書き下ろしその他

お父さんの更新日

約15,646字 読了目安 約31分 2026年10月28日 公開

第一章 犬がいるから

「パパ、来年から変わってもいい?」

娘がそう言い出したのは、夕飯の唐揚げが残り三つになったときだった。

「何が」

「パパ」

私は箸を止めた。向かいの真理も、味噌汁の椀を持ったまま娘を見た。

「誰に?」

「健吾さん」

田中健吾。娘の美羽と同じクラスの、さくらちゃんの父親だ。運動会で会えば挨拶をするし、去年の夏には両家でバーベキューもした。よく笑う男で、子どもたちに人気があった。

「どうして田中さんなんだ」

「犬いるから。モカ」

「パパを変えても、モカがうちに来るわけじゃないぞ」

「知ってるよ。でも健吾さんも好きだから」

「犬とどっちが」

「モカ」

真理が吹き出した。

「そこは健吾さんって言ってあげなよ」

「健吾さんには聞いたのか」

「まだ。先にパパに聞こうと思って。交換だから」

「交換?」

「さくらちゃんは、パパがいいんだって。算数教えてもらいたいって」

夏休みに、さくらちゃんの宿題を見たことがあった。美羽と二人で分数の問題につまずいていたので、図を描いて説明すると、さくらちゃんはすぐにのみこんだ。美羽は「説明が長い」と言って、途中から聞いていなかった。

「パパ、ちゃんと教えてくれるからいいって。でも、説明が長いとも言ってた」

真理が笑った。美羽は最後の唐揚げを自分の皿に取った。

「それ、パパの分だぞ」

「半分あげようか?」

「いいよ」

「じゃあ、食べるね」

真理が聞いた。

「パパが田中さんのおうちに行くなら、健吾さんがうちに来るんでしょ。ママは、健吾さんと暮らすの?」

「そうだよ。いい?」

「考えさせて」

「パパは?」

「俺も考えるよ」

「大人って決めるの遅いね。決まったら教えて」

美羽は食器を下げ、二階へ上がっていった。

選択養育特例法ができて、五年になる。十歳以上の子どもが、条件を満たす大人を一時的な養育者に選べる制度だ。親権も戸籍も変わらない。原則三か月の試行期間があり、子どもと、関わる大人全員の同意がいる。

始まった頃は家族を壊すと批判され、一方で、親とうまくいかない子が別の大人に助けを求められる仕組みだと支持もされた。最近は、深刻な事情がなくても申請が通るようになっている。それでも、うちには関係のない制度だと思っていた。

美羽は学校が好きで、友達が多く、成績は普通だった。朝はなかなか起きず、宿題は後回しにする。真理とはよく口喧嘩をするが、翌朝には忘れている。私は仕事が早く終われば家族と夕飯を食べ、休日はできるだけ一緒に過ごし、勉強も見ていた。小さい頃は毎晩絵本を読んだ。今は話しかけても面倒くさそうに返事をする。先月「美羽、パパのこと好き?」と聞いたら、「そういうの、いちいち聞かなくてよくない?」と言われた。

美羽がほかの父親を試してみたいというなら、頭から否定するつもりはなかった。

食器を洗っている真理の横に立った。

「美羽の話、どう思う?」

「ずいぶん楽しそうだったね。あなたも。さくらちゃんに選ばれたって聞いたとき」

私は冷蔵庫から冷えたお茶を出した。

「悪い気はしなかったよ。真理は?」

「私は、まだよくわからない。田中さんたちがいい人でも、一緒に暮らせるかどうかは別でしょ」

「美羽が本気なら、考えてもいいと思ってる。三か月だけだし、何かあれば途中でやめられる。近所だから会おうと思えばいつでも会えるし。真理が嫌なら、もちろんやめればいい」

「私が嫌だって言ったら、美羽には何て言うの」

「事情を説明すればいいだろ。二人で」

真理は手を拭いた。

「美羽の希望をかなえてあげたいのは、あなたなんだよね。でも、かなえてあげないって決めるのは、私なの?」

「そんなこと言ってないだろ。嫌なら断ればいいじゃないか」

「そうする」

台所を出ようとすると、真理が言った。

「直樹。あなたは、断らないの?」

「どうして俺が? 俺が断ったら、美羽ががっかりするだろ。真理だって、それは嫌だろ」

真理は答えなかった。布巾を引き出しにしまい、もう一杯いるかと聞いた。私はいらないと答えて、居間に戻った。

翌日の昼休み、健吾から電話があった。

「いやあ、さくらから聞きまして。うちの娘が高橋さんを指名したって。僕なんか冗談だと思いましたもん」

「美羽からも聞きました」

「嫌なのかって聞いたら、嫌じゃないって。算数を教えてほしいんだそうです」

「そうみたいですね」

「僕だって教えてるんですけどね、途中で嫌になるらしくて。余計なこと言うからかなあ。計算を間違えると、つい笑っちゃうんですよ。そんなのもわかんないのか、なんて」

私は返事をしなかった。

「もちろん冗談ですよ。でも、さくらは真面目だから」

夏休みのさくらちゃんを思い出した。問題を解き終えたあと、何度も礼を言っていた。

「よかったら一度、四人で話しませんか」

日曜日の午後、うちで会うことになった。真理に連絡すると、すでに絵里さんからも電話が来ていたらしい。

『そういえば、再来年の一月から母親も対象になるんだって。学校から案内が来てた』

『美羽は犬のことしか考えてないだろ』

笑っている顔の絵文字が届き、少しして、もう一通来た。

『昨日のこと、考えてみた?』

仕事のメールを片づけてから返した。

『まだ。日曜にみんなで話そう』

既読がついて、返事はなかった。

日曜日、田中夫妻が来た。

「健吾さん! モカは?」

「お留守番。今日は大事なお話だからね」

美羽が健吾の腕を引っぱっているあいだに、絵里さんが頭を下げた。

「さくらは?」

「美羽の部屋でゲームしてますよ。うちに来ると、よく二人でやってます」

真理が言うと、健吾が階段を見上げた。

「さくらがゲーム? 家ではほとんどしないんですよ。僕が買ったのに」

「知らなかった?」

絵里さんが夫を見た。二階から、二人の叫ぶ声が聞こえた。

「あー! ずるい!」

「ずるくないよ!」

「うちのさくら、喧嘩なんかするんだ」

「するよ。あなたがいないときに」

絵里さんが答えた。健吾は何か言いかけたが、その前に真理がリビングへ案内した。

テーブルには、制度の説明資料を四人分用意してあった。

「本当に交換するかどうかから、話しませんか。まだ誰も決めてないので」

真理が言った。絵里さんが先に口を開いた。

「私は、やってみてもいいと思っています。さくらは、何を聞いても何でもいいって答える子なんです。夕飯も、行きたいところも。だから今回は、本人が選んだことを大事にしたくて」

「うちも美羽が自分で言い出したことですから、できれば尊重してあげたいと思ってます」

私が言うと、真理がこちらを見た。

「できれば、なの?」

「うん。そのつもりで話してるけど」

真理は資料をめくった。健吾も、さくらが望むならやってみたいと言った。絵里さんが隣で、学校のことも病院のこともちゃんとやるんだよと念を押した。

「ご心配かもしれませんけど、僕も一応、父親ですから」

「そこは心配してません」

真理は資料のいちばん下を指さした。

『同意は、子どもの希望を理由として代行されるものではなく、各人の自由意思に基づくものとする。』

「美羽やさくらちゃんが希望してても、大人の誰かが嫌なら、交換はしないってことですよね。健吾さんも、絵里さんも、私も、直樹も、それぞれ自分で決める」

三人がうなずいた。真理は私を見た。

「直樹は?」

「俺も、条件が合えばいいと思うよ。みんなが納得できればだけど」

「じゃあ、実際の生活について聞いてもいいですか。健吾さん、朝は何時に起きますか」

「六時半くらいですかね」

「美羽は七時に起こさないと間に合いません。一回じゃ起きません。二回目は怒ります」

「大丈夫です。僕、朝は得意なんで」

「三回目は泣きます」

「え?」

「起こすほうが」

健吾は真理を見た。真理は資料に何か書きこんだ。

「じゃあ、夕飯なんですけど」

二階から、美羽の「もう一回!」という声が聞こえた。私はペンを取った。話し合いは長くなりそうだった。

第二章 よその家のお父さん

申請から承認まで、数週間かかった。美羽とさくらちゃんはそれぞれ別の日に聞き取りを受け、大人たちも個別に面談された。健吾は、病気のとき誰が病院に連れていくのか、保護者会には出ていいのか、習い事の費用はどうするのか、細かく質問していた。私はそこまで考えていなかった。

期間は一月六日から四月五日まで。年末に承認の通知が届いた。

一月六日の朝、私はキャリーケースを引いて家を出た。美羽が玄関まで来た。

「パンツ持った? 歯ブラシは? ゲームは?」

「持っていかない。仕事もあるからな」

「田中さんちでも仕事するんだ。パパ、さくらちゃんに怒らないでね。怖いときあるじゃん。宿題やってないとき」

「そりゃ、やらないからだろ」

「さくらちゃんはちゃんとやるから」

真理が封筒を差し出した。学校と病院の連絡先が入っているという。廊下に出てエレベーターを待っていると、ドアの向こうで美羽の声がした。

「ママ、健吾さん何時に来るの?」

田中家の玄関では、小さな茶色い犬が待っていた。靴を脱ぐと、足もとに寄ってきて靴下を嗅いだ。

「モカ、だめ。犬、大丈夫ですか」

「ええ。実家で飼ってましたから」

さくらちゃんが階段を下りてきた。

「高橋さん、おはようございます。お部屋、こっちです」

二階の奥は健吾の書斎だった。本棚に漫画と料理の本が並び、『休日の男ごはん』には付箋が何枚も貼ってあった。壁には、さくらちゃんが小さい頃に描いた絵が貼ってある。犬と三人の人間。一人だけ頭が大きい。

「これ、パパ。本当はそんなに大きくないよ。でもパパが気に入ってて、ずっと飾ってるの」

私はキャリーケースを部屋の隅に置いた。

「困ったことがあったら、何でも言ってくださいね」

さくらちゃんはそう言ってドアを閉めた。十歳の子どもにそんなことを言われたのは初めてだった。

田中家の暮らしには、思ったより早くなじんだ。六時半に起き、朝食の食器を洗い、洗濯物を畳み、夕飯の支度も手伝った。四日目に、絵里さんが言った。

「そんなに頑張らなくても大丈夫ですよ」

「普段もやってることなので」

「真理さん、助かりますね。うちは健吾が、こういうことをあまりしないので。料理はするんですよ。片づけまで終わることが、あまりないだけで」

ゴミ出しを引き受けると、絵里さんは収集日を書いた紙を渡してくれた。

さくらちゃんは七時に起きた。一度声をかければ起きてきて、学校の支度は前の晩に済ませてあった。食卓に着くと、毎朝必ず言った。

「おはようございます。今日もよろしくお願いします」

おかしかったが、真面目な顔で言うので、私も「こちらこそ」と返した。

「健吾には言わないんですよ」

絵里さんが言った。

「新しい先生みたいに思ってるのかもしれませんね」

「そうかもしれませんね」

二人が出かけると、家には私とモカが残った。朝に淹れたコーヒーは、すっかり冷めていた。

一月の半ば、さくらちゃんに算数を教えた。分数の計算だった。紙に図を描き、途中で手が止まるたびに描き直した。

「できました」

「正解」

「本当ですか。よかった」

美羽に教えるときは、途中で何度も口を挟まれる。それは知ってる。そこはわかってる。もっと簡単に言って。さくらちゃんは最後まで黙って聞いた。十問終えるとノートを閉じ、消しゴムのかすを手のひらに集め、椅子を元の位置に戻した。美羽なら、そのままにしていくだろう。

夕飯のとき、絵里さんが言った。

「さくら、最近算数が楽しそうですね」

「高橋さんの説明、わかりやすいです」

「本人が頑張ってるからですよ」

「健吾がいないあいだ、楽をさせてもらってます」

私が立ち上がっておかわりをよそうと、さくらちゃんは両手で茶碗を受け取った。

真理からは、二日に一度くらい連絡が来た。宿題を後回しにしていた、健吾さんとゲームをしている、明日は持久走だって。ある夜、写真が届いた。台所で美羽が卵を割り、隣で健吾がフライパンを持っていた。

『二人でオムライス作ってくれた』

『美羽が? 家では全然手伝わないのに』

『健吾さんが誘ったら、やるって。卵が一つ床に落ちたけどね。健吾さんが拭いてくれた』

私は写真を拡大した。美羽は真剣な顔で卵を割っていた。

『さくらちゃんも、こっちで頑張ってるよ』

『よかった』

それだけだった。廊下で、さくらちゃんがモカを抱いていた。

「美羽ちゃん、元気ですか。写真、送ってくれたんです。卵、一つ落としたって。美羽ちゃん、卵割るの苦手だから。私も、最初は割れなかったけど」

前にも二人でやったことがあるらしかった。私は知らなかった。

一月の終わり、絵里さんの帰りが遅い日に、さくらちゃんとハンバーグを作った。玉ねぎは私が刻み、さくらちゃんにはひき肉を丸めてもらった。さくらちゃんの作ったものは、私の半分くらいの大きさだった。

「小さいね」

「こっちのほうが食べやすいから」

私は残ったひき肉で、自分の分を大きく作った。焼いているうちに、どれがさくらちゃんのものかわからなくなった。一つずつ入れ替えたが、それでもさくらちゃんの皿には大きなものが残った。

「ちょっと大きかったかな。残していいからね」

「大丈夫です。おいしいです」

さくらちゃんは小さく切りながら、時間をかけて食べた。私が食べ終わっても、半分ほど残っていた。しばらくして、空になった皿を持ってきた。

「ごちそうさまでした」

それからソファに横になった。眠いのかと聞くと、首を振った。

「お腹いっぱい」

帰ってきた絵里さんは台所を覗き、娘の顔を見た。

「全部食べたの? お腹、苦しくない?」

「大丈夫」

さくらちゃんが二階に上がってから、絵里さんは自分の分を電子レンジに入れた。

「今度は、もう少し小さめでお願いします」

「残していいって言ったんですけどね」

「そう言っても、残さないんですよ。健吾も、つい多くよそっちゃうんです。食べると喜ぶからって」

私は皿を洗った。

「そういうところ、似てるのかもしれませんね」

絵里さんは答えなかった。皿の縁のソースは、なかなか落ちなかった。

二月最初の日曜、美羽と駅前のファミリーレストランで昼を食べた。娘は十分遅れてきて、メニューを開くなりハンバーグを頼んだ。

「健吾さんとはうまくやってる?」

「楽しいよ。でも最近ちょっとうるさい。宿題やれって。パパより言うよ。終わるまで一緒にやろうって」

「いいじゃないか」

「疲れる。さくらちゃんは?」

「元気だよ。宿題もちゃんとやってる」

「パパ、さくらちゃんには怒らないでしょ」

「怒るようなことしないからな」

美羽は私を見た。

「ほら。そういうとこ」

私は水を飲んだ。

「ねえ、さくらちゃんのこと好き? 美羽より?」

「比べるものじゃないだろ」

「じゃあ、健吾さんは? 美羽とさくらちゃん、どっちが好きなの」

「そりゃ、さくらちゃんだろ。自分の娘だからな」

「でも健吾さんは、二人とも同じくらい好きって言ってたよ。パパは言わないの?」

「美羽が一番だよ」

美羽はハンバーグを切った。

「ふうん」

ブロッコリーを一つ食べて、もう一つを私の皿に載せた。食後にパフェを頼み、写真を撮ってさくらちゃんに送り、上のいちごを最後まで残していた。

「さくらちゃん、パパといるときもよくしゃべる?」

「しゃべるよ。どうして」

「別に」

美羽はいちごを口に入れた。

その夜、田中家に戻ると、さくらちゃんが食卓で宿題をしていた。

「ここまで自分でやったの? すごいじゃないか」

ノートを引き寄せたところで、スマートフォンが震えた。真理からだった。

『今日は美羽とありがとう。楽しかったって』

『俺も楽しかったよ。そっちはどう?』

しばらくして、返事が来た。

『普通だよ』

「高橋さん、ここは?」

さくらちゃんがノートを指した。私はスマートフォンを伏せた。

「ごめん。どれ?」

その夜、真理からはそれ以上連絡がなかった。

第三章 いい子

さくらちゃんが初めて宿題を白紙で出したのは、二月の半ばだった。

その前の日、私は仕事が立てこんでいた。会議が長引き、午後には取引先から急ぎの修正が来て、夕飯の支度を絵里さんに任せた。食卓で宿題をしていたさくらちゃんに、算数をあとで見てほしいと言われた。

「いいよ。仕事が終わったらね」

一時間ほどして、部屋のドアが開いた。

「あの、高橋さん」

「ごめん、もうちょっと待って」

画面を見たまま答えた。ドアが閉まった。廊下に足音がしたが、もう声はかからなかった。

夕飯のとき、宿題は終わったかと聞くと、さくらちゃんは「はい」と答えた。

「そうか。えらいね」

仕事が終わったのは十一時過ぎだった。机の端に、さくらちゃんが持ってきてくれたお茶が置いてあった。氷は溶けていた。

翌日の夕方、絵里さんから電話があった。算数のプリントを白紙で出したと、学校から連絡があったという。わからなかったから、と先生には答えたらしい。

さくらちゃんが帰ってくると、私は聞いた。

「わからなかったなら、聞いてくれればよかったのに。何回でも教えるって言ってるだろ」

「言ったよ。昨日、聞いた」

部屋のドアが開いたのを思い出した。

「ああ。そうだったね。ごめん、忘れちゃった。でも、終わったって言うのは駄目だよ」

「はい」

「じゃあ、プリント持っておいで」

さくらちゃんは動かなかった。ランドセルの肩紐を、指に巻きつけていた。

「高橋さん、昨日、えらいねって言った。宿題終わったって言ったら」

「ああ。だから?」

さくらちゃんは肩紐から指を離した。

「……何でもないです」

五時から打ち合わせが入っていた。私は時計を見た。

「とりあえず、プリントやろうか」

折れ曲がったプリントは、六問とも空欄だった。図を描き、二問目で数字を間違えたので消しゴムを渡した。

「そこ、前にもやっただろ」

五時になる前に、六問とも終わった。

「よく頑張ったね」

「ありがとうございました」

私はパソコンの電源を入れた。さくらちゃんは椅子を元に戻し、私がイヤホンをつけるまで、そこに立っていた。

夜、絵里さんに事情を話した。

「褒められたことを気にしてたみたいなんですけど。今度から、ちゃんと言ってくれればいいんですけど」

「健吾も、最近はそう言うんです。さくらが黙ってるときは、ちゃんと聞かなきゃいけないって。前は、何も言わないから大丈夫だろって」

「健吾さんも心配されてるんですね」

「ええ」

絵里さんは引き出しを閉めた。

翌週、美羽が学校で男の子を突き飛ばした。健吾から電話があり、怪我はなかったが、真理と健吾が学校に呼ばれたという。理由を、美羽はなかなか話さなかったらしい。

さくらちゃんが帰ってきたので聞いた。

「宮本くんが、美羽ちゃんに変なこと言ったから。本当のパパに捨てられたんだって。前から。私にも、高橋さんとママが結婚するのって」

「さくらちゃんは、何て答えたの」

「何も言わなかった。美羽ちゃんが言い返してくれるから。今日も、さくらは新しいパパに何でもやってもらってるんでしょって言われて、美羽ちゃん、違うって言ったの。高橋さんは、さくらがちゃんとやってるから怒らないんだって」

私は靴箱に手をついた。

「でも宮本くん、じゃあ美羽はちゃんとやってないんだって。それで、押しちゃった」

美羽に電話をかけた。六回目の呼び出しで出た娘は、「あー、もう」と言って切った。

翌日、学校帰りの美羽と公園で会った。ランドセルを背負ったまま、ベンチに座った。

「押したのはよくないだろ。ちゃんと謝ろうな」

「向こうが先に謝ったらね。だって、パパに捨てられたって言ったんだよ。違うのに。美羽が選んだんだもん」

「そうだな。パパは捨ててないよ」

娘のランドセルに手を置くと、払われた。

「知ってるよ。パパがそう思ってないのは、知ってる。じゃあ、何でさくらちゃんのことばっかり褒めるの。いつも、さくらちゃんはちゃんとしてるって言うじゃん」

「それは本当だろ」

「ほら」

美羽は顔をそむけた。滑り台の上で、小さな子どもが下で待つ母親に手を振っていた。

「ねえ、パパ。もう帰ってきていいよ。交換、終わりにしていいよ」

「健吾さんが嫌になった?」

「嫌じゃないよ。もうわかったから。健吾さんがパパになったら、どんな感じか」

「三か月の約束だっただろ」

「途中でやめてもいいんでしょ。ちゃんと話してね」

「わかった。でも、宮本くんには謝ろうな」

「またそれ?」

美羽は立ち上がり、振り返らずに歩いていった。

週末、健吾と駅前の居酒屋に行った。仕事の話のあと、娘たちの話になった。

「さくら、本当にいい子ですね。手がかからなくて。美羽とは大違いですよ」

言ってから、まずいと思った。健吾は枝豆を一つ取った。

「美羽ちゃんも、いい子ですよ。でも、さくらってそんなにいい子ですか。高橋さんの話を聞いてると、別人みたいで。あの子、嫌なことがあると、もっと黙るんですよ。いい子にしてるときほど、わかりにくい。僕も、昔は全然気づかなかったんですけどね」

「最近は、ちゃんと自分の希望も言ってくれますよ」

「そうですか。それならよかった」

焼き鳥が運ばれてきた。健吾は串を一本取り、しばらく眺めていた。

「高橋さん、僕、最初ちょっと腹が立ったんですよ。さくらが高橋さんを選んだこと。たった十五分でしょ、算数教えたの。僕は十年一緒に暮らしてるのに。その十年が十五分に負けるのかって。今はそんなふうに思ってないですけど」

「さくらちゃん、田中さんのこと嫌いになったわけじゃないですよ。勉強を教えてほしかっただけで。だから、あまり気にしなくても」

健吾が笑った。

「高橋さんって、優しいですね。でもね、それ、高橋さんが言うことじゃないですよ」

私はグラスを置いた。健吾はメニューを差し出し、つくねと鶏皮を頼んだ。ハイボールの氷は、ほとんど溶けていた。

店を出ると雨が降っていた。コンビニでビニール傘を買い、並んで歩いた。

「美羽ちゃん、嫌なことがあると、ちゃんと言うんですよ。そこがちょっと羨ましくて。でも、気も使うんです。僕が作ったカレー、辛かったみたいなんですけど、最後まで食べてくれて。あとで真理さんに聞いたら、辛いの苦手なんだって。もうちょっと、ちゃんと聞いてから作ればよかったんですよね」

田中家で作った、大きなハンバーグを思い出した。

「次からは甘口にすればいいですよ」

「そうですね」

横断歩道を渡りきったところで、健吾が立ち止まった。

「高橋さん、もしさくらが、もう少し高橋さんと暮らしたいって言ったら、どうします?」

「そのときは、みんなで話し合うしかないと思います」

「高橋さん自身は?」

「そりゃ、家に帰りたいですよ」

「そうですよね。よかった」

何がよかったのか、私は聞かなかった。

翌朝、さくらちゃんが食卓で言った。

「高橋さん。私、パパのところに戻りたいです。昨日電話したら、いいよって」

「それならよかったね」

「怒らないですか」

「怒るわけないだろ」

「よかった。でも、もう少しだけ一緒にいてもいいですか。今日、算数の宿題があるから」

「何だ、宿題か。いいよ。何回でも教える」

今朝の卵焼きは、少し甘すぎた。

第四章 帰ってきていいよ

三月十日に、六人全員で面談を受けることになった。娘たちはどちらも元の父親との暮らしを望み、大人たちにも続ける理由はなかった。それでも、始めるときと同じように、終わるときも全員の意思を確かめる必要がある。

面談の三日前、真理から電話があった。十五日の荷物の話のあと、美羽が健吾と宿題で揉めた話になった。

「算数の答えが合わなくてね。結局、健吾さんのほうが間違ってたの。三問も」

「美羽、喜んだだろ」

「ものすごく」

話が途切れた。廊下をモカが歩いていった。

「そういえば、四月から仕事、変わることになったの。出版社。前に一緒に仕事した人が紹介してくれて」

真理は結婚前、出版社で働いていた。寝る前に赤いペンを持って原稿を読み、休日にも電話がかかってきた。美羽が生まれて辞めてから、十年以上になる。

「よかったじゃないか。正社員? 何時まで?」

「基本は六時半。忙しい日はもっと遅くなると思う」

「じゃあ帰りは八時か。美羽の習い事、火曜と木曜だろ。木曜は俺が迎えに行けるけど、火曜は厳しいな。勤務開始はいつ?」

「四月一日。入社の手続きも済んでるよ」

「え? もう返事したの? 聞いてないけど」

「今、話してる」

「決める前に相談くらいできただろ。家のこともあるし。俺が反対すると思った?」

「わからない」

「反対しないよ」

「うん」

「だったら何で」

電話の向こうで水が流れ始めた。

「自分で決めたかったから」

一月の終わりから転職活動をしていて、二月に面接を受けたという。そのあいだ、美羽は健吾が見ていた。

「田中さんには話してたんだね」

「面接の日はお願いしたから。直樹、帰ってから、四月の予定を一緒に考えてくれる?」

「もちろん。それは考えないと困るだろ」

電話を切って、カレンダーの四月一日に『真理、新しい仕事』と入れた。どこの出版社なのか、聞いていなかった。

面談の前の日、さくらちゃんが部屋に来た。机の上の青いボールペンを手に取り、キャップを眺めてから戻した。

「ちょっと待っててください」

戻ってきたさくらちゃんは、小さな紙袋を持っていた。中には、削っていない青い鉛筆が一本入っていた。

「高橋さん、青が好きだから」

「ありがとう。でも、仕事ではボールペンなんだよな」

さくらちゃんの目が、二本のあいだを行き来した。

「あ、もちろん鉛筆も使うよ」

「よかった。削らないんですか」

さくらちゃんが鉛筆削りを貸してくれた。二回削って、ようやく先が尖った。さくらちゃんは先を確かめてから、鉛筆を返してくれた。

「昨日の算数、パパにも見せようと思ってます。パパ、間違えるかもしれない」

「そのときは、さくらちゃんが教えてあげればいいよ」

面談は子ども家庭支援センターで、午後三時からだった。美羽は私を見るなり立ち上がった。

「パパ! 今日で終わり?」

「今日手続きして、日曜に戻るよ」

「まだ五日もあるの?」

健吾が笑った。

「美羽ちゃん、夜も元気なんですよ。昨日は何時に寝た?」

「十時半。健吾さんも起きてたもん」

「僕は大人だから」

「ずるい! パパ、帰ってきたら十時半まで起きてていい?」

「駄目」

「ほら。パパ、こういう人なんだよ」

健吾は両手を上げた。

担当者は、まず娘たちに終了の希望を確かめた。

「高橋さんとの生活はどうだった? 困ったことはなかった?」

さくらちゃんは私を見た。

「ご飯が多かったです。あと、高橋さんの説明が長いです。パパより長い」

絵里さんが口元を押さえた。健吾が「そりゃ大変だ」と声を上げた。

娘たちが別室に移ると、担当者は大人四人の意思を確かめた。私も健吾も元の家に戻ると答え、絵里さんも同意した。最後に真理の番になった。

「高橋真理さん。田中健吾さんとの同居を終えることについて、問題はありませんか」

「ありません」

「では、三月十五日付で試行養育を終了し、両家とも従前の住居で生活を再開されるということで」

「すみません」

真理が言った。

「制度が終わることと、夫婦がまた一緒に住むことは、別ですよね」

私は真理を見た。担当者が資料を確かめた。

「はい。制度が定めるのは養育者の変更ですので、ご夫婦の住まいについて直接決めるものではありません」

「夫と、話しておきたいことがあるんです」

担当者が用意してくれた相談室には、丸いテーブルと椅子が四つあった。壁には子ども向けの相談窓口のポスターが貼ってあった。真理は手帳を開いた。

「四月からのことなんだけど」

「その話なら、帰ってからでもできるだろ。制度とは別なんだし」

真理は四月のページを見せた。平日はほとんど出勤で、土曜日にも二か所、丸がついていた。

「土曜もか。美羽、土曜の午前も習い事あるだろ。火曜は会議が多いし。木曜は何とかなる。土曜は俺が送れると思う。火曜は民間の預かりを調べてみようか。夕飯も、作れる日は俺が作るよ」

「ありがとう」

真理は手帳に書きこんだ。

「それにしても、どうして決める前に相談しなかったんだ。反対しないよ。やりたかった仕事なんだろ」

「前にも、編集に戻りたいって話したことあったよね。そのとき、まだ美羽が小さいから難しいって」

「そうだったな。でも、もう五年生になるもんな」

「今回は、自分で決めたかったの」

「それはいいけど、決まってからだと調整が大変だろ。こっちにも予定があるんだし。まあ、今からでも何とかなると思うよ」

「直樹。私、ちゃんと働きたいの」

「わかってるよ。だから、できることは協力するって」

真理はペンを取った。

「じゃあ、木曜日はお願いね」

それから二人で、送り迎えと夕飯の分担を確かめた。習い事をいくつか調整すれば、十分やっていけそうだった。

「火曜日、一回抜けてる」

真理が言った。私は予定を確かめ、早めに帰れるか聞いてみると答えた。真理はその日に小さな三角を書いた。

廊下に出てから、次の会社の名前を聞いた。聞いたことのない出版社だった。文芸もやっているという。私はその名前をスマートフォンに打ちこんだ。真理は先に歩いていった。

面談室に戻り、確認書に四人が署名した。書類の最後に、また同じ一文があった。

『同意は、各人の自由意思に基づくものとする。』

待合室では、娘たちが絵を描いていた。美羽が私の腕に飛びついた。

「パパ、帰ってきたらハンバーグ作って。あとポテト」

「野菜も食べろよ」

「健吾さんも同じこと言う」

その横で、さくらちゃんが健吾の袖を引いた。背伸びをして耳元に口を寄せたが、健吾は聞き取れなかったらしく、しゃがんだ。さくらちゃんがもう一度何か言った。

「本当に?」

さくらちゃんがうなずくと、健吾は娘の頭に手を置いた。

「そっか」

何を言ったのかは、わからなかった。

建物を出ると、絵里さんが声をかけてきた。

「三か月、ありがとうございました。うちも、少し変わるかもしれません。健吾と話しておきたいことがあるので。高橋さんも、奥さんと」

「ええ。さっき話しました」

「そうですか」

缶コーヒーを持って戻ってきた健吾が、何の話かと聞いた。

「帰ってから話す」

「何か怒られるんですかね」

「どうでしょう」

絵里さんは夫の背中を押して、さくらちゃんのほうへ歩かせた。

その夜、田中家の台所で、真理の仕事が決まったと絵里さんに話した。

「聞きました。二月の終わり頃だったと思います。決まったって連絡が来たので。嬉しそうでしたよ。久しぶりに編集の仕事ができるって。ちゃんと準備されてましたからね」

「昔から、編集の仕事が好きだったんですよ」

「そうみたいですね。また好きな仕事ができて、よかったですね」

二階に上がり、真理の勤め先を検索した。会社概要、新刊案内、編集部の紹介。真理の名前はまだなかった。小説が多かった。一冊だけ、真理が前に読んでいた本があった。面白かったから読んでみて、と渡された気がする。結局、読まなかった。最後に採用情報を開くと、募集は終わっていた。

机の上の筆箱を開けた。青い鉛筆が、ボールペンの隣に入っていた。先端に消しゴムのかすが一つ付いていたので、指で払った。

第五章 更新日

最後の朝、田中家の台所で卵を三つ割った。

「高橋さん、今日は二つでいいです。ママ、パンにするって」

「もう割っちゃったよ」

「じゃあ、私、いっぱい食べます」

「無理しなくていい。余ったら僕が食べるから」

最初の頃は卵がうまく巻けず、さくらちゃんに笑われた。いつの間にか、田中家で卵焼きを作るのは私の仕事になっていた。

「今日は上手」

「昨日も上手だっただろ」

「昨日はちょっと破れた」

絵里さんが、このフライパンを持っていってくださいと言った。使い慣れているでしょう、うちにはもう一つあるので、と。

「美羽ちゃんにも作ってあげてください。甘いの?」

「美羽はしょっぱいほうが好きなんだ」

「そっか。私、パパに卵焼き教えてみます。前に作ってもらったとき、焦げちゃって。パパ、黒いところ取って食べてた」

「じゃあ、火を弱くするように教えてあげな」

十時過ぎに健吾が帰ってきた。モカが吠え、さくらちゃんが階段を駆け下りた。

「パパ!」

「ただいま! モカ、待て、待てって!」

玄関で、絵里さんが包んだフライパンと近所の店の焼き菓子を渡してくれた。

「高橋さん、また来てくださいね。算数、電話してもいいですか。高橋さんが忙しくないときにします」

「忙しかったら、あとでかけ直すよ。パパの言うこと、ちゃんと聞くんだぞ」

「パパも、お勉強ちゃんとやってね。美羽ちゃんと算数やって、間違えたんでしょ」

「それ、まだ言われるの?」

「三回間違えたんだって?」

絵里さんが言った。

「一回だよ」

「三回」

健吾は私を見た。

「高橋さん、何とか言ってください」

「僕も三回って聞いてます」

さくらちゃんが笑った。ドアが閉まるまで、さくらちゃんは玄関に立っていた。

家までは歩いて十五分だった。キャリーケースの車輪が、歩道の継ぎ目で何度も引っかかった。コンビニで美羽に何か買おうとして、何を選べばいいかわからなかった。いちご味のアイスを二つ買った。

鍵は持っていたが、チャイムを押した。

「パパ! 遅い!」

「まだ十一時だぞ」

「十時に帰ってくると思ってた」

美羽は私の手から袋を取り、台所へ走った。

「ママ! パパがアイス買ってきた!」

昼はハンバーグと、卵焼きも作れと言われた。ひき肉をこねながら、美羽に手伝ってと声をかけた。

「やだ。パパがやってよ」

借りてきたフライパンで、塩だけの卵焼きを焼いた。美羽は席に着くなり一切れ食べた。

「しょっぱい。ちゃんと覚えてたんだ。さくらちゃんは甘いのが好きなんでしょ」

「美羽も甘いの食べてみる?」

「いらない。パパはそっちが好きなの?」

「どっちも好きだよ」

「じゃあ、今度は甘いの作ってもいいよ。一回だけね」

真理が笑った。何かと聞くと、首を振った。

「これ、焦げてる」

美羽がハンバーグの端を指した。私はそこだけ取って食べろと言った。真理は、焦げたところもそのまま食べていた。

「パパ、やっぱり帰ってきてよかったね。ハンバーグ作ってくれるし、宿題も教えてくれる。パパのほうが算数できるじゃん。そのかわり、ゲームは健吾さんのほうが上手だけど」

家の中は、いくつか変わっていた。台所の引き出しに仕切りが入り、洗剤の置き場所が変わっていた。私のマグカップは上の棚に移っていた。書斎には健吾の小さな卓上時計が残っていた。青いファイルは二段目の棚、充電器は引き出しにあった。

「帰ってきてから、ずっと探し物してるね。嫌なら戻せば?」

真理が言った。時計を元の場所に戻そうとして、前に何をどこに置いていたのか思い出せなかった。健吾の時計も、そのままにした。

夕方、真理と四月の分担を冷蔵庫のカレンダーに書きこんだ。

「これなら何とかなりそうだね。ありがとう」

「別に。俺の娘でもあるし」

真理はカレンダーに丸をつけた。

「そうだね」

四月になり、美羽は五年生になった。真理は新しい職場に通い始め、最初の週は帰りが八時を過ぎる日が二度あった。私は夕方に仕事を切り上げて美羽を迎えに行き、夕飯を作った。月曜はカレーにした。美羽は人参を残した。

「大きいんだもん。あと、もっと甘いのがいい。健吾さんのよりは甘いけど。健吾さんのカレー、めっちゃ辛かったけど、全部食べたよ。だって、作ってくれたんだもん。健吾さん、もう辛いの作らないって言ってた」

「じゃあ、次はもっと小さく切るよ」

金曜の夜はオムライスを作った。食べ終えたあと、食卓で美羽の算数を見た。分数の計算だった。

「まず、分母をそろえるだろ」

「それは知ってる」

「じゃあ、ここは」

「わかんない」

「だから、そのために」

「説明が長い。健吾さんなら、もっと早く終わったのに」

「健吾さんは三問も間違えたんだろ」

「それは別の日」

美羽が笑った。もう一度図を描くと、美羽は身を乗り出した。

「あ、そういうこと? 最初からそう言ってよ」

美羽が次の問題に進んだので、私は仕事用のスマートフォンを開いた。新しいメールが三通来ていた。

「パパ、これもわかんない」

「ちょっと待って」

「今教えて」

「このメールだけ返したら」

「えー」

返信を打っているあいだに、美羽は椅子を降りて冷蔵庫を開け、戻ってきた。

「パパ、まだ?」

私はスマートフォンを伏せた。

「どれ?」

美羽は最後まで解いた。明日の分はないかと聞くと、ないと言い、連絡帳を見せてくれた。それから椅子から飛び降りて、テレビをつけにいった。返事の要るメールが、まだ二通残っていた。

八時過ぎに真理が帰ってきた。美羽が玄関まで走り、抱きついた。

「今日も遅かったね。明日、どっか行こう。買い物! 何買うかは、まだ決めてない」

私は味噌汁を温め直した。来週の土曜も午後から仕事だと真理が言うので、夕飯は私が作ると答えた。食卓に来た美羽が言った。

「ねえ、ママ。前のお仕事に戻れないの? 早く帰ってきてたじゃん。今のお仕事、そんなに楽しい?」

「楽しいよ」

「ママが前からやりたかった仕事なんだよ。だから、応援してやろうな」

私が言うと、美羽はうなずいた。

「してるよ。でも、ママがいないとつまんない」

「パパじゃ駄目なのか」

「駄目じゃないよ。でも、ママもいたほうがいいじゃん」

真理は味噌汁を一口飲んで、おいしいと言った。

美羽は冷蔵庫の横で立ち止まった。学校から配られた制度改正の案内が貼ってあった。来年の一月から、母親も選択養育の対象になる。申請の受付は、十二月十五日からだった。

「来年、ママも交換できるんだよね。ゆいちゃんのママ、お菓子作るの上手なんだって。学校から帰ったら、いるんだって」

「ゆいちゃんのおうちの人たちにも聞かないと駄目だぞ。それに、この前パパに帰ってきてほしいって言ったばかりだろ」

「パパは帰ってきたじゃん。それに、ママも嫌なら断れるんでしょ。ママは嫌?」

「今はわからないな」

真理が言った。美羽は椅子に戻ってきた。

「もし交換したら、ママはどこのおうちに行くの? ママが好きなおうちを選べるの?」

「美羽が新しいお母さんを選ぶ制度なんだよ。ママが好きな家に引っ越す制度じゃない」

「知ってる。でも、ママだって、知らないおうちより好きなおうちのほうがいいでしょ。誰かいる?」

真理は娘を見ていた。

「まだ、内緒」

「えー、教えてよ」

「決まったらね」

「絶対だよ」

美羽はコップに水を注いだ。私は真理を見た。

「真理」

「何?」

妻が顔を上げた。私は流しのお椀を取った。

「ご飯、足りる?」

「うん。十分」

真理は食事を続けた。美羽は明日の買い物の話を始めた。私は蛇口をひねった。

流しには、オムライスを作ったフライパンが残っていた。水をかけても、卵の焦げついたところは落ちなかった。洗剤を足して、もう一度こすった。

リビングで、美羽が何か尋ねた。真理が答えた。何と言ったのか、聞き取れなかった。

水を止めた。

「ママ、それ本当?」

美羽が言った。真理が何か答えた。

私はスポンジを置いた。二人はもう、明日の買い物の話をしていた。

了