お迎えに間に合う仕事
私が断ったという仕事の資料を、私は毎朝、誰よりも早く作っていた。
契約更新の面談で、そのことを初めて知った。
「ご家庭の事情で、担当は辞退されたんですよね」
部長は手元の紙を見ていた。
希望する仕事の欄には、補助業務。その横に、小さく〈本人了承〉と書いてあった。
私の字ではなかった。
*
半年前、この企画会社に入るとき、私は真理さんに一つだけ頼んだ。
「五時には帰りたいんです。学童のお迎えがあるので」
真理さんは私の履歴書を閉じた。
「そこは守ろう。仕事は、みんなで回せばいいから」
前の会社を辞めたのは、娘が小学校に入る直前だった。
夕方になると、その日の仕事とは別の仕事が始まった。時計を見る。電話が鳴らないように祈る。帰ることを、誰に何と言うか考える。
夫とは離婚していた。実家も、毎日頼める距離ではない。
迎えに遅れた私を、娘は責めなかった。靴を履いて待っていた、と報告するだけだった。
真理さんの言葉を聞いて、私は久しぶりに、仕事の中身について質問できた。
会社は、店のチラシや売り場の企画を作っていた。
同じチームの加奈さんは入社二年目で、私が共有フォルダの場所に迷うと、椅子を寄せて教えてくれた。
五時が近づくと、真理さんが私の机へ来た。
「もう時間。続きは明日でいいから」
私は途中の画面を、なかなか閉じられなかった。
真理さんは、私の代わりにパソコンの時計を指した。
「明日もあるんだから」
*
入社三か月目、駅前の食品店から仕事が来た。
季節ごとの売り場を、一年間まとめて提案する案件だった。
「私、やってみたいです」
会議で手を挙げると、真理さんは少し考えた。
「担当になると、急な連絡もあるよ。お迎え、大丈夫?」
「夕方以降は、相談させてほしいです。でも、企画はやりたいです」
「無理のないところで、お願いしよう」
結局、窓口は加奈さんになった。
私は打ち合わせに同行し、売り場を見て、提案のたたき台を作った。
店長は、客が値札を見つけられないことを気にしていた。
私は大きな看板を増やすより、棚の下に埋もれた値札を上げる案を出した。
「こっちなら、店の人もすぐ直せますね」
店長がその場で棚にしゃがんだ。加奈さんも隣にしゃがみ、写真を撮った。
帰り道、久しぶりに、自分の足で仕事をしている気がした。
その週、真理さんから契約更新の希望表を渡された。
〈企画担当〉と〈補助業務〉の、どちらかに丸を付ける欄があった。
「担当のほうを考えているんですけど」
真理さんは、食品店の資料に目を落とした。
「担当には手当が付く。でも、窓口として最後まで見る責任もある。まずは半年、生活を安定させたほうがいいと思う」
手当の額は、娘の習い事の月謝とほぼ同じだった。
私が表を持ったまま考えていると、真理さんが言った。
「急がなくていいよ。更新の手続きは進めておくね。今と同じ時間で」
「ありがとうございます」
私はそう答えて、表を引き出しにしまった。
*
食品店の仕事が進むと、加奈さんの机に書類が積まれていった。
私は朝、娘を送り出してすぐ会社へ行き、電話の少ない時間に資料を作った。
先方に出すファイルには、加奈さんの名前が載った。窓口の名前だ、と思っていた。
ある夕方、私の書いた説明について、店長から電話があった。
話し始めると、真理さんが横に来た。五時二分前だった。
「代わるよ。それが延びるんだから。ほら、加奈さん」
翌朝、そのメモに返事を書こうとすると、加奈さんの字で、既に〈対応済み〉とあった。
娘が熱を出した日、欠勤を連絡すると、真理さんからすぐ返事が来た。
〈お母さんの代わりはいないから。こっちは気にしないで〉
その夕方、食品店への提案が通った。
〈今回は加奈さんが全部まとめてくれたから、安心してね〉
私は〈助かります〉と送った。
本当に、助かっていた。
*
面談のあと、小さな会議室で真理さんと向き合った。
私は引き出しにあった希望表を出した。丸はどこにも付いておらず、角だけが少し折れていた。
「まだ、これを出していません」
真理さんは、折れた角を指で押さえた。
「今のままの時間で、って言ったら、ありがとうって。それで、いいのかと」
「時間は、今のままがいいです。でも、仕事の希望は別です」
「担当をするなら、加奈さんみたいに急な対応も必要になるよ」
「それを、どう分けたらできるか、聞きたかったんです」
真理さんは何か言いかけて、口を閉じた。
「私ね、母の介護で、一度仕事を辞めてるの」
初めて聞く話だった。
「帰るって言ってるのに、会議を延ばされて。母が一人で待ってるからって言うと、じゃあ担当は無理だねって。だから、ここでは帰れるようにしたかった。仕事と家の両方で、頭を下げなくていいように」
真理さんが悪い人だったら、私はもっと簡単に怒れたと思う。
娘の熱も、お迎えの時間も、真理さんは一度も嫌な顔をしなかった。
それでも、私が辞退したという紙はあった。
「帰らせてもらって、助かっています。でも、断るかどうかは、私に聞いてほしかったです」
真理さんは、表から手を離した。
「そうね。それは、聞かなきゃいけなかった」
食品店の窓口は、次も加奈さんで進めることになっていた。
名前だけ今から替えることはできない、と真理さんは言った。その通りだった。加奈さんは、私が帰ったあとの電話にも、ずっと出てくれていた。
私は、自分のした仕事を更新の面談で伝えてほしいとだけ頼んだ。
手当の約束ではなかった。
次の案件では、自分で〈企画担当〉に丸を付けた。
夕方の電話は加奈さんと分けること、朝のうちに答えを用意しておくこと。その段取りを、表の余白に自分の字で書いた。
*
翌年の春、チームに新しい人が入った。
私と同じくらいの年の女性で、名札には杉本と書いてあった。
私が、仕事の案内を任された。
「五時には帰りたいんです。保育園のお迎えがあるので」
杉本さんは、少し身構えるように言った。
私はうなずいた。
「そこは守ろう。仕事は、みんなで回せばいいから」
言ってから、自分の声に聞き覚えがあると思った。
杉本さんの肩が、ふっと下がった。
私は案内の資料をめくり、更新の時期と、仕事の種類の説明に進んだ。
「担当には手当が付くんですけど、窓口として最後まで見る責任もあるので。まずは半年、生活を安定させたほうが」
そこまで言って、口が止まった。
杉本さんは、私を見ていた。
「ありがとうございます」
杉本さんは、そう言った。
私が一年前に言ったのと、同じ言い方だった。
私は資料を閉じた。
引き出しから、新しい希望表を一枚出した。
「今のは、私の考えです。どっちに丸を付けるかは、杉本さんが決めてください。決まらなかったら、白いまま出して大丈夫です。私が、聞きに行きます」
杉本さんは表を受け取り、しばらく二つの欄を見ていた。
時計が、五時十分前を指していた。
私は、杉本さんの代わりに時計を指さなかった。
杉本さんは、自分で時計を見上げた。
それから表を折らずに鞄へ入れ、私より先に立ち上がった。
了