練習の声
「練習ですから、大丈夫ですよ」
ドアの向こうで、美代さんが誰かに説明していた。
私は録音室の扉を叩いた。
三度目を叩く前に、廊下のスピーカーから、私の声がした。
「はい、大丈夫です。声の収録をしています」
美代さんは、ほらね、と笑った。
*
若葉町の古い商店ビルに、その稽古場はあった。
廊下の突き当たりに、色あせた人形劇のポスターが貼ってある。入口の受付には、小さな編みぐるみが並んでいた。
管理人の美代さんは、いつもその受付で編み物をしていた。
「今日も、声のお仕事?」
私がうなずくと、美代さんは顔をほころばせた。
「好きなこと、続けられるといいわね」
三十八歳になって、仕事と呼べるほどの依頼はまだ少なかった。平日はスーパーで働き、娘を実家に預けられる日だけ、声の仕事をしていた。
映像制作者の岸さんから依頼が来たのは、私が公開していた朗読を聴いたからだという。
短いホラー映画に使う声を、何種類か録りたい。最初は、そんな話だった。
岸さんの短編を、一本見せてもらった。古い家で留守番をする女性の話で、知らない人の足が食卓の下に見える。それだけの場面が、妙に怖かった。
稽古場は、大きな部屋を仕切った作りだった。
奥に、窓のない小さな録音室がある。扉は分厚く、外側に古い鍵がついていた。録音室の手前が機材の部屋で、その先に、共用の廊下へ出るドアがある。廊下のドアの小窓からは、機材の机までしか見えなかった。
一度目の収録では、暗い部屋で名前を呼ぶ声と、物音に驚く息を録った。
岸さんは機材の前に座り、録音室の私へマイクで指示を出した。
「もう少し抑えて。怖いとき、人はそんなには叫ばないと思います」
喉が乾くと、水を差し入れてくれた。
その日は一時間で終わり、約束の謝礼も振り込まれた。
廊下に出ると、美代さんが待っていた。
「ちょっと、びっくりしちゃった。下の洋裁教室の人がね、何かあったのかって」
防音の設備は古く、強い声は外へ漏れるらしい。
私が頭を下げると、美代さんは小さく手を振った。
「ちゃんとお仕事ですって、説明しておいたから」
*
二度目の収録の前に、美代さんが飴をくれた。
亡くなったご主人が人形劇をしていて、昔はここを稽古に使っていたという。
「声、商売道具でしょう。あの人もよくなめてたの」
編みぐるみの一つに、小さなマフラーが巻いてあった。
「前に若い子たちが使っていた場所は、苦情で借りられなくなったのよ。ここくらいはね、続けさせてあげたいの」
自分より先に、自分の仕事を大切にしてくれる人がいる。
そう思うと、うれしかった。
岸さんはこの日、大きな声を出す場面を録った。
逃げながら叫ぶ声。泣きながら謝る声。
「警察を呼んでください」という台詞もあった。
何度やっても、岸さんは黙って首を振った。
「きれいなんですよね」
「きれい、ですか」
「声だけなら、怖がってるふりはできるから。でも、ふりは、聴く人にわかるんです」
最後に、近所への説明に使う挨拶を頼まれた。
「収録の途中で人が来ると、毎回中断になるので」
台本の最後に、短い文章が書き足されていた。
〈はい、大丈夫です。声の収録をしています。ご迷惑をおかけしてすみません〉
「もう少し明るく。いかにも読んでる感じだと、かえって心配されるから」
三度目で、岸さんはうなずいた。
終わって部屋を出ると、美代さんが両手を合わせた。小さな拍手だった。
「役者さんって、すごいわね。さっきの、私まで怖くなっちゃった」
「まだ全然、駄目みたいです」
「そんなことないわよ。ちゃんと聴いてたもの」
*
三度目は、午後七時からだった。下の洋裁教室が終わるのを待ったのだ。
娘から、夕飯の写真が届いた。
実家の食卓に、カレーの皿が二枚並んでいた。
私は〈九時には帰るよ〉と送って、スマホを布のバッグにしまった。
美代さんは廊下の壁に、手書きの紙を貼っていた。
〈本日、映画の声を収録しています。大きな声や物音がしますが、ご心配ありません〉
「岸さんから頼まれて。今夜は特別、大きな音がするんですって」
紙の下が浮かないように、美代さんは丁寧にテープを押さえた。
「終わったら、顔を見せてね。飴、まだあるから」
私はポケットの包装紙を見せた。
美代さんの前で、飴を口に入れた。
機材の部屋には、小さなカメラが一台増えていた。
録音室の中は机が片づけられ、丸椅子とマイクだけになっていた。
私はコートとバッグを、機材の部屋の椅子に置いた。
「台本は、あとからですか」
岸さんは録音室の扉に手をかけていた。
「今日は、台本はありません」
私は、どういう意味かと笑った。
岸さんは笑わなかった。
「昨日までの声は、全部きれいでした。だから今日は、本当に怖いときの声をください」
岸さんは扉を閉めた。
外側で、鍵の回る音がした。
*
私は扉の取っ手を引いた。動かなかった。
「岸さん。そういう演出は聞いていません」
小窓の向こうで、岸さんはヘッドホンをかけていた。
マイクの赤いランプがついた。
「開けてください」
私は扉を叩いた。手のひらで、それから拳で。
岸さんは機材の目盛りを見ていた。私の顔ではなかった。
「娘が待ってるんです。九時に帰るって」
それでも、岸さんは目盛りを見ていた。
私が大きな声を出すたびに、針が振れる。岸さんは、その針だけを見ていた。
怖い、と思った。
思った瞬間に、喉から声が出た。
「助けて」
昨日、何十回も練習した言葉だった。
今日の声は、昨日のどれとも違った。細くて、ひび割れていた。
岸さんが、初めてうなずいた。
*
廊下のドアを叩く音がした。
「どう? 順調?」
美代さんの声だった。
私は録音室の扉に体をぶつけて、叫んだ。
「美代さん、開けて。閉じ込められてるの」
岸さんが、机のボタンを押した。
「はい、大丈夫です。声の収録をしています。ご迷惑をおかけしてすみません」
廊下のスピーカーから、私の声がした。
昨日の、三度目の声だった。
「よかった。何か倒れたみたいな音がしたから、ちょっと心配しちゃった」
美代さんは、私に話しかけていた。
「無理はしないでね」
小窓の影が離れていった。
「違う、美代さん、それは録音」
私の声は、分厚い扉と、古い防音の壁を通って、廊下ではたぶん、映画の音のように聞こえた。
「警察を呼んで」
叫んだあとで、気がついた。
それも、昨日の台本にあった台詞だった。
*
廊下で、別の人の声がした。
「今の、何ですか」
知らない男の声だった。
私は息を止めて、扉に耳をつけた。
「練習ですから、大丈夫ですよ」
美代さんが答えた。
「映画のね。ほら、入口にも貼ってあるでしょう」
私は扉を叩いた。
三度目を叩く前に、スピーカーから、私の声がした。
「はい、大丈夫です。声の収録をしています」
「ほらね」
「でも、さっき警察って」
「昨日も、同じところをやってたの。今日こそ、ちゃんと録りたいんですって」
美代さんは、昨日私を褒めたときと同じ声で言った。
「本人さんも、大丈夫だって。いま、言ってたでしょう」
足音が遠のいた。
私は、まだ廊下にいるはずの美代さんを呼ぼうとした。
うまく息が吸えなかった。声にならず、喉の奥が鳴った。
小窓の向こうで、岸さんが目を閉じていた。
その音を、聴いていた。
機材の部屋の椅子に、私の布のバッグが見えた。
持ち手が下へ垂れている。中で、スマホが光った。
娘からだろう。九時は、まだ先だった。
ドアの向こうから、物を引きずる音が聞こえた。
美代さんが、受付の椅子を運んできていた。
「私、ここに座ってるわね」
椅子の脚が、床に当たった。
「誰か来たら、練習中ですって言っておくから」
了