書き下ろしその他

お迎えに間に合う仕事

約2,810字 読了目安 約6分 2026年10月29日 公開

私が断ったという仕事の資料を、私は毎朝、誰よりも早く作っていた。

契約更新の面談で、そのことを初めて知った。

「ご家庭の事情で、担当は辞退されたんですよね」

部長は手元の紙を見ていた。

希望する仕事の欄には、補助業務。その横に、小さく〈本人了承〉と書いてあった。

私の字ではなかった。

半年前、この企画会社に入るとき、私は真理さんに一つだけ頼んだ。

「五時には帰りたいんです。学童のお迎えがあるので」

真理さんは私の履歴書を閉じた。

「そこは守ろう。仕事は、みんなで回せばいいから」

前の会社を辞めたのは、娘が小学校に入る直前だった。

夕方になると、その日の仕事とは別の仕事が始まった。時計を見る。電話が鳴らないように祈る。帰ることを、誰に何と言うか考える。

夫とは離婚していた。実家も、毎日頼める距離ではない。

迎えに遅れた私を、娘は責めなかった。靴を履いて待っていた、と報告するだけだった。

真理さんの言葉を聞いて、私は久しぶりに、仕事の中身について質問できた。

会社は、店のチラシや売り場の企画を作っていた。

同じチームの加奈さんは入社二年目で、私が共有フォルダの場所に迷うと、椅子を寄せて教えてくれた。

五時が近づくと、真理さんが私の机へ来た。

「もう時間。続きは明日でいいから」

私は途中の画面を、なかなか閉じられなかった。

真理さんは、私の代わりにパソコンの時計を指した。

「明日もあるんだから」

入社三か月目、駅前の食品店から仕事が来た。

季節ごとの売り場を、一年間まとめて提案する案件だった。

「私、やってみたいです」

会議で手を挙げると、真理さんは少し考えた。

「担当になると、急な連絡もあるよ。お迎え、大丈夫?」

「夕方以降は、相談させてほしいです。でも、企画はやりたいです」

「無理のないところで、お願いしよう」

結局、窓口は加奈さんになった。

私は打ち合わせに同行し、売り場を見て、提案のたたき台を作った。

店長は、客が値札を見つけられないことを気にしていた。

私は大きな看板を増やすより、棚の下に埋もれた値札を上げる案を出した。

「こっちなら、店の人もすぐ直せますね」

店長がその場で棚にしゃがんだ。加奈さんも隣にしゃがみ、写真を撮った。

帰り道、久しぶりに、自分の足で仕事をしている気がした。

その週、真理さんから契約更新の希望表を渡された。

〈企画担当〉と〈補助業務〉の、どちらかに丸を付ける欄があった。

「担当のほうを考えているんですけど」

真理さんは、食品店の資料に目を落とした。

「担当には手当が付く。でも、窓口として最後まで見る責任もある。まずは半年、生活を安定させたほうがいいと思う」

手当の額は、娘の習い事の月謝とほぼ同じだった。

私が表を持ったまま考えていると、真理さんが言った。

「急がなくていいよ。更新の手続きは進めておくね。今と同じ時間で」

「ありがとうございます」

私はそう答えて、表を引き出しにしまった。

食品店の仕事が進むと、加奈さんの机に書類が積まれていった。

私は朝、娘を送り出してすぐ会社へ行き、電話の少ない時間に資料を作った。

先方に出すファイルには、加奈さんの名前が載った。窓口の名前だ、と思っていた。

ある夕方、私の書いた説明について、店長から電話があった。

話し始めると、真理さんが横に来た。五時二分前だった。

「代わるよ。それが延びるんだから。ほら、加奈さん」

翌朝、そのメモに返事を書こうとすると、加奈さんの字で、既に〈対応済み〉とあった。

娘が熱を出した日、欠勤を連絡すると、真理さんからすぐ返事が来た。

〈お母さんの代わりはいないから。こっちは気にしないで〉

その夕方、食品店への提案が通った。

〈今回は加奈さんが全部まとめてくれたから、安心してね〉

私は〈助かります〉と送った。

本当に、助かっていた。

面談のあと、小さな会議室で真理さんと向き合った。

私は引き出しにあった希望表を出した。丸はどこにも付いておらず、角だけが少し折れていた。

「まだ、これを出していません」

真理さんは、折れた角を指で押さえた。

「今のままの時間で、って言ったら、ありがとうって。それで、いいのかと」

「時間は、今のままがいいです。でも、仕事の希望は別です」

「担当をするなら、加奈さんみたいに急な対応も必要になるよ」

「それを、どう分けたらできるか、聞きたかったんです」

真理さんは何か言いかけて、口を閉じた。

「私ね、母の介護で、一度仕事を辞めてるの」

初めて聞く話だった。

「帰るって言ってるのに、会議を延ばされて。母が一人で待ってるからって言うと、じゃあ担当は無理だねって。だから、ここでは帰れるようにしたかった。仕事と家の両方で、頭を下げなくていいように」

真理さんが悪い人だったら、私はもっと簡単に怒れたと思う。

娘の熱も、お迎えの時間も、真理さんは一度も嫌な顔をしなかった。

それでも、私が辞退したという紙はあった。

「帰らせてもらって、助かっています。でも、断るかどうかは、私に聞いてほしかったです」

真理さんは、表から手を離した。

「そうね。それは、聞かなきゃいけなかった」

食品店の窓口は、次も加奈さんで進めることになっていた。

名前だけ今から替えることはできない、と真理さんは言った。その通りだった。加奈さんは、私が帰ったあとの電話にも、ずっと出てくれていた。

私は、自分のした仕事を更新の面談で伝えてほしいとだけ頼んだ。

手当の約束ではなかった。

次の案件では、自分で〈企画担当〉に丸を付けた。

夕方の電話は加奈さんと分けること、朝のうちに答えを用意しておくこと。その段取りを、表の余白に自分の字で書いた。

翌年の春、チームに新しい人が入った。

私と同じくらいの年の女性で、名札には杉本と書いてあった。

私が、仕事の案内を任された。

「五時には帰りたいんです。保育園のお迎えがあるので」

杉本さんは、少し身構えるように言った。

私はうなずいた。

「そこは守ろう。仕事は、みんなで回せばいいから」

言ってから、自分の声に聞き覚えがあると思った。

杉本さんの肩が、ふっと下がった。

私は案内の資料をめくり、更新の時期と、仕事の種類の説明に進んだ。

「担当には手当が付くんですけど、窓口として最後まで見る責任もあるので。まずは半年、生活を安定させたほうが」

そこまで言って、口が止まった。

杉本さんは、私を見ていた。

「ありがとうございます」

杉本さんは、そう言った。

私が一年前に言ったのと、同じ言い方だった。

私は資料を閉じた。

引き出しから、新しい希望表を一枚出した。

「今のは、私の考えです。どっちに丸を付けるかは、杉本さんが決めてください。決まらなかったら、白いまま出して大丈夫です。私が、聞きに行きます」

杉本さんは表を受け取り、しばらく二つの欄を見ていた。

時計が、五時十分前を指していた。

私は、杉本さんの代わりに時計を指さなかった。

杉本さんは、自分で時計を見上げた。

それから表を折らずに鞄へ入れ、私より先に立ち上がった。

了