来年も、また
「三万円でーす!」
「高すぎない?」
「三万円です!」
五歳の紬は、段ボール箱の向こうで得意そうに笑っていた。
箱には、クレヨンで「やきそば」と書かれた紙が貼ってある。
「じゃあ、いらないです」
修司が立ち上がろうとすると、紬は慌てて叫んだ。
「じゃあ百円!」
「急に安くなったな」
「今日だけ百円でーす!」
修司は百円玉を渡すふりをした。
紬はおもちゃの皿に黄色い毛糸を盛りつけ、差し出した。
「はい、焼きそば!」
修司は食べるふりをした。
「おいしい?」
「うん、うまい」
「もっといる?」
「じゃあ、もう一つ」
「三万円でーす!」
「また値上がりしてるじゃん!」
紬は声を上げて笑った。
由紀が買い物に出かけてから、もう二時間ほど経っていた。
最初はテレビでも見せておけばいいと思っていた。修司は子どもが嫌いではなかったが、同じ遊びを何度も繰り返すのは苦手だった。
ところが今日は、思いのほか面白かった。
「すみません。この焼きそば、麺が長すぎませんか」
「長くないです!」
「お皿からはみ出してますけど」
「そういう焼きそばなの!」
紬は笑いすぎて、段ボールの向こうにしゃがみ込んだ。
修司はもう一度、店員を呼んだ。
「すみませーん」
「はーい!」
「おかわりください」
「売り切れでーす!」
「え、さっきまで三万円で売ってたのに?」
「もうないの!」
紬はまた笑った。
しばらくして、修司は屋台の看板が斜めになっていることに気づいた。
「これ、もうちょっとちゃんと作ろうか」
「何を?」
「お店」
修司は余った段ボールを切り、屋根をつけた。紬も最初は手伝っていたが、途中からシールを貼ることに夢中になっ
た。
ようやく屋台が完成すると、紬は別のおもちゃを取り出していた。
「パパ、今度お医者さんやろう!」
「え、焼きそば屋は?」
「もうおしまい!」
「せっかく作ったのに?」
「うん!」
紬はおもちゃの聴診器を差し出した。
「パパ、お医者さんね!」
修司は屋台を見た。
「あと一回だけ焼きそば買っていい?」
「もう閉店でーす!」
修司は笑った。
夕方、由紀が帰宅すると、リビングの真ん中に屋台が置かれていた。
「何これ?」
「焼きそば屋」
「二人で作ったの?」
「ほとんど俺だけどな」
由紀は屋台を眺めた。
「ずいぶん張り切ったね」
「作り始めたら面白くなってさ」
「へえ、珍しい」
「何だよ、珍しいって」
由紀は笑った。
紬は隣で、ぬいぐるみに注射を打っていた。
屋台は数日間、リビングに置かれていた。
紬がもう遊ばなかったので、週末に解体した。
修司は特に残念だとは思わなかった。
また作ればいい。
そのときは、そう思っていた。
*
「パパ、起きて!」
修司は返事をしなかった。
「ねえ、起きてってば!」
肩を揺すられ、仕方なく片目を開けた。
「何時?」
「八時半!」
「まだ朝じゃん」
「朝だから起きるんでしょ!」
あれから四年。
紬は小学四年生になっていた。
「昨日の続きやろうよ」
「昨日って、パパが勝ったやつ?」
「まだ終わってないもん!」
「三回勝ったけど」
「最後のは練習!」
「都合いいなあ」
修司が布団をかぶり直すと、紬は引き剥がした。
「わかった、起きるよ」
「早く!」
娘は先にリビングへ走っていった。
台所では由紀が朝食を用意していた。
「おはよう。また起こされたの?」
「休日くらい寝かせてほしいよ」
「昨日も遅かったじゃない」
「本読んでただけだよ」
「何時まで?」
「二時くらい」
「それで眠いって言われてもね」
修司は冷蔵庫から麦茶を取り出した。
結局、朝食の前にゲームをすることになった。
紬はコントローラーを握り、テレビに顔を近づけている。
「近い。目悪くなるぞ」
「わかってる!」
まったく離れない。
修司が得意な技を使うと、紬は声を上げた。
「それ禁止!」
「何で?」
「ずるいから!」
「じゃあ、お前も使えば?」
「できないんだもん!」
「練習しなさい」
「教えてよ!」
修司が操作方法を教えると、紬は何度か失敗してから成功した。
「できた!」
「ほらな」
「じゃあ、もう一回!」
そのとき、紬のタブレットが鳴った。
友達からの連絡だった。
「あ、ミオちゃんたち公園行くって!」
紬はコントローラーを置いた。
「おい、勝負は?」
「あとで!」
「今いいところなんだけど」
「ちょっと待って!」
紬は台所へ走った。
「ママ! 公園行っていい?」
「宿題は?」
「帰ってから!」
「昨日もそう言ってたよ」
「今日は絶対やる!」
数分後、紬は帽子をかぶって玄関に立っていた。
「いってきまーす!」
「車に気をつけろよ」
「はーい!」
ドアが閉まった。
修司はテレビに目を戻した。
画面の中では、紬のキャラクターが何もせずに立っている。
修司は遠慮なく攻撃して勝った。
「容赦ないね」
台所から由紀が言った。
「勝負だからな」
「相手いないじゃない」
「途中で逃げるほうが悪い」
由紀は笑った。
最近、紬は友達との約束を優先することが増えた。
少し寂しいが、仕方のないことだった。
子どもはそうやって大きくなる。
修司は朝食を済ませ、読みかけの本を持ってソファへ移った。
紬は夕方には帰ってくるだろう。
帰ってきたら、ゲームの続きをやればいい。
*
四月の終わり、膵臓にがんが見つかった。
肝臓にも転移していた。
医師は画像を示しながら、治療について説明した。病気を完全に取り除くことは難しく、進行を抑える治療になるという。修司は仕事や副作用について質問した。
由紀は隣でメモを取っていた。
余命を尋ねると、医師は言葉を選びながら、一年という時間も決して確かなものではないと説明した。
帰りの車で、由紀はほとんど口を開かなかった。
「まあ、できることやるしかないよな」
修司が言うと、由紀は小さくうなずいた。
しばらくして、泣き始めた。
修司は近くの駐車場に車を入れた。
妻の肩を抱くと、由紀は顔を伏せたまま言った。
「何で、あなたなの」
修司には答えられなかった。
四十四年間、それなりに好きなことをして生きてきた。
仕事にも恵まれた。行きたいところにも行った。家族が暮らせるだけの蓄えもある。
もちろん、もっと生きたい。
ただ、死ぬことそのものには、思っていたほど恐怖を感じなかった。
人間はいつか死ぬ。
それが少し早く来るだけだ。
そう考えれば、受け入れられる気もした。
家に帰ると、紬が宿題をしていた。
「パパ、おかえり!」
「ただいま」
「これ教えて」
修司は娘の隣に座った。
分数の計算だった。
「ここ、先に通分するんだよ」
「通分って何だっけ」
「この前も教えたろ」
「忘れた」
修司はノートの端に例を書いた。
紬は真剣な顔で問題を解き始める。
「これで合ってる?」
「うん。正解」
「やった!」
娘は次の問題へ進んだ。
修司はその横顔を見ていた。
中学生になったら、もっと難しい勉強をするのだろう。
その頃には、自分はもう教えてやれないかもしれない。
「パパ?」
「ん?」
「これも教えて」
修司はノートをのぞき込んだ。
*
病気のことを紬に話したのは、連休が終わった頃だった。
病気が重いこと。治療のために病院へ通うこと。元気のない日が増えるかもしれないこと。
紬は黙って聞いていた。
「パパ、死んじゃうの?」
修司は由紀を見た。
「……そうなることもある」
紬の顔が強張った。
「やだ」
「うん」
「治らないの?」
「よくなるように、先生たちと頑張るよ」
紬はうつむいた。
少しして、修司の腕にしがみついてきた。
修司は娘の頭を撫でた。
その夜、紬は久しぶりに両親のあいだで眠った。
翌朝は寝坊した。
靴下がないと騒ぎ、由紀に叱られ、学校へ走っていった。
修司は玄関からその背中を見送った。
昨夜泣いていた娘が、今朝は友達の名前を呼びながら走っている。
それを見て、少し安心した。
*
治療が始まると、修司は仕事を減らした。
体調のいい日は、できるだけ紬と過ごした。
七月の終わり、娘と市民プールへ行く約束をした。
前の晩から紬は水着を用意し、ゴーグルを探して騒いでいた。
ところが当日の朝、友達から連絡が来た。
ミオたちが午後、公園で水鉄砲遊びをするという。
「パパ、今日のプール、別の日にしてもいい?」
修司は箸を止めた。
「何で?」
「ミオちゃんたちと遊びたい」
「今日はプールって約束しただろ」
「うん。でも、また行けるじゃん」
修司は黙った。
「今日はパパと約束したんだから」
「でもさ、ミオちゃん今日しか遊べないんだって」
「パパだって、今日しか行けないかもしれないだろ」
思ったより強い声が出た。
紬は少し驚いた顔をした。
「……じゃあ、プール行く」
「行きたくないなら、やめてもいいんだぞ」
「行くって言ってるじゃん」
紬は水着を鞄に入れた。
由紀が台所から顔を出した。
「修司、そんな言い方しなくてもいいでしょう」
「先に約束してたんだよ」
「それはそうだけど」
「約束は守らないと駄目だろ」
由紀は何か言いかけて、やめた。
修司も、こんなに腹を立てることではないと思っていた。
ただ、どうしても譲りたくなかった。
プールに着くまで、紬はあまり話さなかった。
けれど水に入ると、すぐに機嫌がよくなった。
流れるプールを何周も回り、滑り台に並び、修司に水をかけて笑った。
休憩を終えてベンチから立つと、紬が修司の手を引いた。
「パパ、滑り台行こ!」
「また?」
「今度は競争!」
「二人同時に滑れないだろ」
「じゃあ、どっちが速いか時間はかる!」
「どうやって?」
「頭の中で!」
「絶対適当じゃん」
「いいから!」
紬は修司の手を引き、列の最後尾に並んだ。
順番が来ると、紬が先に滑った。
勢いよく水に飛び込み、振り返って叫ぶ。
「パパ、早く!」
修司が滑り終えると、紬は両手を上げた。
「私の勝ち!」
「何秒だった?」
「三秒!」
「三秒で滑れるわけないだろ」
「パパは十秒!」
「誰が数えたんだよ」
紬は笑った。
「じゃあ、もう一回!」
「次はちゃんと数えろよ」
「わかった!」
もう一度列に並んだ。
修司は少し息が上がっていたが、娘が楽しそうなので、休憩すると言い出すのが惜しかった。
帰りにはアイスを買った。
紬は自分のソーダ味を食べ終えると、修司のバニラも欲しがった。
「ちょっとだけ!」
差し出すと、大きな一口を食べた。
「それ、ちょっとか?」
「うん!」
家に帰ると、娘は由紀にプールの話を次々にした。
滑り台で二回勝ったこと。流れるプールで一周余計に回ってしまったこと。修司が休憩中に目を閉じていたこと。
「パパ、途中で寝てたんだよ!」
「寝てないよ」
「目つぶってたじゃん!」
「休んでただけ」
紬は楽しそうだった。
修司も楽しかった。
その夜、紬がタブレットを見て声を上げた。
「あー、いいなあ!」
修司は隣から画面をのぞいた。
ミオたちが水鉄砲を持ち、びしょ濡れになって笑っている写真だった。
「今日これやったんだって」
「そうか」
「私もやりたかったな」
紬はそれだけ言って、次の写真へ進んだ。
修司はしばらく画面を見ていた。
「パパ」
「ん?」
「明日、ミオちゃんと遊んでいい?」
「いいよ」
「やった!」
紬はすぐに返事を打ち始めた。
*
八月、修司は家族旅行を提案した。
治療の合間で体調がよさそうな日を選び、車で一時間ほどの宿を見つけた。
「来週、ここどうかな」
由紀はスマホの画面を見た。
「病院の次の日でしょう」
「そうだけど」
「この前だって、次の日ずっと寝てたじゃない」
「そのときの体調次第だよ」
「紬の習い事もあるし」
「一回くらい休めばいいじゃん」
由紀はスマホを返した。
「そんな簡単に言わないでよ。今月もう二回休んでるの」
「そうだったっけ」
「そうだよ。来週は私も仕事があるし、紬の歯医者も予約してる」
修司は黙った。
「来年、行けるかわからないんだよ」
由紀はうなずいた。
「うん」
「だったら、行けるときに行きたいじゃん」
「わかってるよ」
「わかってるならさ」
「わかってるって!」
由紀の声が大きくなった。
修司は黙った。
由紀は額に手を当てた。
「……ごめん」
「いや」
「でも、私だって行きたいよ。紬と一緒にいろんなところ行きたい。でも、来週のあなたの体調もわからないのに、そんな簡単に決められないよ」
由紀は予定表を閉じた。
「キャンセルの電話するのだって、私なんだから」
修司は何も言えなかった。
旅行は予約しなかった。
翌朝、由紀が台所で予定表を見ていると、修司が声をかけた。
「昨日の旅行の話だけど」
「うん」
「急に言って悪かった」
由紀は顔を上げた。
「……うん」
「歯医者も予約取り直すの大変なんだろ」
「そうなの。夏休みだから全然空いてなくて」
「そっか」
修司は冷蔵庫から麦茶を出した。
「じゃあ、今月はやめとくか」
「いいの?」
「よくないけど、仕方ないだろ」
由紀は少し笑った。
「ごめんね」
「いや」
本当は今月のうちに行きたかった。
九月の自分が、今より元気でいる保証はなかった。
それでも修司は、もう一度旅行の話を持ち出す気にはなれなかった。
*
秋になると、紬は修司を遊びに誘わなくなった。
休日の朝、以前なら布団を剥がしに来た娘が、一人でゲームをしている。
修司が起きると、
「パパ、もう起きたの?」
と聞く。
ある日、由紀が言った。
「紬、この前聞いてきたよ。パパを誘ったら疲れちゃうかなって」
修司はテレビから目を離した。
「……そうか」
「寝てるときは起こさないほうがいいんじゃないって話したの」
以前、紬に起こされて、休日くらい寝かせてくれと思っていた。
今は誰にも起こされない。
「誘ってくれてもいいのにな」
修司が言うと、由紀は答えた。
「あなたから誘えばいいじゃない」
その日の夕方、紬が帰ってくると、修司は声をかけた。
「紬、ゲームする?」
「えー、宿題まだ終わってない」
「珍しいな。自分から宿題やるなんて」
「昨日やってないんだもん」
「そっか」
「終わったらやろ!」
しかし宿題は長引き、そのまま夕食になった。
「ゲーム、明日ね!」
寝る前、紬が言った。
翌日は治療の日だった。
帰宅してから横になっていると、寝室のドアが少し開いた。
「パパ、今日できる?」
修司は目を閉じたまま答えた。
「ごめん。今日は無理だ」
「そっか」
ドアが閉まった。
しばらくして、リビングからゲームの音が聞こえてきた。
修司は起き上がろうとした。
ベッドの縁に手をつき、体を起こす。
しばらく座ってみたが、吐き気が治まらなかった。
結局、また横になった。
リビングから、紬の声が聞こえた。
一人で遊んでいるのに、ときどき大きな声を上げていた。
*
十月のある晩、由紀がノートパソコンを開いていた。
銀行の画面だった。
「何してるの?」
修司が聞いた。
「口座の整理」
「俺の?」
「うん。引き落としとか、確認しておこうと思って」
「一覧にしてあるよ」
「見たよ。私もわかるようにしておこうと思って」
以前なら、こうしたことは修司に任せきりだった。
「そんなに急がなくてもいいんじゃない?」
由紀の手が止まった。
「何が?」
「いや、まだ俺、生きてるし」
由紀は画面を見たまま、しばらく黙っていた。
「……じゃあ、いつやればいいの?」
修司は返事に詰まった。
「そういう意味じゃないけど」
由紀はノートパソコンを閉じた。
「私だって、やりたくてやってるわけじゃないよ」
「わかってるって」
「わかってるなら、そんなこと言わないでよ」
由紀は立ち上がり、台所へ向かった。
食器の触れ合う音がした。
「……ごめん」
修司が言うと、由紀は振り返らずに答えた。
「いいよ」
まだ少し怒っている声だった。
しばらくして、冷蔵庫が開く音がした。
「プリン食べる?」
「食べる」
「紬の分は残してね」
「わかってるよ」
由紀は二つ持ってきた。
一つを修司の前に置く。
「これ、好きだったでしょ」
「覚えてたんだ」
「この前も買ったじゃない」
修司は蓋を開けた。
病気になってから食べられないものが増えたが、これはまだおいしいと思えた。
「そういえば、来月だね」
由紀が言った。
「何が?」
「結婚記念日」
「ああ」
「忘れてたでしょう」
「今思い出したところ」
「それ、忘れてたって言うんだよ」
由紀は笑った。
修司も笑った。
「十九年か」
「そうだね」
由紀はスプーンを置いた。
「紬が中学生になったら、もう少し二人の時間が増えると思ってたんだけどな」
修司は妻を見た。
「そうかな。中学生なんて、まだまだ手がかかるだろ」
「今よりは減るでしょ」
「どうだろうな」
由紀は少し笑った。
修司は冗談を言おうとしたが、何も思いつかなかった。
「由紀」
「何?」
「今年の結婚記念日、何食べたい?」
由紀は顔を上げた。
「急にどうしたの?」
「いや、たまには俺が考えようかなと思って」
「今まで考えたことあったっけ?」
「あるだろ」
「去年は?」
「……去年、何食べたっけ」
由紀は笑った。
「ほら、覚えてないじゃない」
修司も笑った。
「じゃあ、今年はちゃんと考えるよ」
「家でいいよ。三人で何か食べよう」
「何がいい?」
「お寿司でも取る?」
「いいね」
「紬、サーモンばっかり食べるけど」
「俺の分は別に頼もうかな」
「それでも取られるよ」
二人は笑った。
修司は、結婚記念日まであと何日あるか考えた。
まだ一か月近くあった。
*
十一月、修司は入院した。
体力は以前より落ち、家に戻れる日も少なくなっていた。
紬は週末になると見舞いに来た。
ある日、ベッドの横で突然言った。
「パパ、私、中学生になったらバスケ部入るかも」
「バスケ?」
「うん!」
「今だって、そんなに練習してないじゃん」
「中学生になったらちゃんとやるもん」
「そうか」
「ミオちゃんも入るって」
修司は笑った。
「まだ三年も先だぞ」
「でも決めた!」
「気が早いなあ」
「パパも一緒に練習してね」
「中学生になってから?」
「うん!」
「その頃には、お前のほうが上手いかもな」
「絶対そう!」
紬は得意そうに笑った。
それから、学校で友達が先生に叱られた話を始めた。
修司は娘の顔を見ていた。
中学生になった紬は、どんな顔をしているのだろう。
どのくらい背が伸びて、どんな友達と遊んでいるのだろう。
「パパ、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「じゃあ、何て言った?」
「先生に叱られた話」
「それ、さっきの話!」
紬は笑った。
*
その週末、修司は数日だけ自宅に戻った。
紬が寝たあと、由紀はリビングで学校の書類を書いていた。
修司はソファでテレビを見ていた。
「来年度の役員?」
「うん。希望だけ先に出すんだって」
「もうそんな時期か」
「早いよね」
由紀はペンを動かした。
しばらくして、顔を上げた。
「どうしたの?」
「何が?」
「さっきからテレビ、見てないでしょう」
修司は画面を見た。
何の番組なのかもよくわからなかった。
「ちょっと考え事」
由紀はペンを置いた。
「あいつ、中学生になったらバスケ部入るんだって」
「聞いたよ」
「続くと思う?」
「どうかな。今はやる気だけど」
「三日でやめそうだよな」
由紀は笑った。
「三日は早すぎるでしょ」
修司も笑った。
「試合とか、見に行きたかったな」
由紀は修司を見た。
「……うん」
「俺が行ったら嫌がるかな」
「まだわかんないよ」
「そのうち嫌がるだろ」
「まあ、嫌がるかもね」
修司は少し笑った。
「……見たかったな」
由紀は何も言わなかった。
修司はテレビを消した。
部屋が静かになった。
しばらくして、修司が言った。
「……死にたくない」
言った途端、涙が落ちた。
修司は顔を伏せた。
由紀が隣に座り、背中に手を置いた。
「……私だって」
由紀の声も震えていた。
「まだ、一緒にいたいよ」
修司は妻の手を握った。
二人はしばらく、そのままでいた。
廊下の向こうで、寝室のドアが開く音がした。
「ママー」
紬の声だった。
由紀が顔を上げた。
「何?」
「お水」
「冷蔵庫にあるよ」
「コップ取ってー」
由紀が立ち上がろうとすると、修司が手を離した。
「俺、取るよ」
ゆっくり立ち上がり、台所へ向かった。
紬は眠そうな顔で立っていた。
「パパ、起きてたの?」
「起きてたよ」
「もう寝る?」
「もうちょっとしたらな」
修司は水を注いだ。
紬は半分ほど飲んで、コップを差し出した。
「もういい」
「はいはい」
「おやすみー」
「おやすみ」
紬は寝室へ戻っていった。
修司はコップを流しに置いた。
リビングに戻ると、由紀が鼻をすすっていた。
修司は隣に座った。
由紀は何も言わず、修司の手を握った。
*
冬のあいだ、修司は何度か入退院を繰り返した。
年末、紬は新しいゲームを買った。
「パパ、今度一緒にやろう!」
「いいよ」
けれど、体調の悪い日は遊べなかった。
紬は一人で操作方法を調べ、修司が知らない技も覚えた。
三月、紬は四年生を終えた。
通知表を持って見舞いに来た娘は、図工の成績が上がったことを真っ先に報告した。
「国語は?」
修司が聞くと、紬は通知表を引っ込めた。
「そこは見なくていい!」
「見せろよ」
「やだ!」
「ねえ、パパ。五年生になったらクラス替えなんだよ」
「そうだったな」
「ミオちゃんと一緒がいいなあ」
「一緒になれるといいな」
「うん!」
四月の初め、修司は自宅へ戻ることができた。
病気がよくなったわけではなかった。治療は続いていたし、体調の悪い日は一日中横になっていた。
それでも、家に帰れた。
紬は五年生になった。
*
新学期が始まって最初の日曜日。
修司が起きたとき、紬はすでに出かける準備をしていた。
「ママ、帽子知らない?」
「昨日、自分で片づけたでしょう」
「だから、どこに?」
「知らないわよ」
紬は廊下へ走っていった。
修司はソファに座り、麦茶を飲んだ。
今日は朝から具合がよかった。
久しぶりに朝食も全部食べられた。
「パパ、今日ミオちゃんと遊んでくるね!」
帽子をかぶった紬が、玄関から顔を出した。
「何時まで?」
「四時!」
「そんなに?」
「だって、お昼も一緒に食べるんだもん」
「そうか」
修司は時計を見た。
まだ九時にもなっていない。
「紬」
「何?」
修司は一瞬迷った。
今日は家にいればいいのに。
そう言いたかった。
こんなに調子がいい日は、次にいつ来るかわからない。
「……お金、持った?」
「持った!」
「車に気をつけろよ」
「わかってる!」
紬は玄関を飛び出していった。
ドアが閉まった。
修司は本を手に取った。
三ページほど読んで、閉じた。
*
三時前に、紬が帰ってきた。
「ただいまー!」
「おかえり。早かったな」
「ミオちゃん、習い事なんだって」
紬は冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。
「パパ、ゲームしよう!」
修司は笑った。
「いいよ」
「今日、絶対勝つからね」
「いつもそう言ってるだろ」
「今日は違うもん!」
紬はコントローラーを二つ持ってきた。
最初の対戦は修司が勝った。
「パパ、そこ禁止!」
「またかよ」
「ずるいから!」
「お前も使えばいいだろ」
「まだできないの!」
「練習しなさい」
「してるもん!」
二回目の対戦が始まった。
紬の操作は、以前よりずいぶん上達していた。
修司が攻撃を仕掛けても、簡単には当たらない。
「いつの間にそんなに上手くなったんだよ」
「練習したもん!」
紬は修司が得意とする技を避けた。
「おい、今のどうやった?」
「内緒!」
「教えろよ」
「勝ったらね!」
修司は笑った。
「言ったな」
修司は別の技を仕掛けた。
紬は一瞬遅れて反応したが、ぎりぎりでかわした。
「危なっ!」
「今のは当たったと思ったんだけどな」
「当たってませーん!」
紬は笑いながら反撃してきた。
修司は慌てて防御した。
「おい、ちょっと待て!」
「待たない!」
「そういうときは待つもんだろ」
「パパだって待たないじゃん!」
「それはそうだな」
紬のキャラクターがもう一度近づいてきた。
今度は修司が避けられなかった。
画面に勝利の文字が出た。
「やった!」
紬はコントローラーを持ち上げた。
「勝った! パパに勝った!」
修司は画面を見た。
何度も対戦してきた娘に、初めて負けた。
「……やるじゃん」
「でしょ!」
修司はコントローラーを握り直した。
「あと一回!」
今度は修司から言った。
紬は笑った。
「いいよ!」
三回目は、修司も本気になった。
紬の動きをよく見て、タイミングを合わせる。
一度は追い詰めた。
「よし、今度こそ!」
「まだだもん!」
紬はそれまで使わなかった技を出した。
修司は対応できなかった。
「あっ」
画面が切り替わった。
また負けた。
「やった! 二連勝!」
「今の何だよ!」
「内緒!」
「ずるいだろ」
「パパも内緒の技使うじゃん!」
「確かに」
紬は得意そうにコントローラーを揺らした。
「私、もうパパより強いかも!」
「まだ二回勝っただけだろ」
「二回も勝ったんだよ!」
「じゃあ、次で決めるか」
「いいよ!」
修司はコントローラーを握り直した。
ところが、次の対戦が始まる前に、指からコントローラーが滑り落ちた。
床に当たって、鈍い音がした。
「あっ」
紬が振り返った。
「パパ、大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと手が滑った」
修司は拾おうとしたが、体を前に倒すのがつらかった。
「取ってあげる」
紬が拾い上げた。
「はい」
「ありがとう」
「疲れた?」
「ちょっとな」
紬はテレビを見た。
「じゃあ、休んでていいよ」
「悪いな」
「私、一人で練習するから」
紬は一人用のモードに切り替えた。
修司はソファに背中を預けた。
「パパ、見て!」
紬がさっきの技を使った。
「おお」
「これ、できるようになったんだよ!」
「パパも使えばいいのに」
「教えてくれる?」
「いいよ!」
紬は操作方法を説明し始めた。
「ここでさ、こうやって押すの」
指を動かしてみせる。
「わかった?」
「たぶん」
「じゃあ、やってみて!」
修司はコントローラーに手を伸ばした。
けれど、持ち上げる気になれなかった。
「……もうちょっと休ませて」
「えー」
紬は一瞬、不満そうな顔をした。
それからテレビに向き直った。
「じゃあ、私もう一回練習する」
「うん」
修司は目を閉じた。
しばらく、ボタンを押す音が続いた。
*
「パパ!」
修司は目を開けた。
紬がこちらを見ていた。
「寝てた?」
「ちょっとだけ」
「もう四時だよ」
時計を見ると、一時間近く経っていた。
台所から物音が聞こえる。由紀が買い物から戻ったらしい。
紬はテレビを消した。
「そうだ、パパ!」
「何?」
「ミオちゃんと同じクラスになったって、言ったっけ?」
「まだ聞いてないな」
「一緒だったんだよ!」
「おお、よかったじゃん」
「あとね、担任の先生、すっごい背が高いの」
「へえ」
「パパより高いかも」
「それは高いな」
紬は次々に話した。
新しい先生のこと。給食当番のこと。来月の遠足のこと。
知らない名前がいくつも出てきた。
「それでね、ミオちゃんが――」
紬は途中で話を止めた。
「パパ、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「今、何の話してた?」
修司は少し考えた。
「ミオちゃんの話」
「それはわかってるでしょ!」
紬は笑った。
修司も笑った。
台所から由紀が呼んだ。
「紬、お箸並べてー」
「えー、今話してるのに!」
「あとで話せるでしょ」
「はーい」
紬は立ち上がった。
二、三歩進んでから振り返った。
「パパ、明日もゲームやろうね」
修司は娘を見た。
明日は治療の予定だった。
帰ってきても、起きていられるかわからない。
「明日は、ちょっと無理かもしれないな」
「えー!」
「病院だからさ」
「あ、そっか」
紬は少し考えた。
「じゃあ、あさって!」
「そうだな」
「絶対だよ!」
「具合がよかったらな」
「えー、またそれ!」
紬は台所へ走っていった。
「ママ、お箸どこだっけ?」
「いつもの引き出し!」
「あった!」
由紀の笑う声が聞こえた。
修司はソファに座ったまま、台所のほうを見ていた。
あさっては、娘と遊びたかった。
できれば、明日も。
少し休んでから、修司はテレビの電源を入れた。
さっき紬に教わった操作を試してみる。
一度目は失敗した。
二度目も、うまくいかなかった。
修司はもう一度、ボタンを押した。
了