書き下ろしイヤミス

新婦の元恋人

約2,841字 読了目安 約6分 2026年10月29日 公開

開式十五分前、新婦の元恋人が私を呼び止めた。

「里奈さんの、いちばんの友達ですよね」

私は祝辞の封筒を持っていた。

男は式場の係ではなかった。紺色のコートを着たままで、手に透明な袋を持っていた。

「結婚する相手は、これ、知ってますか」

袋の中に、借用書と振込記録が入っていた。

「これを渡せば、式は止まります」

壁の時計は、二時四十五分だった。

里奈とは、高校からの友達だった。

町を出て働くようになってからも、月に一度は会っていた。

「あなたには、何でも話すから」

里奈はよくそう言った。

仕事の愚痴も、母親とのけんかも、別れた恋人のことも、たしかに全部話してくれた。私も、里奈に話していないことはないと思っていた。

去年、新しい恋人を紹介された。

里奈が話しているあいだ、スマホを机に置かない人だった。里奈が笑うところを、よく見ていた。

今日、その人と結婚式を挙げる。

婚姻届は、二人がそろって休める二日後に出すと聞いていた。

二か月前、ドレスを選びに行った。

母親と意見が合わず、里奈は試着の写真を私にだけ送ってきた。

〈どっちがいいと思う? あなたの言うほうにする〉

私が肩の出ないほうを選ぶと、里奈は結局、自分の好きなほうに決めた。

その報告を聞いたとき、私は、よかったね、と言った。

里奈は、私に聞いてから、自分で決める。そういう順番で、ずっとやってきた。

封筒の中には、昨夜までかかって書いた祝辞が二枚入っていた。

何でも話してくれる親友。

そんな言葉から始まる文章だった。

「高瀬さん、ですよね」

私が言うと、男はうなずいた。

里奈が資格を取るまで付き合っていた人だ。写真は一度だけ見たことがあった。

「全部で、百八十万です」

借用書には、里奈の名前と住所があった。

字はよく似ていたが、本物かどうかを決められるものではなかった。

振込記録と、返済について話すメッセージも印刷されていた。

〈来月からは、また五万円ずつ返します〉

「二か月、入ってません。生活が苦しいって言うから待ってたんです。なのに、こんなところで結婚式」

私は会場の天井を見た。明るい花が飾ってあった。

その花の代金を誰が出したのか、私は知らない。式を挙げることと、里奈の手元に返せるお金があることは、同じではなかった。

でも、その説明が、待っている人に届くとは思えなかった。

「この式のこと、いつ知ったんですか」

「知り合いから、教えてもらいました」

高瀬は、少しだけ私の顔を見た。

「連絡はしたんです。返事は、式のあとで話す、ばかりで」

彼はスマホを出した。確かに、里奈からそう書かれていた。

「ここで話してもらわないと、また逃げます」

「里奈に確認します。ただ、これだけで式を止めるとは言えません」

「友達だから、かばうんですか」

「だから、本人に聞くんです」

控室では、白いドレスの里奈が鏡の前に座っていた。

私を見ると、口元だけで笑った。

「緊張してる? 私も」

高瀬さんが来ている、と言った。

里奈の笑顔が止まった。

借用書の写真を見せると、里奈は自分で書いたものだと認めた。

資格の学校に通う費用と、その間の生活費だった。返した分もある、と里奈は言った。一緒に暮らしていたころ、自分が立て替えた家賃もある。それを引いて計算してほしいと、高瀬に伝えているのだという。

「全部で、百八十万?」

「最初はね。今それを、百八十って言ったの?」

高瀬は百八十万円とだけ言った。それが借りた総額なのか、残りなのか、私は確かめていなかった。

里奈はスマホで何かを探し始めた。小さな画面を、白い爪が何度もなぞった。

「このお金のこと、結婚する人は知ってる?」

里奈の指が止まった。

「結婚したあと、自分のお給料で返すつもりだった。明日、ちゃんと話す。今日は、お願い」

里奈は、私の袖をつかんだ。手が冷たかった。

「私にも、言わなかったね」

里奈は顔を上げた。

「言ったら、あなた、式は待とうって言うでしょう」

言ったかもしれない。

里奈は、私が何を言うかまで知っていて、話さなかったのだ。

「二人で話して。今これを知ったあとで、どうするか」

里奈はしばらく目を閉じ、それから自分でスマホを取った。

二時五十四分、新郎が控室へ入った。

私は係の人に、開始を少し待てるか聞いてから、新郎に、確認できたことだけを話した。

借りたお金があること。返済の話が終わっていないこと。残っている額は、二人の言うことが違うこと。

それから、廊下へ出た。

高瀬が待っていた。

「話しましたか」

「はい。いくら返すべきかは、私には決められません」

高瀬は透明な袋を胸に引き寄せた。指が震えていた。

「僕は、返してほしいだけなんです」

「それなら、式が止まっても、お金は戻りませんよね」

高瀬は顔を背けた。

「……結婚するなら、先に返すって、普通は思いませんか」

私は返事ができなかった。

三時を少し過ぎて、新郎が出てきた。

式は、予定より少し遅らせて行う。お金のことは、記録を見て三人で話す日を決める。

「婚姻届は、その話をしてから出します」

高瀬は口を開きかけ、閉じた。

新郎は、返済を引き受けるとも、里奈の説明を全部信じたとも言わなかった。

披露宴で名前を呼ばれたとき、私は封筒を席に置き、紙だけを持って前へ出た。

一行目の、何でも話してくれる親友、という言葉には、控室を出たあと、横線を引いておいた。

私は、里奈が雨の日に私の母へ傘を届けてくれた話をした。

二人で乗るバスを間違えて、知らない駅まで行ったことも話した。

どれも、私が本当に知っている里奈だった。

里奈は笑った。

新郎も隣で、少し遅れて笑った。

「ご結婚、おめでとうございます」

拍手の中で、里奈が私に向かって小さく頭を下げた。

帰りの電車で、スマホが震えた。

高瀬からだった。

〈時間を教えていただいて、ありがとうございました。おかげで、今日のうちに話ができました〉

私は、その文を二度読んだ。

ひと月前、知らない名前から連絡が来た。

里奈さんは結婚するんですか。お金のことで、お伝えしたいことがあります。

借金のことは、そのとき初めて知った。

何でも話すと言っていた里奈が、私にだけは話さなかったことも。

その週末、里奈と会った。招待状の宛名を、二人で書いた。

里奈は、高瀬さんの話も一度だけした。

「あの人とは、ちゃんと終わったから」

そう言って、宛名の字を一枚ずつ乾かしていた。

私は、うなずいた。

私は里奈に聞かなかった。

高瀬に、式場の名前を教えた。

開式の十五分前なら、新婦は必ず控室にいます、と書き添えた。

なぜそうしたのか、自分でもまだうまく言えない。

返済を待つ人の味方をしたかったのだと、思おうとすればできた。

でも、本当は、里奈が私に話さなければいけない日を、私が決めたかったのだと思う。

いちばん逃げられない日を。

だから今日、私は高瀬に会ったとき、初めて会う人のように名前を確かめた。

電車が駅に着いた。

私は高瀬のメッセージを消した。

鞄の中で、祝辞の紙が角を折っていた。

横線を引いた一行は、まだ読めた。

何でも話してくれる親友。

私も、そうではなかった。

了