新婦の元恋人
開式十五分前、新婦の元恋人が私を呼び止めた。
「里奈さんの、いちばんの友達ですよね」
私は祝辞の封筒を持っていた。
男は式場の係ではなかった。紺色のコートを着たままで、手に透明な袋を持っていた。
「結婚する相手は、これ、知ってますか」
袋の中に、借用書と振込記録が入っていた。
「これを渡せば、式は止まります」
壁の時計は、二時四十五分だった。
*
里奈とは、高校からの友達だった。
町を出て働くようになってからも、月に一度は会っていた。
「あなたには、何でも話すから」
里奈はよくそう言った。
仕事の愚痴も、母親とのけんかも、別れた恋人のことも、たしかに全部話してくれた。私も、里奈に話していないことはないと思っていた。
去年、新しい恋人を紹介された。
里奈が話しているあいだ、スマホを机に置かない人だった。里奈が笑うところを、よく見ていた。
今日、その人と結婚式を挙げる。
婚姻届は、二人がそろって休める二日後に出すと聞いていた。
二か月前、ドレスを選びに行った。
母親と意見が合わず、里奈は試着の写真を私にだけ送ってきた。
〈どっちがいいと思う? あなたの言うほうにする〉
私が肩の出ないほうを選ぶと、里奈は結局、自分の好きなほうに決めた。
その報告を聞いたとき、私は、よかったね、と言った。
里奈は、私に聞いてから、自分で決める。そういう順番で、ずっとやってきた。
封筒の中には、昨夜までかかって書いた祝辞が二枚入っていた。
何でも話してくれる親友。
そんな言葉から始まる文章だった。
「高瀬さん、ですよね」
私が言うと、男はうなずいた。
里奈が資格を取るまで付き合っていた人だ。写真は一度だけ見たことがあった。
「全部で、百八十万です」
借用書には、里奈の名前と住所があった。
字はよく似ていたが、本物かどうかを決められるものではなかった。
振込記録と、返済について話すメッセージも印刷されていた。
〈来月からは、また五万円ずつ返します〉
「二か月、入ってません。生活が苦しいって言うから待ってたんです。なのに、こんなところで結婚式」
私は会場の天井を見た。明るい花が飾ってあった。
その花の代金を誰が出したのか、私は知らない。式を挙げることと、里奈の手元に返せるお金があることは、同じではなかった。
でも、その説明が、待っている人に届くとは思えなかった。
「この式のこと、いつ知ったんですか」
「知り合いから、教えてもらいました」
高瀬は、少しだけ私の顔を見た。
「連絡はしたんです。返事は、式のあとで話す、ばかりで」
彼はスマホを出した。確かに、里奈からそう書かれていた。
「ここで話してもらわないと、また逃げます」
「里奈に確認します。ただ、これだけで式を止めるとは言えません」
「友達だから、かばうんですか」
「だから、本人に聞くんです」
*
控室では、白いドレスの里奈が鏡の前に座っていた。
私を見ると、口元だけで笑った。
「緊張してる? 私も」
高瀬さんが来ている、と言った。
里奈の笑顔が止まった。
借用書の写真を見せると、里奈は自分で書いたものだと認めた。
資格の学校に通う費用と、その間の生活費だった。返した分もある、と里奈は言った。一緒に暮らしていたころ、自分が立て替えた家賃もある。それを引いて計算してほしいと、高瀬に伝えているのだという。
「全部で、百八十万?」
「最初はね。今それを、百八十って言ったの?」
高瀬は百八十万円とだけ言った。それが借りた総額なのか、残りなのか、私は確かめていなかった。
里奈はスマホで何かを探し始めた。小さな画面を、白い爪が何度もなぞった。
「このお金のこと、結婚する人は知ってる?」
里奈の指が止まった。
「結婚したあと、自分のお給料で返すつもりだった。明日、ちゃんと話す。今日は、お願い」
里奈は、私の袖をつかんだ。手が冷たかった。
「私にも、言わなかったね」
里奈は顔を上げた。
「言ったら、あなた、式は待とうって言うでしょう」
言ったかもしれない。
里奈は、私が何を言うかまで知っていて、話さなかったのだ。
「二人で話して。今これを知ったあとで、どうするか」
里奈はしばらく目を閉じ、それから自分でスマホを取った。
*
二時五十四分、新郎が控室へ入った。
私は係の人に、開始を少し待てるか聞いてから、新郎に、確認できたことだけを話した。
借りたお金があること。返済の話が終わっていないこと。残っている額は、二人の言うことが違うこと。
それから、廊下へ出た。
高瀬が待っていた。
「話しましたか」
「はい。いくら返すべきかは、私には決められません」
高瀬は透明な袋を胸に引き寄せた。指が震えていた。
「僕は、返してほしいだけなんです」
「それなら、式が止まっても、お金は戻りませんよね」
高瀬は顔を背けた。
「……結婚するなら、先に返すって、普通は思いませんか」
私は返事ができなかった。
三時を少し過ぎて、新郎が出てきた。
式は、予定より少し遅らせて行う。お金のことは、記録を見て三人で話す日を決める。
「婚姻届は、その話をしてから出します」
高瀬は口を開きかけ、閉じた。
新郎は、返済を引き受けるとも、里奈の説明を全部信じたとも言わなかった。
*
披露宴で名前を呼ばれたとき、私は封筒を席に置き、紙だけを持って前へ出た。
一行目の、何でも話してくれる親友、という言葉には、控室を出たあと、横線を引いておいた。
私は、里奈が雨の日に私の母へ傘を届けてくれた話をした。
二人で乗るバスを間違えて、知らない駅まで行ったことも話した。
どれも、私が本当に知っている里奈だった。
里奈は笑った。
新郎も隣で、少し遅れて笑った。
「ご結婚、おめでとうございます」
拍手の中で、里奈が私に向かって小さく頭を下げた。
*
帰りの電車で、スマホが震えた。
高瀬からだった。
〈時間を教えていただいて、ありがとうございました。おかげで、今日のうちに話ができました〉
私は、その文を二度読んだ。
ひと月前、知らない名前から連絡が来た。
里奈さんは結婚するんですか。お金のことで、お伝えしたいことがあります。
借金のことは、そのとき初めて知った。
何でも話すと言っていた里奈が、私にだけは話さなかったことも。
その週末、里奈と会った。招待状の宛名を、二人で書いた。
里奈は、高瀬さんの話も一度だけした。
「あの人とは、ちゃんと終わったから」
そう言って、宛名の字を一枚ずつ乾かしていた。
私は、うなずいた。
私は里奈に聞かなかった。
高瀬に、式場の名前を教えた。
開式の十五分前なら、新婦は必ず控室にいます、と書き添えた。
なぜそうしたのか、自分でもまだうまく言えない。
返済を待つ人の味方をしたかったのだと、思おうとすればできた。
でも、本当は、里奈が私に話さなければいけない日を、私が決めたかったのだと思う。
いちばん逃げられない日を。
だから今日、私は高瀬に会ったとき、初めて会う人のように名前を確かめた。
電車が駅に着いた。
私は高瀬のメッセージを消した。
鞄の中で、祝辞の紙が角を折っていた。
横線を引いた一行は、まだ読めた。
何でも話してくれる親友。
私も、そうではなかった。
了