書き下ろしその他

最後の一冊

約11,929字 読了目安 約24分 2026年10月28日 公開

第一章 重版

高梨修一は、午前十一時までに同じ一文を十七回書き直した。

最初は「女は黙って窓の外を見た」だった。それを「女は返事をせず、窓の外を見た」に変え、しばらく眺めてから「女は返事をしなかった」に直した。読み返すと、返事をしないことをわざわざ書く必要があるのか怪しくなった。結局、最初の文に戻した。十七回直して、原稿は一文字も進まなかった。

書いているのは、長年連れ添った男女が別れ話をする場面だった。男は相手の返事を待っている。女は答えない。なぜ答えないのか。そこが決まらなかった。

高梨は原稿を閉じ、通信講座の受講生から届いた原稿を開いた。五十六枚。若い男が雨の中を歩いて恋人のマンションへ向かう話だった。四十七枚目で、恋人が言う。

「あなたはいつも、自分のことばかり考えてる」

高梨はその台詞に赤線を引いた。それまでの四十六枚に、男が自分のことばかり考えている場面は一つもない。読者の知らないことを、登場人物がいきなり説明している。講評欄に書いた。

『人物の性格を台詞で説明する前に、行動で示してください』

原稿を返送し、自分の小説に戻った。

女は黙って窓の外を見た。

高梨はその一文を削除した。

午後一時過ぎ、電話が鳴った。知らない番号だったので放っておくと、切れてすぐにまた鳴った。

「高梨修一先生でしょうか。青葉書房の久世と申します」

最後に青葉書房から本を出したのは八年前で、当時の担当はとうに辞めている。

「先生の『水底の橋』について、ご連絡いたしました。重版が決まりまして。まず一万部です」

「どうして」

「今朝、北川市で橋が崩落したんです。それが先生の小説とよく似ていると話題になっていまして」

『水底の橋』は、離婚を控えた夫婦の話だった。旅先で妻の運転する車が、崩れる寸前の橋の手前で止まる。だが事故は物語の中心ではない。妻は見たことを夫に伝えようと電話をかけ、つながった瞬間、何も言えなくなる。そのあと夫婦は別れるかどうかを話し合い、ある夜、妻はもう一度夫に電話をかける。今度は伝えるべき出来事など何もない。用事を聞かれても、答えられない。

高梨が書きたかったのは、橋が落ちることではなかった。言葉を持たない二人が、電話を切れずにいる時間だった。

「現実の事故でも、橋の真ん中が崩れたそうです。直前に車が一台止まっていて、運転していたのも女性で」

「年齢は」

「三十代だそうです」

「小説では二十代ですよ。しかも雨の日だ」

「現実は晴れていたようです」

「じゃあ違うじゃないですか」

「そうなんですが、書店さんからの注文が止まらなくて」

一万部。二十年以上、聞いたことのない数字だった。高梨は電話を耳に当てたまま部屋を一周し、椅子に戻った。

「それと先生、テレビ局から取材の依頼が来ています」

「事故のことなら、何も知りませんよ」

「作品について伺いたいそうです」

「夫婦の話がしたいんですが」

「確認いたします」

「ちなみに、出演料は」

久世が金額を言うと、高梨は連絡先を教えることを承知した。

電話を切ってから、本棚の『水底の橋』を抜き出した。確かに、事故は似ていた。だが原因も橋の造りも違う。偶然だった。

数ページ先を開いた。妻が夫に電話をかける場面。三度かけてもつながらず、四度目でやっと夫が出る。その瞬間、妻は何を話したかったのかわからなくなる。今読んでも、よく書けていると思った。

スマートフォンで自分の名前を検索した。

『八年前に橋の崩落を予言していた小説』

『事故直前に女性が停止 驚きの一致』

『高梨修一とは何者か』

どの記事も事故の場面ばかり引いていて、電話の場面に触れたものは一つもなかった。高梨は不満だった。それでも、次の記事を開いた。

三時過ぎ、久世から、追加の重版で合計三万部になったと連絡があった。

「それから先生、デビュー作も話題になっているんです。主人公が五十四歳の誕生日に亡くなりますよね。先生は来年、五十四歳になられる」

高梨は笑った。

「何を馬鹿な。自分で決めた年齢ですよ。意味なんかない」

「どうして五十四歳だったんでしょう」

「若い頃は、それくらいで死ぬのがちょうどいいと思っていたんです」

久世が黙った。

「もちろん、小説の話ですよ」

「はい」

電話を切り、『残された頁』を取り出した。二十七歳で新人賞を取った、最初の小説だった。長いあいだ売れなかった小説家がようやく認められ、書店に本が並び、次の依頼が来る。男はもう一冊書こうと決める。そして、五十四歳の誕生日に突然死ぬ。

若い頃は、この結末が気に入っていた。成功したところで終われば、その先の失敗を書かずに済む。今読むと、腹が立った。せっかく報われたのに、なぜ死ななければならないのか。これからいくらでも書けるではないか。

さっき見た見出しが頭に残っていた。

『自らの死まで予言していた天才作家』

大げさだ。それでも、もし本当にそうなったら。二十七歳で自分の死を書き、そのとおり五十四歳で死んだ作家。昔、自分を酷評した書評家は何と書くだろう。本はどれだけ売れるだろう。

そんなことを考えた自分に、高梨は少し驚いた。死んでしまえば、売れた部数を確かめることもできないのに。

本を棚に戻し、久しぶりに印税の計算を始めた。

第二章 最後の仕事

十二日後、『水底の橋』は累計十万部を超えた。高梨は販売資料を印刷してクリアファイルに入れた。

テレビには三回出た。最初の番組では、事故と小説の違いを丁寧に説明した。司会者はうなずいたが、夫婦の話にはほとんど触れなかった。二度目に聞かれたのも予言のことだった。三度目には、高梨のほうが慣れていた。

「先生、未来が見えるんですか」

「見えたら、もっと早く株でも買ってますよ」

スタジオが笑い、翌日、また重版が決まった。

「来年のお誕生日に合わせて、新作を出せないでしょうか」

青葉書房の会議室で、久世真琴が言った。三十四歳。高梨が最後に本を出した頃は、まだこの会社にいなかった。

「誕生日に? 私が死ぬ日だから?」

久世は否定しかけて、やめた。

「話題になるのは確かです。先生の作品を、今なら大勢の人に読んでもらえると思うんです」

差し出された企画書には、初版部数、印税の最低保証額、雑誌での先行掲載、出版記念のイベントが並んでいた。高梨は金額を見て、もう一度見た。

「まだ原稿も読んでいないのに」

「はい」

二十年以上前、新作の構想を持って出版社を回った頃を思い出した。書き上げる前に出版を約束してほしかった。どの編集者も「まず読ませてください」と言った。当然のことなのに、若い高梨は、才能を信じてもらえていないのだと受け取った。今、目の前の編集者は、まだ一行もない小説に金を払うと言っている。

「内容は自由でいいんですね。予言を書けとか、そういう注文は」

「今回のご経験が少し反映されると嬉しいですが、無理にとは申しません」

「わかりました。書いてみましょう。ただし、最後の一冊なんて宣伝はしないでくださいよ。私はまだ死にませんから」

久世が笑い、高梨も笑った。笑いながら、別のことを考えていた。もし発売日に本当に死んだら、初版だけでは足りないだろう。その数字を自分で見られないのは、惜しかった。

資料を鞄にしまいかけた久世に、高梨は聞いた。

「私の本は、全部読んだんですか」

「手に入るものは。絶版のものは古本屋で探しました」

「わざわざ」

「担当させていただくので。それに、『水底の橋』が好きだったので」

「予言のところが?」

「いえ。電話のところです。事故のあと、奥さんが電話して何も言えなくなるでしょう。そのあと、もう一度かけますよね。今度は、何の用事もないのに」

高梨は久世の顔を見た。その場面は、事故よりずっとあとに出てくる。妻がまだ別れるかどうか決められずにいるところだった。

「よく覚えていますね。どうしてあそこが」

「話すことがなくても電話していいんだって、思えたので」

二度目の電話について話してくれた編集者は、これまで一人もいなかった。高梨は久しぶりに、出版の話より作品の話を続けたくなった。

野崎由美子からの手紙が届いたのは、その翌週だった。便箋が四枚。

『先生の小説を、デビュー作から読んでいます』

最近届くのは、地震や株価を予言してくれという手紙ばかりだった。野崎の手紙には、予言の話がほとんどなかった。

『いちばん好きなのは、今でも『残された頁』です』

彼女は主人公の恋人について書いていた。男が自分の小説の感想を求めても、女は答えない。そしてある日、理由も言わずに出ていく。

『若い頃は、あの女性は自由になれたのだと思っていました。でも最近は、何も言わずに去ったことを、あとで悔やまなかっただろうかと考えてしまいます』

高梨は便箋を置いた。あの女のその後など、考えたこともなかった。物語から退場した時点で、役目は終わっていた。

最後の一枚には、最近の騒ぎのことが書かれていた。

『先生の本がたくさんの人に読まれるようになって、嬉しく思っています。小説と現実が違うことは、もちろんわかっています。それでも、先生がどんな結末を迎えるのか、私も見届けたいと思っています』

結末、という言葉が引っかかった。前のページには、これからも作品を読みたいと書いてある。長年読んできた小説の感想も丁寧だった。高梨は便箋を封筒に戻した。

三日後、テレビ局のスタッフに聞かれた。

「先生、予言の件で、怖い手紙なんか届いていませんか」

「怖いのはありませんよ。変わったものならありますが。私の最期を見届けたいという読者がいましてね」

スタッフが顔を上げた。

「最期、ですか。それ、怖くないですか」

「そういう意味じゃないと思いますけど」

「番組でお話しいただいてもいいですか。お名前は出しませんので」

収録で、司会者がその話を振った。

「先生の最期を見届けたい読者がいるそうですね。亡くなるところを見たい、という意味でしょうか」

「そこまでは、わかりませんけど」

客席がどよめいた。高梨は深刻な手紙ではないと付け加えたが、その部分は話題にならなかった。翌朝の記事にはこうあった。

『死を予言された作家に謎の手紙』

『予言を実現させようとする読者がいる?』

野崎の名前は載っていなかった。久世から電話があった。

「先生、また取材の問い合わせが増えています。次の取材で、訂正していただいてもいいかもしれません」

「そうですね」

高梨はそう答えて電話を切り、書きかけの原稿を開いた。長く売れなかった小説家が、突然注目される話だった。そこへ一通の手紙が届くことにした。差出人は、二十年以上前から男の作品を読み続けている女。彼女は、男の最期を見届けたいと書いてくる。男はそれを脅しだと受け取る。

高梨は続けた。

女は、男の死を望んでいた。自分が愛した物語を、完成させるために。

そこまで書いたとき、先が見え始めた。野崎はもちろん、そんなことを考えていない。しかし小説の女なら、そういう人物でもかまわない。高梨は、その一文を残した。

第三章 読者

放送の六日後、野崎から二通目の手紙が来た。

『先生の最期を見届けたいというのは、先生が亡くなるところを見たいという意味ではありません。私は、先生が亡くなることを望んでいません。もし機会がありましたら、先生からも誤解を解いていただけると嬉しいです』

もっともな言い分だった。高梨は返事を書いた。

『お手紙拝読しました。ご趣旨は理解しております。長年お読みいただき、ありがとうございます』

テレビのことも何か書きかけて、やめた。次の出演はまだ決まっていない。機会はそのうちあるだろう。久世には本人から説明が来たと伝え、久世は安心した様子で先行掲載の日程の話を始めた。高梨も、訂正の話はしなかった。

三通目で、野崎はまた『残された頁』の女のことを書いてきた。

『あの人は、本当に自由になれたのでしょうか』

架空の人物のその後を、二十年以上考え続けている読者がいる。奇妙だと思った。同時に、そんなふうに読まれていたことが嬉しかった。一度会って話してみたくなった。久世は、同席するならと条件をつけて承知した。

野崎由美子は、約束の時刻より十分早く来ていた。薄い灰色のカーディガンを着た、四十代半ばの女性だった。挨拶を済ませると、鞄から文庫本を出した。『残された頁』の古い版で、表紙の角が丸くなっていた。

「何度も読みました」

開くと、鉛筆で線が引かれていた。男が恋人に、自分の小説をどう思うかと尋ねる場面だった。恋人は答えない。男はやがて背を向け、机に戻る。

「ここが、お好きなんですか」

「彼女、もう答えるのをやめたんだと思うんです。何を言っても、あの人は自分の聞きたいように受け取るでしょう」

「僕は少し違うつもりで書いたんですけどね。彼女は男の小説がわからなかった。だから答えられなかったんです」

野崎はページに目を落とした。

「でも、何か言ったら、きっと否定されますよね」

「それは、わかりませんよ」

「そうですね」

野崎はそれ以上言い返さなかった。高梨は本を閉じた。男の孤独を書いたつもりだった。この人は、まるで別の話として読んでいる。

「ほかに好きな場面は」

「彼女が出ていくところです。若い頃はすごく好きでした。でも最近は、言いたいことがあるなら言えばよかったのに、って。嫌いになったんじゃなくて、わからなくなったんです。昔は、わかった気になっていただけかもしれません」

高梨は手帳を出した。

「ちょっと、書いてもいいですか。今のお話、面白かったので」

『昔好きだった人物が、今はわからない』

「先生、本当にいつも小説のことを考えてるんですね」

野崎が感心したように言い、高梨はそれが嬉しかった。

久世が会社へ戻ったあとも、二人は話し続けた。野崎は結婚していて、夫は小説をほとんど読まないという。家庭に取り立てて問題があるわけでもない。

「じゃあ、どうしてあの女性に惹かれたんでしょうね」

「自分と違う人だから、かもしれません」

「出ていきたいと思ったことは」

「ありますよ」

野崎は笑った。

「でも、実際に出ていくのとは別ですから」

高梨はそれ以上聞かなかった。『水底の橋』の話になると、野崎も、妻が夫に電話をかける場面が好きだと言った。

「電話がつながったのに、何も言えなくなるでしょう。説明しようとすると、急に言葉がなくなることって、ありませんか」

夫の話をした。前は、何か言いかけるとすぐ「わかるよ」と答える人だった。

「悪い人じゃないんです。でも、自分でもわかっていないのに、先にわかられちゃうんですよ。最近は、前より聞いてくれるようになりましたけど」

高梨はうなずいた。よくわかる気がした。派手な話ではない。だが、原稿の中でずっと動かなかった女に、ようやく顔が見えてきた。

店を出る前に、野崎が聞いた。

「今日お話ししたことって、小説に使われたりしますか。夫の話とかも」

「そのまま書くようなことはしませんよ。小説家っていうのは、いろんな話を聞くものですから」

野崎は安心したようだった。

「次の作品、楽しみにしています」

何度も頭を下げて、駅のほうへ歩いていった。後ろ姿を見送ってから、高梨は手帳にもう一行書いた。

『昔好きだった作家が、今はわからない』

帰宅すると、上着も脱がずに原稿を開いた。死を予言された小説家と、その最期を見届けたい読者。これまで、女は脅す者としてしか書けていなかった。高梨は数ページを消した。

女は若い頃から一人の作家を読み続け、作中の人物を自分のことのように思っていた。けれど年月が経ち、わかっていたはずの人物の気持ちがわからなくなる。彼女は作者に会いに行き、思いがけないことを知る。自分が大事にしてきた人物について、作者はほとんど何も考えていなかったのだ。

そこまで書いて、手が止まった。野崎は、そう思ったのだろうか。確かめようと思えば、また手紙を書ける。だが今は、続きが書きたかった。

「先生は、どうしてあの人を一人にしたんですか」

「一人にならなければ、小説が始まらなかったからです」

「先生、私の話を聞いていましたか」

そこからは驚くほど進んだ。女は作者への愛情と不信を同時に抱えている。男はその気持ちを理解できない。理解しようとは、している。

明け方近くまで書いた。机の端には、野崎の最初の手紙があった。

『先生がどんな結末を迎えるのか、私も見届けたいと思っています』

高梨は、前に書いた一文を原稿に戻した。

女は、男の死を望んでいた。自分が愛した物語を、完成させるために。

この女は、野崎ではない。そう思ってから、続きを書いた。

第四章 見届ける人

久世からの電話を、高梨は三度無視した。原稿が進んでいたからだ。四度目に出ると、先行掲載の締切を念押しされた。

「題名は決まりましたか」

「『見届ける人』にしようと思っています」

送った原稿を読んだ久世は、女の人物像がいいと言った。それから、少し言いにくそうに付け加えた。

「この女性、例のお手紙の方がモデルなんでしょうか。ご本人はご存じですか」

「参考にはしましたよ。でも名前も年齢も違うし、起きることも違う。そもそも現実の彼女は、私を脅したりしていない。別人でしょう」

久世は、それ以上聞かなかった。

雑誌が出ると、新作は評判がよかった。

『予言の話だと思って読んだら、普通に面白かった』

『読者の女が怖い』

ある書評家は、作者と読者の認識のずれが興味深い、女性の造形に著者の成熟が見える、と書いた。高梨はそれを印刷して、机の引き出しにしまった。二十六年、何をしてきたのだろうと思う夜もあった。無駄ではなかった。今なら若い頃よりいいものが書ける。そう思えた。

数日後、野崎から手紙が来た。

『先生の新作を読みました。私が送った手紙や、喫茶店でお話ししたことが、登場人物に使われているように思いました。私は、先生の死を望んでいません』

小説と現実は違う。あれだけ長く小説を読んできた人なら、そのくらいわかっているはずだ。そう思いながら読み進めて、最後の一文で手が止まった。

『ただ、続きを楽しみにしている自分がいることも、嫌です』

怒っているのに、読みたい。傷つけられたと感じているのに、先を知りたい。新作の女にも、この矛盾を持たせられる。高梨は手紙を原稿の横に置き、抗議の場面を書き直した。女は作者に怒っている。だが、彼の書いたものが面白いことも認めている。だからいっそう腹が立つ。

「野崎さんから、編集部にも連絡がありました」

久世が言った。

「単行本では、最期を見届けたいという部分だけでも、表現を変えられないでしょうか。実際のお手紙に似ていますから」

「そこを変えたら、話が始まらないでしょう。この小説は、あの手紙がなければ成立しないんです」

言ってから、高梨は黙った。本当のことだった。あの手紙がなければ思いつかなかったし、会わなければ、女はここまで複雑にならなかった。

「野崎さんには、何とお伝えしましょう」

「小説は創作です、と」

久世は少し間を置いて、承知しましたと答えた。

最後の場面で、作家は女に謝る。相手の気持ちを勝手に解釈していたことを認める。女は許さない。けれど、何も言わずに去っていく。高梨はその場面を三日かけて直した。久世はそこがいちばんいいと言い、高梨自身もそう思っていた。

「それから先生、出版記念のイベントに、野崎さんが参加を希望されています。直接お聞きしたいことがあるそうです」

高梨は了承した。手紙をなぜ使ったのか。なぜ脅す人間のように書いたのか。たぶん、そのあたりだろう。小説と現実の違いなら、いくらでも説明できる。

『見届ける人』の最後の場面を開いた。作家が女に謝る台詞。よく書けている。このくらいのことなら、自分にも言えると思った。

第五章 予言の日

五十四歳の誕生日、高梨は午前六時四十二分に目を覚ました。いつもより早かった。コーヒーを淹れ、トーストを一枚焼いた。久世から祝いのメッセージが来ていたので短く返し、自分の名前を検索した。

『本日、予言の日』

『小説どおりの結末は訪れるのか』

記事を閉じた。今日死ぬとは思っていない。それでも朝食のあと、皿を洗おうとして手が止まった。帰ってからでもいい。そう思って流しに置き、結局、洗った。

出版記念のイベントは、午後二時から都内のホテルで開かれた。三百人ほどが集まった。控室には出版社や書店から花が届いていて、その中に、昔原稿を突き返された出版社の名前があった。高梨はその花の前に少し長く立っていた。

会場に入ると拍手が起きた。若い人も、年配の人もいる。膝に自分の本を置いている人が何人もいた。書店で自分の本を手に取る人を、これまでほとんど見たことがなかった。それが今日は三百人いる。胸が熱くなった。

「先生、まずはご無事で何よりです」

「まだ今日は終わっていませんからね」

客席が大きく笑った。対談は順調だった。デビュー作を書いた頃のこと、売れなかった時期のこと、原稿が進まない日の過ごし方。司会者は作品を細かいところまで読んでいて、高梨は久しぶりに予言ではなく小説の話ができた。途中から、自分が死を予言された人間であることも忘れていた。

質疑応答で何人かに答えたあと、野崎が立ち上がった。灰色の上着を着て、『見届ける人』を胸に抱えていた。

「新作を読みました。面白かったです。とくに、最後に女性が去っていくところが」

「あそこは時間をかけました」

「そうなんですね」

野崎は本を持ち直した。

「一つだけ、お聞きしてもいいですか。先生は、私の二通目の手紙を、いつお読みになりましたか」

「いつ、と言われましても」

「新作を書き上げる前だったんでしょうか」

「たくさんお手紙をいただいているので、正確には覚えていませんが」

「私には、お返事をくださいました。脅すつもりではないこと、理解していますって。あのお返事は、新作が完成する前でしたよね」

高梨は客席を見た。後ろのほうで、若い男がスマートフォンを構えていた。

「どうだったかな。書き終えてからだったような気もしますが。申し訳ありません、最近は本当にたくさんいただくので」

客席から笑いが起きた。野崎は、その笑いが収まるのを待った。

「わかりました」

それだけ言って、マイクを返した。次の質問は若い女性からだった。

「先生は、次にどんな小説を書きたいですか」

「まだ決まっていません。でも、書きたいことはいくつもあります」

拍手が起きた。

サイン会が終わると、野崎が控室の前で待っていた。

「今日はありがとうございました。変なことを聞いてしまって、すみません」

「いえいえ。質問、ありがとうございました」

野崎は本を抱え直した。

「私、先生が本当のことを言ってくれるのか、知りたかったんです」

「小説というのは」

言いかけると、野崎は首を振った。

「はい。それは、わかっています」

高梨は黙った。廊下の向こうを、花束を抱えた係の人が通り過ぎた。

「先生の小説、好きでした」

「ありがとうございます」

野崎は少しだけ笑った。

「こちらこそ。お誕生日、おめでとうございます」

頭を下げて、歩いていった。

小説の中で、作家は女に謝っていた。相手の気持ちを勝手に解釈したことを認め、丁寧に詫びる。何日もかけて直した台詞だった。今でも一字一句覚えている。だが、こんな廊下で口にするには、芝居がかって聞こえる気がした。高梨は何も言わなかった。

控室に戻って手帳を開いた。

『女は最後まで笑っていた』

そこまで書いたところで、久世が明日の電話の時間を確かめに来た。

「十時頃でよろしいですか。今日は大成功でしたね」

「まだ売上が出ていないでしょう」

久世が笑った。時計は午後六時十三分を指していた。誕生日が終わるまで、まだ六時間近くあった。

第六章 最後の一冊

帰宅したのは八時過ぎだった。久世に『帰宅しました』と送り、冷蔵庫に残っていた卵を焼いた。食べながら、イベントの記事を読んだ。

『予言の日、本人は笑顔』

野崎の質問に触れた記事もあった。会場では読者から過去の手紙について質問を受ける一幕もあった。それだけだった。続けて新作の感想を検索した。

『高梨修一、こんなにうまい作家だったのか』

高梨は、その投稿を保存した。

九時過ぎに仕事部屋に入った。机には『残された頁』と『見届ける人』が並んでいた。二十代で書いた最初の本と、今日出た新作。

次が売れなかったら、どうなるだろう。今回の成功は予言騒ぎのおかげだったと言われる。結局、処女作を超えられなかった。そんな書評が、すぐに思い浮かんだ。

午後九時四十六分。

もし今日、自分が死んだら。その考えが、ふいに浮かんだ。新聞は何と書くだろう。テレビは今日の映像を繰り返し流す。出版社は追悼の帯を巻く。昔の書評家も、意味ありげな文章を書くかもしれない。

『残された頁』を手に取った。何年もかけて書いた小説だった。最後の一文が決まった夜のことも覚えている。ようやくできたと思った。だが、もし今夜死ねば、あの小説は今日になって初めて完成するのかもしれない。

五十四歳の誕生日に主人公が死ぬ場面を開いた。自分の書いた文字が、今日は違って見えた。胸が高鳴っていた。新しい小説の結末を思いついたときに、少し似ていた。

高梨は本を閉じた。死ぬのは怖い。まだ書きたい。新作が何部売れたのかも知りたい。それでも、成功したところで終われば、その先の失敗はない。

自分が何を考えはじめているのかに気づいて、高梨は席を立った。台所で水を飲んだ。十時半を過ぎていた。

もう一度新作を開いた。作家が謝り、女が去っていく最後の場面。廊下で別れた野崎を思い出した。彼女はもう、自分の小説を読まないのだろうか。それとも、まだ読むのだろうか。今夜自分が死んだら、野崎はどう思うだろう。悲しむのか。今日のやりとりを思い出すのか。高梨には想像できなかった。そのことが、気になった。

新しい原稿を開いた。死を予言された作家が、本当に死ぬ。知らせを聞いた読者の女が、彼のデビュー作を読み返す。彼女は何を思うのか。書こうとして、彼女の表情が浮かばなかった。自分が死んだあとのことは、確かめようがない。

十一時五十二分。男が死ぬ結末を書いてみた。あまりに簡単だった。生き延びる結末も書いた。予言が外れ、男はまた小説を書く。それも、つまらなかった。

十一時五十八分。原稿を保存して居間へ移り、ソファに座った。時計の針が十二を指すのを、ただ見ていた。

日付が変わった。何も起こらなかった。

高梨は息を吐いた。仕事部屋に戻って男が死ぬ結末を消し、少しして、生き延びるほうも消した。その夜は、それで寝た。

翌朝、九時過ぎに目を覚ました。顔を洗い、コーヒーを淹れていると電話が鳴った。久世だった。九時四十六分。十時頃にかけると言っていた。

電話に出れば、予言の話は終わる。高梨修一は生きていた。それだけのことになる。

着信が切れ、しばらくしてまた鳴った。高梨は画面を見たまま、取らなかった。

机には昨夜の原稿があった。死ぬ結末も、生き延びる結末も消してしまった。男はどうすればいいのだろう。椅子に座った途端、続きが浮かんだ。男は予言の日を生き延びる。だが、それを誰にも知らせない。周りの人間が、勝手に男の生死を想像し始める。

高梨は一文を書いた。

男は、生きていることを誰にも知らせなかった。

昼前、ニュースサイトに短い記事が出た。

『高梨修一氏、予言の日を過ぎても本人のコメントなし』

昨日のイベントの写真が使われていた。笑っている自分の顔だった。コメント欄を開いた。

『普通に寝てるだけでしょ』

『出版社は確認してないの?』

『本当に何かあったら怖い』

『もし的中してたら伝説だな』

最後のコメントを読み返した。自分は生きている。それなのに、死んだ場合の世間の反応を、少しずつ覗くことができている。

また電話が鳴った。久世だった。出ないでいると、メッセージが届いた。

『先生、お電話がつながらず心配しております。ご無事でしたら、お返事をいただけますでしょうか』

返信欄に『元気です』と打ち、送りかけて、やめた。スマートフォンを裏返した。原稿には、まだ次の場面がなかった。高梨は続きを書き始めた。

午後一時過ぎ、インターホンが鳴った。モニターに久世が映っていた。紙袋を提げている。もう一度、呼び鈴が鳴った。

昨日は朝からイベントの準備をしていた人だ。今日だって仕事があるはずだ。わざわざ来させてしまった。高梨は受話器に手を伸ばした。

そのとき、机の上の原稿が目に入った。男は予言の日を生き延び、誰にも知らせない。編集者が家を訪ねてくる。男はインターホンの画面で、その姿を見ている。

高梨は受話器から手を離し、机に戻った。

編集者は男の家の前に立っていた。その顔には、心配そうな表情が浮かんでいた。

書いてから、消した。本当に心配しているのだろうか。怒っているのかもしれない。仕事だから来ただけかもしれない。

モニターを見た。久世が何か言っていた。音は聞こえない。受話器を取れば聞こえる。彼女が何を考えているのかも、少しはわかるかもしれない。

高梨は原稿に戻った。

編集者は男の家の前に立っていた。男には、彼女が何を考えているのかわからなかった。

これも消した。何を考えているかわからない女を、どう書けばいいのだろう。しばらくして、一文を打った。

女は黙って窓の外を見た。

手が止まった。高梨はその一文を消し、書き直した。

女は黙っていた。

インターホンが鳴った。モニターの中で、久世はまだそこにいた。口が動いていた。

高梨は原稿に戻った。そして、女が何を考えているのかを、書き始めた。

了