書き下ろしホラー

練習の声

約3,034字 読了目安 約6分 2026年10月29日 公開

「練習ですから、大丈夫ですよ」

ドアの向こうで、美代さんが誰かに説明していた。

私は録音室の扉を叩いた。

三度目を叩く前に、廊下のスピーカーから、私の声がした。

「はい、大丈夫です。声の収録をしています」

美代さんは、ほらね、と笑った。

若葉町の古い商店ビルに、その稽古場はあった。

廊下の突き当たりに、色あせた人形劇のポスターが貼ってある。入口の受付には、小さな編みぐるみが並んでいた。

管理人の美代さんは、いつもその受付で編み物をしていた。

「今日も、声のお仕事?」

私がうなずくと、美代さんは顔をほころばせた。

「好きなこと、続けられるといいわね」

三十八歳になって、仕事と呼べるほどの依頼はまだ少なかった。平日はスーパーで働き、娘を実家に預けられる日だけ、声の仕事をしていた。

映像制作者の岸さんから依頼が来たのは、私が公開していた朗読を聴いたからだという。

短いホラー映画に使う声を、何種類か録りたい。最初は、そんな話だった。

岸さんの短編を、一本見せてもらった。古い家で留守番をする女性の話で、知らない人の足が食卓の下に見える。それだけの場面が、妙に怖かった。

稽古場は、大きな部屋を仕切った作りだった。

奥に、窓のない小さな録音室がある。扉は分厚く、外側に古い鍵がついていた。録音室の手前が機材の部屋で、その先に、共用の廊下へ出るドアがある。廊下のドアの小窓からは、機材の机までしか見えなかった。

一度目の収録では、暗い部屋で名前を呼ぶ声と、物音に驚く息を録った。

岸さんは機材の前に座り、録音室の私へマイクで指示を出した。

「もう少し抑えて。怖いとき、人はそんなには叫ばないと思います」

喉が乾くと、水を差し入れてくれた。

その日は一時間で終わり、約束の謝礼も振り込まれた。

廊下に出ると、美代さんが待っていた。

「ちょっと、びっくりしちゃった。下の洋裁教室の人がね、何かあったのかって」

防音の設備は古く、強い声は外へ漏れるらしい。

私が頭を下げると、美代さんは小さく手を振った。

「ちゃんとお仕事ですって、説明しておいたから」

二度目の収録の前に、美代さんが飴をくれた。

亡くなったご主人が人形劇をしていて、昔はここを稽古に使っていたという。

「声、商売道具でしょう。あの人もよくなめてたの」

編みぐるみの一つに、小さなマフラーが巻いてあった。

「前に若い子たちが使っていた場所は、苦情で借りられなくなったのよ。ここくらいはね、続けさせてあげたいの」

自分より先に、自分の仕事を大切にしてくれる人がいる。

そう思うと、うれしかった。

岸さんはこの日、大きな声を出す場面を録った。

逃げながら叫ぶ声。泣きながら謝る声。

「警察を呼んでください」という台詞もあった。

何度やっても、岸さんは黙って首を振った。

「きれいなんですよね」

「きれい、ですか」

「声だけなら、怖がってるふりはできるから。でも、ふりは、聴く人にわかるんです」

最後に、近所への説明に使う挨拶を頼まれた。

「収録の途中で人が来ると、毎回中断になるので」

台本の最後に、短い文章が書き足されていた。

〈はい、大丈夫です。声の収録をしています。ご迷惑をおかけしてすみません〉

「もう少し明るく。いかにも読んでる感じだと、かえって心配されるから」

三度目で、岸さんはうなずいた。

終わって部屋を出ると、美代さんが両手を合わせた。小さな拍手だった。

「役者さんって、すごいわね。さっきの、私まで怖くなっちゃった」

「まだ全然、駄目みたいです」

「そんなことないわよ。ちゃんと聴いてたもの」

三度目は、午後七時からだった。下の洋裁教室が終わるのを待ったのだ。

娘から、夕飯の写真が届いた。

実家の食卓に、カレーの皿が二枚並んでいた。

私は〈九時には帰るよ〉と送って、スマホを布のバッグにしまった。

美代さんは廊下の壁に、手書きの紙を貼っていた。

〈本日、映画の声を収録しています。大きな声や物音がしますが、ご心配ありません〉

「岸さんから頼まれて。今夜は特別、大きな音がするんですって」

紙の下が浮かないように、美代さんは丁寧にテープを押さえた。

「終わったら、顔を見せてね。飴、まだあるから」

私はポケットの包装紙を見せた。

美代さんの前で、飴を口に入れた。

機材の部屋には、小さなカメラが一台増えていた。

録音室の中は机が片づけられ、丸椅子とマイクだけになっていた。

私はコートとバッグを、機材の部屋の椅子に置いた。

「台本は、あとからですか」

岸さんは録音室の扉に手をかけていた。

「今日は、台本はありません」

私は、どういう意味かと笑った。

岸さんは笑わなかった。

「昨日までの声は、全部きれいでした。だから今日は、本当に怖いときの声をください」

岸さんは扉を閉めた。

外側で、鍵の回る音がした。

私は扉の取っ手を引いた。動かなかった。

「岸さん。そういう演出は聞いていません」

小窓の向こうで、岸さんはヘッドホンをかけていた。

マイクの赤いランプがついた。

「開けてください」

私は扉を叩いた。手のひらで、それから拳で。

岸さんは機材の目盛りを見ていた。私の顔ではなかった。

「娘が待ってるんです。九時に帰るって」

それでも、岸さんは目盛りを見ていた。

私が大きな声を出すたびに、針が振れる。岸さんは、その針だけを見ていた。

怖い、と思った。

思った瞬間に、喉から声が出た。

「助けて」

昨日、何十回も練習した言葉だった。

今日の声は、昨日のどれとも違った。細くて、ひび割れていた。

岸さんが、初めてうなずいた。

廊下のドアを叩く音がした。

「どう? 順調?」

美代さんの声だった。

私は録音室の扉に体をぶつけて、叫んだ。

「美代さん、開けて。閉じ込められてるの」

岸さんが、机のボタンを押した。

「はい、大丈夫です。声の収録をしています。ご迷惑をおかけしてすみません」

廊下のスピーカーから、私の声がした。

昨日の、三度目の声だった。

「よかった。何か倒れたみたいな音がしたから、ちょっと心配しちゃった」

美代さんは、私に話しかけていた。

「無理はしないでね」

小窓の影が離れていった。

「違う、美代さん、それは録音」

私の声は、分厚い扉と、古い防音の壁を通って、廊下ではたぶん、映画の音のように聞こえた。

「警察を呼んで」

叫んだあとで、気がついた。

それも、昨日の台本にあった台詞だった。

廊下で、別の人の声がした。

「今の、何ですか」

知らない男の声だった。

私は息を止めて、扉に耳をつけた。

「練習ですから、大丈夫ですよ」

美代さんが答えた。

「映画のね。ほら、入口にも貼ってあるでしょう」

私は扉を叩いた。

三度目を叩く前に、スピーカーから、私の声がした。

「はい、大丈夫です。声の収録をしています」

「ほらね」

「でも、さっき警察って」

「昨日も、同じところをやってたの。今日こそ、ちゃんと録りたいんですって」

美代さんは、昨日私を褒めたときと同じ声で言った。

「本人さんも、大丈夫だって。いま、言ってたでしょう」

足音が遠のいた。

私は、まだ廊下にいるはずの美代さんを呼ぼうとした。

うまく息が吸えなかった。声にならず、喉の奥が鳴った。

小窓の向こうで、岸さんが目を閉じていた。

その音を、聴いていた。

機材の部屋の椅子に、私の布のバッグが見えた。

持ち手が下へ垂れている。中で、スマホが光った。

娘からだろう。九時は、まだ先だった。

ドアの向こうから、物を引きずる音が聞こえた。

美代さんが、受付の椅子を運んできていた。

「私、ここに座ってるわね」

椅子の脚が、床に当たった。

「誰か来たら、練習中ですって言っておくから」

了