんです。でも四年経って、普通に暮らしてるんですよね。スーパーにも行くし、お腹もすくし。テレビ見て笑ったりもするし」

湯飲みを洗いながら夕飯のことを考えていた記録を、圭介は思い出した。

「ほっとした理由なんて、一つじゃないんじゃないですかね」

「僕もそう思います」

「三浦さんにも、わからないんですね」

「感情はわかります。でも、その理由を一つに決めることはできません」

「じゃあ、みんなもわからないんじゃないですか。なのに、ずいぶんいろいろ言うんですねえ」

圭介は販売を止める選択肢もあると説明した。

「でも、もう買った人の記憶は消せないんでしょう。お金も入らなくなるんですよね」

「販売数に応じた分配は、なくなります」

「やっぱり」

澄子は販売を続けたいと言った。

「私、別に嘘ついてるわけじゃないでしょう。娘が死んで喜んでたっていうのは違うと思うんです。でも、安心したのは本当みたいだし。みんながどう思うかまで、私が責任取らないといけないんですか」

「いえ。そういうことではありません」

「だったら、売ってていいと思うんですけどね」

圭介は社内で検討すると答えた。澄子は、家まで取材に来る人がいたらどうすればいいかと聞いた。窓口を教えると、電話の向こうで何かを書き留める音がした。

「私、有名人みたいですね。娘のときは、あんなに取材が嫌だったのに」

翌日の会議で、販売の継続が決まった。法務の担当者が条件を読み上げ、佐伯が直した販売ページを示した。

「『母親の本心を追体験』、外したほうがいいと思います。本心って言われると、そこに答えがあると思いますよね」

「俺が通した文章だね。外そう」

記録は手を加えていない。権利者も販売を望んでいる。説明に問題があるなら、そこを直せばいい。圭介は修正を承認した。

販売は続き、騒ぎも続いた。

『本心を売りにしておいて、今さら何を言っている』

『都合が悪くなると解釈の問題にするのか』

その日の午後、佐伯が売上報告を持ってきた。

「また一位です。奈緒さんのを抜きました。今までで一番売れてます」

売上の線は、前日よりさらに急な角度になっていた。

「宣伝、再開します?」

「いや、もう少しこのままにしよう」

圭介は澄子に電話して、販売を続けることを伝えた。

「ご迷惑をおかけして、すみません」

「森下さんが謝ることではありませんよ」

「それならよかった。ところで三浦さん。娘のときより、売れてるんですって? 私のほうが?」

「はい。今のところは」

「へえ」

澄子は驚いたようだった。報告書をまた紙で送ってほしいと頼んでから、電話を切る直前に言った。

「私にも、値打ちがあるんですね」

圭介は思わず笑った。

「そう思います」

澄子は嬉しそうに礼を言った。

五 まだない記憶

騒ぎが始まって三週間が経つと、澄子への批判は減り始めた。代わりに、他人の感情を勝手に決めつけることへの批判が増えた。悲しみと安心は同時にあっていい。人の気持ちを商品で裁くべきではない。

「まだ落ちないですね。批判してた人が、今度は擁護する動画を出してますよ。前の動画も残したまま」

佐伯が言った。圭介は売上表を閉じた。来週は新事業部の会議がある。記憶保存会社との提携案をまとめなければならない。

「そういえば、森下さんから新しい記録が届いてます。騒ぎが始まった日のだそうです。二時間くらいあって、どこを商品にすればいいかわからないって」

「午後、一緒に見ようか」

記録の冒頭には、澄子の家の居間が映っていた。テーブルに新聞と湯飲み。スマートフォンが鳴る。知らない番号だった。澄子は出ない。もう一度鳴る。今度は圭介の会社からだった。画面を見て、やはり出ない。洗濯物を取りこみ、台所に立ち、冷蔵庫を開けて夕飯の材料を確かめる。そのあいだも通知は何度も届いていた。

ようやく画面を開くと、娘の写真が出てきた。その下に、自分のことが書かれていた。

『娘が殺されたことを喜んだ母親』

最初に湧いたのは戸惑いだった。次に怒り。誰がこんなことを書いたのか。娘が殺されて嬉しいわけがない。

そのあとに、別の感情が来た。驚き。それから、かすかな興奮。自分の記憶が、こんなに話題になっている。

興奮に気づいたとき、澄子は居心地が悪くなった。画面を閉じ、台所で手を洗った。洗う必要はなかったのに、石鹸までつけていた。それからまたスマートフォンを開き、自分の商品のページを見た。ランキングが上がっていた。どのくらい売れたのだろう。すぐに、そんなことを考える自分が嫌になった。娘が死んだことで、またお金のことを考えている。それでも、数字が気になった。澄子は売上報告を開いた。

圭介は再生を止めた。

「ここ、使えると思う。前後も残したい」

続きを再生すると、澄子は何度も批判を読み返していた。腹が立つ。悲しい。どうして知らない人間にこんなことを言われなければならないのか。だが、それだけではなかった。大勢の人が自分を知っている。自分の記憶を買い、自分が何を感じたのかを話し合っている。五十九年生きてきて、初めてのことだった。それを、少し嬉しく思っていた。

記録の終わりのほうに、圭介との電話が残っていた。自分の声が、澄子の側から聞こえてくる。思っていたより事務的な声だった。

「私にも、値打ちがあるんですね」

「そう思います」

その直後、澄子の感情がぱっと明るくなった。圭介は再生を止め、同じところをもう一度確かめた。

「ここも残そう」

「三浦さんとの電話ですか? ご自分の声が入りますよ」

「必要な確認はするよ」

佐伯が編集画面に印をつけた。

「売れそうですか」

電話に出た澄子は、まずそう聞いた。

「はい。十分に可能性があると思います」

「ああ、よかった」

圭介は、記録には批判への怒りだけでなく、売上への関心や興奮も残っていると説明した。客がいろいろな受け取り方をする可能性があること。批判がまた起きるかもしれないこと。

「そうでしょうねえ。でも前のだって、変なふうに受け取られたんでしょう。じゃあ、何を売っても同じかもしれませんね」

圭介は否定しなかった。

「私、あのとき、そんなにいろんなこと考えてたんですか。腹が立ったのは覚えてます。悲しかったのも。でも、売上が増えて嬉しかったのも、本当なんでしょうね。嫌ですねえ」

湯飲みを置く音がした。

「最近、娘のことを考えると、売上のことも一緒に考えちゃうんですよ。前はそんなことなかったのに。でも、悪いことばっかりじゃないんです。知らない人が今でもあの子の話をしてるんでしょう。それは嬉しいんですよ」

「そうでしょうね」

「三浦さんは優しいですね」

圭介は、そんなことはありませんよと答え、販売条件の話に移った。最低保証額。発売日。販売を止められる条件。澄子は慣れた様子で質問し、最後に承諾した。

「今回はまた、前のより売れるんでしょうか」

「それは出してみないとわかりません」

「そうですよね」

少し間を置いて、澄子が言った。

「あのとき、もっと怒ってたほうが売れたかもしれませんね。泣いたり、取り乱したりしてたら、見たい人もいたんじゃないかと思って」

「感情が強ければ必ず売れる、というわけではありませんよ。無理に何かを感じようとする必要はありません」

「そうですよねえ」

澄子は、電話の向こうでまた何かを書き留めているようだった。

数日後、佐伯が新しい商品のページを仕上げた。商品名は『自分が嫌われていると知った日』。その下に短い説明が添えられていた。

『娘の最期を売った母親が、初めて自分への批判を知ったときの記録』

画面には三つの商品が並んだ。奈緒の最期。娘の最期を見た母親。その母親が、自分への批判を知った日。

「四本目も出せそうですかね」

「森下さん次第かな」

そのとき、圭介の端末にメールが届いた。澄子からだった。

『北海道のことなんですけど、まだ迷ってます。一人で行っても、そんなに楽しくないでしょうし。でも娘が行きたがっていたところだから、一度くらい行ってみようかと思って。もし行ったら、旅行の記憶はやっぱり売れませんかね』

最初に澄子の家を訪ねた日のことを思い出した。奈緒は北海道に行きたがっていた。休みもお金もないと言っているうちに、行けなかった。

圭介は奈緒の保存記録を開き、検索欄に「北海道」と入れた。何も出てこなかった。旅の予定には、強い感情がともなっていなかったのかもしれない。誰かと何気なく話しただけだったのかもしれない。一覧には、奈緒が残した何千時間もの記録が並んでいた。休日の買い物。仕事帰りの夕飯。友人と会った日。コンビニでお茶を買った日の記録も、その中にあった。

一覧を閉じて、澄子のメールに戻った。北海道の旅行記憶はすでにいくらでも売られている。景色や料理だけでは、大きな売上は見込めない。だが澄子には、これまでの商品を買った客がついている。

返信を打った。

『森下さんの場合は、普通の旅行とは違いますから、商品としても可能性があると思います。ぜひ記録を残しておいてください』

送ろうとして、手を止めた。澄子は、行くかどうか迷っている。背中を押すきっかけがあれば、決められるかもしれない。圭介は文面を書き直した。

『ぜひ行ってみてはいかがでしょうか。娘さんが行きたがっていた北海道ですし、森下さんにとっても大切な旅になると思います』

そこに、記憶保存の案内を書き足した。

『よろしければ、出発前に奈緒さんの記録を一緒に見返してみませんか。北海道のことを話されていた場面が残っているか、こちらでも確認できます。旅行中も、娘さんのことを思い出したときは記録を切らずに、そのまま残しておくといいと思います』

送信した。しばらくして返事が来た。

『ありがとうございます。そうですよね。せっかくだし、行ってみます。娘と一緒に行くみたいですね。楽しみになってきました』

圭介は佐伯の席へ行った。

「森下さん、北海道に行くそうだよ。亡くなった娘さんが行きたがってた場所に、お母さんが行く」

「それ、いいですね。出発前から記録してもらいましょうよ」

「今、そうお願いしたところ」

「さすがですね。仮タイトル、どうします?」

「娘と行けなかった北海道、かな」

「でも、娘さんと行く約束してたんですか?」

「そこまでは聞いてない」

「じゃあ、『娘が行きたかった北海道』とか」

「そうだね。それなら事実と違わない」

佐伯が打ちこんだ。

『娘が行きたかった北海道』

その下に、企画に必要な欄が並んでいた。記憶提供者。想定購入者。販売価格。企画の目的。

圭介は最後の欄を開いた。

『娘を失った母親が、娘の望んでいた場所を訪れることで、何を感じるかを記録する』

「いいですね」

佐伯が覗きこんで言った。圭介は文章を読み返し、最後の部分を選んだ。

『何を感じるかを記録する』

書き換えた。

『再び旅を楽しめるようになるまでを記録する』

画面の下に、佐伯が作った確認項目が並んでいた。

『出発前に娘さんの記憶を確認』

『旅行中の継続記録』

『帰宅後の感情変化の確認』

圭介は最後の項目を開き、確認の方法を一行足した。

『帰宅後、今回の旅で楽しかった場面を本人に振り返ってもらう』

そして、保存を押した。

『企画を登録しました』

了