書き下ろしイヤミス

みんな、あの子が嫌いだった

約16,110字 読了目安 約32分 2026年10月28日 公開

一

美穂ちゃんが死んだと聞いて、私はほっとした。

もちろん、悲しくなかったわけではない。七年の付き合いだった。同じマンションに住み、子どもたちは同じ小学校の四年生で、週に何度も顔を合わせ、互いの家で夕飯を食べたこともある。訃報を知らせてくれた理沙ちゃんの前では、声を上げて泣いた。

「嘘でしょ。昨日まで普通だったじゃない」

涙は本当に出た。電話を切ったあとも、キッチンに立ったまま泣いていた。コンロには前の晩の鍋が置きっぱなしで、蓋の取っ手に味噌汁が乾いてこびりついていた。

それを洗っているうちに、だんだん気持ちが落ち着いてきた。そして、もう美穂ちゃんから電話はかかってこないのだと思った。

ランチに誘われることもない。断る理由を探している途中で「佳奈ちゃん、また無理してない?」と先回りされることもない。昔の話を蒸し返されて、返事に詰まることもない。

スポンジを握ったまま、肩のあたりが軽くなっていくのがわかった。

美穂ちゃんは、マンションの非常階段で亡くなった。五階と六階のあいだの踊り場から、階段の中央にある吹き抜けへ落ちたらしい。翌朝七時前、ゴミを出しに降りてきた住人が、一階の階段室で倒れているのを見つけた。

美穂ちゃんの部屋は五階にある。普段はエレベーターしか使わない人だったし、夜中に非常階段へ行く理由など、誰にも思い当たらなかった。警察は、落ちたときの状況を調べているという。

その夜、私は美穂ちゃんに会っていた。

そのことは、まだ誰にも話していない。

通夜には大勢が集まった。小学校の保護者、職場の同僚、マンションの住人。受付の手伝いを申し出る人が多すぎて、亮介さんが何人かに頭を下げて断っていた。

美穂ちゃんは、そういう人だった。学校行事には必ず顔を出し、保護者どうしで揉め事が起きれば間に入り、困っている人を見つければ真っ先に声をかけた。人の誕生日を覚えていて、旅行に行けばお土産を欠かさなかった。私が仕事を辞めるかどうか迷っていたときは、何時間も話を聞いてくれた。娘の芽衣が熱を出した日には、玄関のドアノブに食材の入った袋を下げていってくれた。

だから、遺影の前に立つと、涙は自然に出た。

「佳奈さん」

振り返ると、美穂ちゃんの夫の亮介さんだった。いつもきっちり撫でつけている髪が、今日は耳の上で跳ねていた。

「妻が、いつもお世話になっていました」

「お世話になったのは、私のほうです」

「佳奈さんのこと、よく話していましたよ。何でも話せる友達がいてよかった、って」

私はハンカチで口元を押さえた。

何でも話せる友達。美穂ちゃんの口癖だった。私はその言い方が、昔から好きではなかった。

「佳奈ちゃん、大丈夫?」

理沙ちゃんが来て、背中に手を当ててくれた。亮介さんが別の弔問客のほうへ離れていくと、理沙ちゃんは私の隣に並び、遺影を見上げたまま小声で言った。

「美穂ちゃん、最後まで人騒がせだったね」

思わず顔を見た。理沙ちゃんはすぐに口を押さえた。

「ごめん。変な意味じゃないの。こんなことになるなんて、思ってなかったから」

「うん。そうだよね」

私たちは並んで頭を下げた。焼香を終えた人たちが出口のほうへ流れていく。誰かの靴のかかとが床を打つ音が、やけに耳についた。

美穂ちゃんを重たく感じていたのは、私だけではなかったのかもしれない。そう思うと、喪服の襟元が少しゆるんだ気がした。

二

美穂ちゃんと知り合ったのは七年前、このマンションに越してきた年だった。芽衣も、美穂ちゃんの娘の千夏ちゃんも、まだ二歳だった。

最初に言葉を交わしたのはエントランスで、芽衣が千夏ちゃんのうさぎのぬいぐるみを欲しがって泣き出した。私が平謝りしていると、美穂ちゃんはぬいぐるみをひょいと差し出した。

「いいよ、いいよ。千夏、同じようなの家にいっぱいあるから」

翌週には公園に誘われ、翌月にはほかのお母さんたちも一緒にランチへ行くようになった。美穂ちゃんが店を決め、私が予約の電話をかける。美穂ちゃんが人を集め、私が人数を数える。美穂ちゃんの隣にいれば、私は何も決めなくてよかった。どこへ行っても誰かが話しかけてくれたし、担任の先生にも名前を覚えてもらえた。

最初の何年かは、本当に仲がよかったと思う。

ただ、美穂ちゃんは、私のことなら何でもわかっているという話し方をした。

「佳奈ちゃん、そういうの苦手でしょ」

「どうせまた断れなかったんでしょ」

「佳奈ちゃんって昔からそうだよね」

たいてい当たっていたから、私は笑ってみせた。外れていることもあったが、いちいち訂正するのが面倒だった。

保護者係を決めた日のことをよく覚えている。私は前の年に役員をやっていたので、その年は何もしたくなかった。誰も手を挙げないまま時計の針だけが進み、仕方ない、引き受けるかと思いかけたところで、美穂ちゃんが言った。

「佳奈ちゃん、去年もやってくれたもんね。今年はほかの人で考えない?」

周りのお母さんたちがうなずき、私は係をやらずに済んだ。助かったけれど、少し恥ずかしかった。帰り道、美穂ちゃんは笑いながら私の腕をつついた。

「また引き受けようとしてたでしょ。顔に書いてあったもん」

私も笑った。本当は自分で断るつもりだったのかもしれない。美穂ちゃんが先に言ってしまったせいで、確かめる機会はなくなった。

そういうことが、何度もあった。

四年前、マンションに藤井麻衣さんという人が住んでいた。

少しつきあいにくい人だった。約束の時間に厳しく、気になることがあればその場ではっきり言う。言っていることは間違っていないのに、言い方でこちらがすくんでしまう。

私たちは月に一度、子どもを連れてマンションの集会室に集まっていた。ある日、利用時間を十分ほど過ぎてしまった。一人の子が泣き出して、片づけに手間取ったのだ。翌日、管理組合から注意の紙が届いた。苦情を出したのは麻衣さんだった。

悪いのは私たちだ。それはわかっていた。でも、同じマンションに住んでいるのだから、直接言ってくれればよかったのにとも思った。

その頃から、麻衣さんは集まりに来なくなった。正確に言えば、私たちが誘わなくなった。もともと大勢で騒ぐのが好きそうな人ではなかった。集まっていても自分の子どもばかり目で追っていたし、店を決めるときは時間と予算を何度も確かめた。無理に誘うのも悪い。誰が言い出したわけでもなく、それが私たちの間の了解になった。

ある日、集会室の前で麻衣さんに会った。隣には、まだ幼稚園に通っていた息子さんがいた。ガラス扉の向こうで、子どもたちが走り回っていた。

「ママ、今日、みんな遊んでるの?」

麻衣さんは中を覗き、私と目が合うと、驚いたように笑った。

「こんにちは。今日、集まりだったんだ」

「うん。急に決まって」

実際には一週間前から決まっていた。でも、わざわざ外して計画したと思われたくなかった。

「ぼくも入っていい?」

男の子が言った。私は中を振り返った。今から一人増えても、何の問題もなかった。ただ、その日の集まりは私一人で決めたわけではない。ほかのお母さんたちに聞かずに入れていいものか、わからなかった。

「今日はね、もうすぐおしまいなんだ」

男の子は黙った。麻衣さんが息子の手を引いた。

「ほら、帰ろう」

私は二人の背中が角を曲がるまで見ていた。集会室に戻ると、美穂ちゃんが顔を上げた。

「誰だった?」

「麻衣さん」

「あ、そうなんだ。声かければよかったかな」

「もう帰っちゃったよ」

「そっか」

それで話は終わった。

数か月後、麻衣さんはご主人の転勤で引っ越していった。その前に、美穂ちゃんが麻衣さんのところへ謝りに行った。集まりに誘わなかったのは自分の判断だった、と説明したらしい。

あとからそれを聞いて、私は驚いた。

「そんなこと言ったの?」

「うん。佳奈ちゃん、ずっと気にしてたでしょ」

「でも、美穂ちゃんが一人で決めたわけじゃないじゃない」

「まあ、みんなで決めたようなもんだし。もう気にしなくていいよ」

あのときは、心から感謝した。

けれど、時間が経つにつれて、引っかかることが増えていった。なぜ私だけが、かばわれなければならなかったのか。美穂ちゃんも麻衣さんを誘わなかった。理沙ちゃんも、ほかの人たちもそうだった。それなのに美穂ちゃんは、私を許すような顔をした。そして何年経っても、ときどきその話を持ち出した。

「佳奈ちゃん、まだ気にしてる?」

「もういいって」

「気にしないでね」

私はとっくに気にしていなかった。美穂ちゃんが話題にするたびに、思い出させられるだけだった。

あるとき、美穂ちゃんがその話を夫の和也にまでしていたことを知った。

「美穂さん、佳奈のこと心配してたよ。昔のママ友の件、まだ引きずってるんじゃないかって」

あとで問いただすと、美穂ちゃんは悪びれもしなかった。

「だって佳奈ちゃん、ずっと元気なかったじゃない。和也さんにも気にかけてもらったほうがいいと思って」

私はその場では何も言わなかった。でも、この人にはもう何も話せないと思った。

美穂ちゃんはいつも善意だった。それがいちばん厄介だった。

三

理沙ちゃんが美穂ちゃんから百万円借りていると知ったのは、二年前だった。

理沙ちゃんのご主人の会社が傾き、住宅ローンの支払いが苦しくなっていた。最初は実家に頼むつもりだったのを、相談された美穂ちゃんが「それなら私が貸すよ」と言ったのだという。理沙ちゃんは毎月三万円ずつ返していた。

学校の役員決めのあと、理沙ちゃんは私の家で泣いた。その年、理沙ちゃんは役員を断りたいと言っていた。ご主人の仕事がどうなるかわからず、家のことで手一杯だったからだ。ところが美穂ちゃんに、こう言われたらしい。

「みんなに助けてもらってるんだから、できることはやったほうがいいと思うよ」

「私、借りたお金はちゃんと返してるんだよ。一回も遅れてない。それなのに、ああいう言い方する?」

「美穂ちゃん、悪気はなかったんだと思うよ」

「悪気がなければ、何言ってもいいの?」

答えられなかった。美穂ちゃんは人を助けるのが好きだった。そして助けた相手には、助けられた人らしくしていてほしいのだと思う。

その話を聞いてから、私は少しずつ美穂ちゃんと距離を置いた。誘われても予定があると断り、メッセージの返事も遅らせた。しばらくはそれで済んでいた。

ある日、美穂ちゃんからメッセージが届いた。

『最近、なんか避けられてる気がするんだけど』

『そんなことないよ。ちょっとバタバタしてて』

『そっか。ならよかった』

それで終わると思っていたら、数日後にまた届いた。

『麻衣さんの連絡先、見つかったよ』

四年も前に引っ越した人だ。

『一度ちゃんと謝ろうと思って。佳奈ちゃんも一緒に謝らない?』

私は電話をかけた。

「何で私が謝るの?」

「え?」

「美穂ちゃんが決めたことだったんでしょ。麻衣さんにもそう説明したんでしょ」

電話の向こうが静かになった。

「佳奈ちゃん、本気で言ってる?」

「だって、そうなんでしょ」

「あれは、佳奈ちゃんが困ってたから。でも、最初に誘わなくていいって言ったの、佳奈ちゃんだったよね」

窓の外を見た。向かいのマンションのベランダに、色違いのバスタオルが三枚干してあった。

「そんな昔のこと、よく覚えてるね」

「チャットに残ってるから」

「何でそんなの残してるの?」

「消してないだけだよ」

「いつまでその話するの? 私はもう終わったことだと思ってるんだけど」

美穂ちゃんはしばらく何も言わなかった。それから、小さな声で聞いた。

「佳奈ちゃん、私のこと嫌い?」

私は答えなかった。

「そうなんだ」

美穂ちゃんは、ふっと笑った。私はその笑い方が嫌いだった。こちらがひどいことをした気にさせられる。

「美穂ちゃんって、何でも自分が正しいと思ってるよね。人の秘密も勝手にほかの人に話すし」

「それ、佳奈ちゃんのこと?」

「私だけじゃないよ。理沙ちゃんのことだってそう。お金貸したからって、何でも言うこと聞くと思ってるでしょ」

「そんなこと思ってないよ」

「でも、理沙ちゃん傷ついてたよ」

電話の向こうで、何かを置く音がした。

「理沙ちゃん、そんなふうに言ってたんだ」

まずいことを言ったと思ったが、取り消し方がわからなかった。

「とにかく、麻衣さんには連絡しないで」

「それは、私が決めることじゃない?」

私は電話を切った。

その夜、メッセージが来た。

『今日はごめんね。でも麻衣さんには、一度ちゃんと話したいと思ってる』

返さなかった。翌日、また来た。

『佳奈ちゃんのことを悪く言うつもりはないよ』

悪く言うつもりがないなら、そもそも私の名前を出さなければいい。

『もう放っておいて』

『佳奈ちゃんも、ちゃんと向き合ったほうがいいと思う』

その一行を、何度も読み返した。向き合う。美穂ちゃんの好きな言葉だった。

『美穂ちゃんだって、いろいろ隠してることあるよね』

既読がついたまま、返事はなかった。

『もう全部ばらしてもいいんだよ』

送ってから、スマートフォンを伏せた。脅しているように読めるかもしれない。でも、先に人の過去を掘り返そうとしたのは美穂ちゃんのほうだ。私にだって言い分がある、と伝えたかっただけだった。

次の日の夜、十時半を過ぎた頃に電話が鳴った。

「佳奈ちゃん、今ちょっと話せる? 下に来てもらえないかな」

「下って?」

「五階の非常階段。家だと千夏がいるから」

いつもより静かな声だった。

「お願い。少しだけ」

夫と芽衣はもう寝ていた。私はカーディガンを羽織って、玄関を出た。

四

非常階段の防火扉を開けると、五階と六階のあいだの踊り場に美穂ちゃんが立っていた。保護者会のときによく着ていた、薄いベージュのブラウスだった。

階段は建物の内側にあって、真ん中が一階まで吹き抜けになっている。踊り場と吹き抜けの境には腰までの手すりがあり、私はそのそばに立った。

「ごめんね、こんな時間に」

「ううん」

「さっき、理沙ちゃんと話したの。私がお金のことで脅したって、佳奈ちゃんに言ったんだってね」

私は黙っていた。

「そんなつもりなかったんだよ」

「でも、理沙ちゃんは傷ついてたよ」

「うん。それは謝った」

「だったら、いいじゃない」

「佳奈ちゃんにも、誤解されたままだと嫌だなと思って」

私はため息をついた。

「だから、何?」

「佳奈ちゃん、私のこと、ほかの人にも何か言ってる?」

「言ってないよ」

「本当に? 最近、みんなちょっと変なんだよね」

「気のせいでしょ」

「佳奈ちゃん、何か知ってる?」

「何で私に聞くの」

「だって、一番仲よかったから」

「それ、もうやめてくれない?」

自分の声が、階段の上と下に響いた。

「何でも私に聞くの。何でも私が知ってると思うの」

「そんなつもりじゃ」

「ほら、また。全部、そんなつもりじゃなかったって言うんだよね。理沙ちゃんだって、春香さんだって、嫌な思いしてるんだよ」

「みんな? 誰がそう言ってたの?」

私は答えなかった。

「佳奈ちゃん、教えてよ」

「もういいじゃん」

「よくないよ」

美穂ちゃんが私の腕をつかんだ。強い力ではなかった。でも私は振り払った。

「触らないで」

美穂ちゃんは一歩さがった。靴底がコンクリートをこする音がした。二人とも、しばらく口をきかなかった。

「……わかった。もう、佳奈ちゃんには何も言わない」

ほっとしかけたところで、美穂ちゃんは続けた。

「私、佳奈ちゃんのこと、本当に友達だと思ってた」

「私だってそうだったよ」

「だった?」

「そういう意味じゃない」

私は防火扉のほうへ歩いた。

「佳奈ちゃん」

振り返らなかった。

「ごめんね」

廊下に出ると、エアコンの室外機がうなっていた。

部屋に戻ると、リビングの時計は十一時を少し過ぎていた。キッチンで水を一杯飲んだ。冷蔵庫に留めていた給食の献立表が床に落ちていたので、拾ってマグネットで貼り直した。

スマートフォンを開いた。美穂ちゃんからは何も来ていなかった。あんなことを言ったのに、何も言ってこない。いや、最後に謝ったのは美穂ちゃんのほうだった。でも、嫌な思いをしたのは私も同じだ。

『何でそんなに人のことに関わりたいの?』

打ってから、指が止まった。これ以上言い合っても、どうにもならない。一文字ずつ消した。

ベッドに入っても眠れなかった。踊り場で見た美穂ちゃんの顔が、何度も浮かんだ。怒っているようにも、泣き出す寸前のようにも見えた。

明日の朝、連絡して謝ろう。

そう決めて、その夜は終わらせるつもりだった。

五

美穂ちゃんが亡くなって一週間後、刑事が二人、家に来た。年上のほうは玄関で靴をそろえてからリビングに上がり、出したお茶には最後まで口をつけなかった。

はじめは、美穂ちゃんとの付き合いや最近の様子を聞かれた。

「何か、トラブルのようなものはありませんでしたか」

昔のママ友のことで、少し意見が合わなかったと話した。刑事は手元の資料に目を落とした。

「佐藤さんの携帯に、田辺さんからのメッセージが残っていましてね。『もう全部ばらしてもいいんだよ』というものなんですが」

美穂ちゃんには、相談された話をほかの人に漏らしてしまうところがあった。それでつい、こっちだって言おうと思えば言えるのだと、かっとなって送ってしまった。そう説明した。

「実際に、何かを公にするつもりは」

「ありませんでした」

「翌日の夜、十時三十分過ぎに、佐藤さんから電話がありますね」

「はい」

「そのあと、お会いになりましたか」

少し、間をあけてしまった。

「……会いました。マンションの非常階段で」

口論になったことを話した。言いすぎたと思っていることも、最後は美穂ちゃんが謝ってくれたことも。

「別れたのは何時ごろでしょう」

「十一時ごろだったと思います」

「そのあと、佐藤さんとは」

「会っていません」

「連絡も?」

「していません」

送らずに消した文章のことが頭をかすめた。あれは送っていない。だから、連絡していないというのは嘘ではない。

刑事たちが帰ったあと、私は玄関の靴箱にもたれかかった。会ったことは話した。口論したことも話した。黙っていたのは、そのあともう一度非常階段へ行ったことだけだ。それは、美穂ちゃんが落ちた原因とは関係がない。

夕方、理沙ちゃんから電話があった。

「佳奈ちゃんのとこ、警察来た? 私のこと、何か聞かれた?」

「ううん」

「そっか」

理沙ちゃんは何度か息を吸ってから言った。

「実はね、私もあの日、美穂ちゃんに会ってたの。非常階段で。十時過ぎくらい」

私が会うより前だ。理沙ちゃんは、借りたお金の残りを一度に返してほしいと言われたのだという。

「急にそんなこと言われても無理じゃん。それで言い合いになって、私、ひどいこと言っちゃった。人に親切にして、そんなに偉くなりたいの、って」

電話の向こうで鼻をすする音がした。

「美穂ちゃん、何も言わなくなっちゃって」

「理沙ちゃんが悪いわけじゃないよ」

「警察には言ってないの。だって、お金のことで喧嘩したあとに死んじゃったんだよ。絶対疑われるじゃん。私、何もしてないよ。突き落としたりしてない」

「わかってる」

「佳奈ちゃん、お願い。誰にも言わないで」

「言わないよ」

理沙ちゃんは何度もお礼を言って、電話を切った。

ソファに座ったまま、私は膝の上で手を組んだ。理沙ちゃんも嘘をついていた。私だけではなかった。

それが、なぜだか少し嬉しかった。

六

四十九日が過ぎた頃、春香さんから「お茶でもしない?」と誘われた。理沙ちゃんも来るという。場所はうちになった。前の晩に掃除をして、駅前で焼き菓子を買っておいた。

はじめは学校の話だった。来月の保護者会、運動会の係、担任の先生がどうも頼りないこと。そのうち春香さんがフィナンシェの袋を開けながら言った。

「こういうの、全部美穂さんがやってくれてたのよね。去年どうしてたんだっけって、誰もわからないの」

「まとめてくれてたからね」

「まあ、全部自分でやりたがってたところもあったけどね」

理沙ちゃんが笑った。春香さんがうなずいた。

「それはあった。人に任せるの、苦手だったもんね。この前なんて先生に『去年は佐藤さんがやってくださってましたよ』って言われちゃって。そんなこと言われても、私知らないし」

「亡くなるなんて思ってなかったんだから、仕方ないよ」

私はそう言った。

「そうなんだけどね。私たちにもやらせてくれればよかったのに」

誰も反論しなかった。美穂ちゃんが生きていた頃、春香さんは毎年役員を断っていた。私もそうだった。でも、今それを言う必要はない。

「美穂ちゃんって、人のこと全部自分が面倒見なきゃって思ってたよね」

「優しかったからね」

私が言うと、春香さんはカップを両手で持ったまま、少し考えた。

「優しいって、難しいわね」

そこから思い出話になった。理沙ちゃんは、子どもの習い事に口を出された話をした。春香さんは、夫婦喧嘩の相談をしたら「ちゃんと話し合いなよ」と言われた話をした。

「話し合ってどうにかなるなら、相談してないのよ」

春香さんが言い、みんなで笑った。

私も、美穂ちゃんが夫に麻衣さんの話をしたことを話した。

「心配してくれたんだと思うんだけどね。私が話してないことまで夫に言われちゃって、ちょっと困ったんだ」

「え、そういうことする人だったの?」

「悪気はなかったと思うよ」

「でも、人の事情を知ると、すぐ何とかしようとするよね」

理沙ちゃんが言った。

「そこが美穂ちゃんのいいところでもあったんだけど」

私がそう付け足すと、春香さんが急に真顔になった。

「私もね、ちょっと気になってたことがあるの」

夫婦のことを相談したあと、ほかの人に話していないかと美穂ちゃんに聞いたら、一瞬おかしな顔をしたのだという。

「言ってないって言ってたけど、本当はどうだったのかしら」

「もう確かめられないもんね」

「そうなのよ。死んじゃったら、こっちは何も言えないじゃない」

私はうなずいた。亡くなったからといって、生きているあいだにされた嫌なことまで、全部なかったことにする必要はない。

二人が帰ったあと、春香さんからメッセージが来た。

『今日はありがとう。美穂さんのこと、あんなふうに思ってたの私だけじゃなかったのね』

『美穂ちゃんにも、いいところはたくさんあったけどね』

『それはもちろん。でも、佳奈ちゃんがいちばん大変だったと思う』

私の何が大変だったのか、春香さんは知らないはずだった。それでも、大変だったことだけはわかってくれるらしい。

次の週、理沙ちゃんがさらに二人を連れてきた。一人は、美穂ちゃんに子どもの塾を紹介してもらったという人だった。

「本当に助かったんですけど、そのあと会うたびに『あの塾どう?』って聞かれて。こっちも気を使っちゃって」

「美穂ちゃん、そういうところあったよね」

私が言うと、その人はほっとしたように笑った。来たときは美穂ちゃんにどれだけ感謝しているかを話していたのに、帰る頃には「何でも自分の思いどおりにしたかったのかもね」と言っていた。

「そこまでじゃないと思うけど」

私は少しだけかばった。すると、その人は私の手を取った。

「佳奈さん、優しいんですね。あんなに振り回されてたのに」

私は否定しなかった。振り回されていたと思っているわけではない。でも、わざわざ訂正するほどのことでもなかった。

そういう集まりが、何度か続いた。美穂ちゃんが貸してくれた本の話。頼んでもいないのに調べてくれた病院の話。誕生日に届いた、高すぎる贈り物の話。どれも最初は感謝から始まり、最後は困ったという話で終わった。そのうち、はじめから困った話として語られるようになった。

ある晩、夕飯の途中で芽衣が言った。

「千夏ちゃん、最近学校であんまりしゃべらないんだよ。今日、男子に何か言われて泣いてた」

私は箸を置いた。

「何て言われたの?」

「お母さん、みんなに嫌われてたんでしょ、って。誰かのお母さんが言ってたんだって」

そういうことは絶対に言ってはいけない、と芽衣に話した。

「千夏ちゃんのお母さんは、いい人だったんだから」

「うん。知ってる」

「千夏ちゃんに、何かあったら言ってねって伝えてあげて」

夕飯のあと、理沙ちゃんに電話した。子どもたちの間に変な話が広がっているようだから気をつけよう、と。

「ひどいね。誰がそんなこと言ったんだろう。私たち、そんな言い方してないよね」

「うん。してないよ」

それは本当だった。私たちは一度も、美穂ちゃんがみんなに嫌われていたとは言っていない。

七

亮介さんから連絡が来たのは、その数日後だった。

「妻のことで、少しお話しできませんか」

駅前の喫茶店で会った。亮介さんは鞄から紺色のノートを取り出した。学校行事のたびに美穂ちゃんが抱えていたノートだった。中には買い物の予定や学校からの連絡、人との約束が細かい字でびっしり書きこまれていた。

「最近、妻のことでいろいろ噂があるみたいで。人の秘密を広めていたとか、お金を貸して無理なことを頼んでいたとか」

「……行き違いは、いろいろあったと思います。でも美穂ちゃんは、みんなのことを心配していたんだと思います」

「そうですよね」

「ただ、心配しすぎるところはあったかもしれません」

亮介さんは私の顔をしばらく見てから、ノートを開いた。理沙ちゃんの名前があり、貸した金額と、毎月の返済額が並んでいた。

「理沙さんにお金を貸していたんですね。ご存じでした?」

「相談は受けていました」

亮介さんは別のページをめくった。私の名前があった。

『佳奈ちゃん。麻衣さんの件。まだ気にしている様子』

その下に、

『一度ちゃんと話す必要あり』

「藤井さんというのは、どなたですか」

昔同じマンションにいた人で、少し人付き合いが苦手で、集まりに来なくなって、ご主人の転勤で引っ越した人だと説明した。亮介さんは最後まで口を挟まずに聞いていた。

「妻が、何かしたんでしょうか」

「いえ。ちょっとした行き違いです」

亮介さんはノートを閉じた。

「妻は佳奈さんに、本当に感謝していましたよ。最近ぎくしゃくしてるのを気にしていて。自分が何か余計なことをしたのかなって」

「……そうだったんですか」

「昔からなんです。自分がよかれと思ったことを、相手も喜ぶと思ってしまう。悪気はなかったと思います」

コーヒーを持ち上げた。とっくに冷めていた。

「すみません、ちょっとお手洗いに」

席を立ちかけたとき、亮介さんが言った。

「それと、佳奈さん。妻が亡くなった夜、最後に会ったのは佳奈さんだったんでしょうか。警察から何度か確認されまして」

「私が帰るときは、普通に話していました」

「それなら、よかった」

亮介さんは、ほっとしたように息をついた。

「最後まで誰かと喧嘩していたんじゃ、かわいそうなので」

私は何も言わずにお手洗いへ行った。鏡に映った顔が赤かった。手を洗い、備えつけのペーパーで拭いた。ゴミ箱があふれて、丸めた紙が一枚床に落ちていた。

拾わなかった。

八

家に帰ってから、四年前のグループチャットを開いた。亮介さんのノートに麻衣さんのことが書いてあった。ほかにも何か残っているかもしれないと思った。

子どもの誕生日会、集会室の予約、ランチの店。今はもうマンションにいない人の名前もいくつもあった。その中に、麻衣さんの話が出てくる日があった。

『藤井さん、こういう集まりあんまり好きじゃないのかもね』

私だった。理沙ちゃんが『そうなの?』と返し、私が『うん。前もあんまり楽しそうじゃなかったし』と答えている。そこまでは覚えていたとおりだった。

その次に、美穂ちゃんの発言があった。

『一応、声だけかけてみない?』

指が止まった。こんなことを言っていただろうか。その下に私の返信があった。

『でも前に時間のことでいろいろあったし、無理に誘うのも悪いかなって』

理沙ちゃんが『そうだね。気まずいかもね』と続け、美穂ちゃんが『そっか。本人が嫌なら仕方ないね』と締めていた。

美穂ちゃんは一度、麻衣さんを誘おうと言っていたのだ。そこはまったく覚えていなかった。

でも、それで私一人が決めたことになるわけではない。美穂ちゃんも最後は納得したし、理沙ちゃんも同じだった。それなのに、私だけがかばわれた。やっぱり、どこかおかしかったのだと思う。

さらに遡ると、麻衣さんが引っ越したあとのやりとりが出てきた。

『麻衣さん、無事に引っ越したみたいだね』

『いろいろあったけど、いい人だったよね』

『うん。もうちょっと話せばよかったかも』

『佳奈ちゃんもずっと気にしてたもんね』

その下に、私の返信が残っていた。

『うん。今でも申し訳なかったと思ってる』

こんなことを書いていたのか。あの頃は美穂ちゃんに心配をかけたくなかった。早くこの話を終わらせたかった。だから、そう返したのだと思う。美穂ちゃんは、その一行を覚えていたのだ。

チャットを閉じかけたとき、別のやりとりが目に入った。集会室の苦情が出た直後のものだった。

『藤井さん、ちょっと言い方きついよね』

春香さんが書いていた。理沙ちゃんが『わかる。悪い人じゃないんだろうけど』と続け、その下に美穂ちゃんの発言があった。

『でも、ああいう言い方されると、みんなも困っちゃうよね。一度ちゃんと話してみようか』

美穂ちゃんも、麻衣さんには困っていた。私だけではなかった。

その部分を画面ごと保存した。前後にはほかの人の名前や関係のない会話も写っている。そのまま人に見せるのはよくない。必要なところだけ残すことにした。

『でも、ああいう言い方されると、みんなも困っちゃうよね』

そこで切り取って、春香さんに送った。

『前に美穂ちゃんも、こういうこと言ってたみたい』

返信はすぐに来た。

『え、美穂さんも藤井さんのこと苦手だったんだ』

『嫌いだったかどうかはわからないけどね』

『でも、こんなこと書いてたのね。佳奈ちゃん、ずっとかばってたのに』

返事はしなかった。美穂ちゃんをかばっていたつもりはない。あったことを話していただけだ。それなのに春香さんは、私がかばっていたと思っている。

不思議だった。でも、訂正しようとは思わなかった。

九

翌週、警察からもう一度連絡があった。刑事は前回の話を確認してから、理沙ちゃんのことを尋ねた。

「小川理沙さんとは、親しくされていますか。佐藤さんとのあいだで、最近何か問題は」

膝の上で指を組み直した。理沙ちゃんには、誰にも言わないでと頼まれていた。でも、警察には正直に話したほうがいい。

「お金のことで、揉めていたみたいです」

百万円を借りていたこと。毎月返していたこと。残りを一度に返してほしいと言われて困っていたこと。

「それは、いつのことでしょう」

「亡くなった日の夜です。非常階段で話したと聞きました。十時過ぎだったそうです」

「何時に別れたかは」

「そこまでは。ただ、かなり言い合いになったみたいで」

刑事はペンを走らせた。

「理沙ちゃんも、すごく傷ついていました。でも、何かしたとは思っていません。本当に優しい人なので」

これは本心だった。理沙ちゃんが美穂ちゃんを突き落とすなんて考えられない。ただ、ちゃんと調べてもらったほうがいいと思った。

その夜、理沙ちゃんから電話がかかってきた。

「佳奈ちゃん、警察に何か言った?」

「美穂ちゃんと会ってたこと。隠してたら、かえって疑われるかもしれないし」

「約束したじゃん」

「うん。でも、ちゃんと話したほうがいいと思って」

「……最低」

「え?」

「佳奈ちゃん、最低だよ」

電話が切れた。理沙ちゃんのためを思って話したのに。何もしていないなら、正直に話せばいい。そう思っただけだった。

しばらくして、メッセージが来た。

『佳奈ちゃんも、美穂ちゃんと会ってたんでしょ』

『どうして知ってるの?』

『美穂ちゃんから聞いた。佳奈ちゃんと話してから帰るって』

続けて、もう一件。

『佳奈ちゃんが最後に会ったんだよね』

私はスマートフォンを伏せた。寝室から夫のいびきが聞こえた。キッチンで水を飲み、コップを流しに置いたところで、またテーブルの上が震えた。

『私、警察に全部話すから』

何度も読んだ。理沙ちゃんは何を知っているのだろう。美穂ちゃんと私が会ったことだけだろうか。それとも、ほかにも何か。

翌朝、いつもどおり芽衣を学校へ送り出した。給食袋を持たせ忘れたのに気づき、エレベーターまで追いかけた。

「ママ、最近忘れっぽいね」

芽衣が笑い、私も笑った。

十

あの夜、私は一度部屋に戻ったあと、もう一度非常階段へ行っている。

明日の朝謝ろうと決めたのに、眠れなかった。踊り場の美穂ちゃんの顔が頭から離れなかった。まだ、あそこにいるかもしれない。顔を見て、さっきは言いすぎたと言えばいい。カーディガンを羽織り、足音を殺して玄関を出た。

防火扉を開けると、誰もいなかった。五階と六階のあいだの踊り場を、蛍光灯が白く照らしているだけだった。もう帰ったのだろう。引き返そうとしたとき、下のほうで何かがこすれるような音がした。

手すりから覗くと、吹き抜けの底、一階の階段室に人が倒れていた。ベージュの布が見えた。

階段を駆け下りた。美穂ちゃんは一番下の段のそばに倒れていた。頭の下に、黒っぽい染みが広がっていた。目は閉じていた。

「美穂ちゃん?」

返事はなかった。スマートフォンを出し、緊急通報の画面を開いて、一、一、と押した。

そのとき、美穂ちゃんの唇が動いた。

「……佳奈ちゃん」

息が止まった。美穂ちゃんはうっすら目を開けていた。何か言おうとしているのに、声にならない。

画面を見た。あと一つ押せば、電話がつながる。

救急車を呼べば、警察も来るだろう。私は最後に会った人間として話を聞かれる。言い合いになったことも、腕を振り払ったことも、あのメッセージのことも。

『もう全部ばらしてもいいんだよ』

私は何もしていない。突き落としてなどいない。でも、警察がそう思ってくれるとはかぎらない。

美穂ちゃんが小さく息をした。顔を近づけた。

「美穂ちゃん?」

返事はなかった。

通報するなら、今すぐしたほうがいい。そんなことはわかっていた。ただ、警察に何と説明するか、先に決めておきたかった。ここに来るまで、誰かに見られただろうか。非常階段に防犯カメラはない。廊下でも、誰とも会わなかった。

スマートフォンを握り直した。呼ぼう。そう決めた。

でも、その前に、もう一つ気になった。美穂ちゃんが助かったら、私のことを何と話すだろう。倒れている自分を見つけたのに、私がすぐには救急車を呼ばなかったことも、きっと話す。

美穂ちゃんを見た。目は閉じていた。さっきより、息が浅くなっている気がした。

私は立ち上がった。少し、落ち着こうと思った。階段を上り、五階の防火扉の前まで戻った。

戻ろう。今戻れば、まだ間に合うかもしれない。

それから、別の考えが浮かんだ。

もう、間に合わないかもしれない。もしそうなら、私が戻っても意味がない。

画面には、押しかけた番号がまだ表示されていた。私はそれを消した。そして、自分の部屋へ帰った。

翌朝、美穂ちゃんが亡くなったと聞いた。私は泣いた。本当に泣いた。

あのとき救急車を呼んでいれば助かったのかどうかは、わからない。もう確かめようもない。

ただ、ときどき考える。私が階段を上がっていったあと、美穂ちゃんはどのくらい生きていたのだろう。すぐに意識がなくなったのか。それとも、誰かが通りかかるのを待っていたのか。

考えても、答えは出ない。

十一

結局、美穂ちゃんの死で誰かが逮捕されることはなかった。警察からの連絡も、だんだん間遠になった。

理沙ちゃんとは、しばらく口をきかなかった。けれどある日、向こうからメッセージが来た。

『この前はごめんね』

『私もごめん』

それから少しずつ、元のように付き合うようになった。理沙ちゃんは私を責めなくなり、私も理沙ちゃんのことを誰にも話さなかった。

半年が過ぎる頃には、保護者の集まりを任されることが増えていた。

「佳奈ちゃん、来月どうする?」

「お店、どこがいいと思う?」

「学校への連絡、お願いしてもいい?」

これまでは、全部美穂ちゃんが決めていた。やってみると、それほど難しくなかった。誰も嫌な思いをしないように予算を確かめ、都合の悪い人がいれば日をずらし、一人で決めずにみんなの意見を聞いた。

「佳奈ちゃんがいてくれてよかった」

何度もそう言われた。私は、美穂ちゃんのようにはなりたくなかった。

ある日、エントランスで千夏ちゃんに会った。図書館の帰りらしく、手提げ袋が重たそうに膨らんでいた。

「千夏ちゃん、こんにちは。何借りたの?」

「三冊」

袋を少し持ち上げて見せてくれた。

「今度、芽衣とも遊んでね」

「うん」

それから、千夏ちゃんは私を見上げた。

「佳奈ちゃんって、ママと仲よしだったんだよね」

「うん。仲よしだったよ」

「そうだよね。ママもいつもそう言ってた」

私は何も言えなかった。

「ママね、佳奈ちゃんが最近あんまり遊んでくれないって、ちょっと寂しそうだった。でも、お仕事忙しいんだろうねって」

「……そうだね」

「じゃあね」

千夏ちゃんはエレベーターに乗りこみ、扉が閉まるまで小さく手を振っていた。

美穂ちゃんは、私が忙しいのだと思っていたらしい。嫌われているとは思っていなかったのか。気づいていて、そう考えたくなかったのか。あの夜、階段の下で何か言おうとしたときも、そうだった。何を言おうとしていたのか、結局わからない。

エレベーターのボタンを押したところで、また一つ考えが浮かんだ。

もしかしたらあのとき、美穂ちゃんは助けを求めたわけではなかったのかもしれない。ただ、私の名前を呼んだだけだったのかもしれない。

エレベーターが下りてくるあいだ、私はその考えを何度も頭の中でなぞった。

十二

ある土曜日、理沙ちゃんと駅前のパン屋へ行った。新しくできた店で、塩パンが評判だった。店の前には何人か並んでいた。

「そういえば来週のランチなんだけど、春香ちゃんが誘いたい人がいるんだって。三階に越してきた人」

エレベーターでよく会う人だった。小学生の男の子を連れている。

「感じのいい人だよね」

「そうかな」

「え?」

「悪い人じゃないと思うんだけど。この前、集会室で子どもが騒いでるって注意されちゃって。もちろん、こっちも悪かったんだけどね。ちょっと言い方がきつかったから」

理沙ちゃんは笑った。

「まあ、気にしすぎかな」

まだよく知らない人だった。一度話しただけで決めつけるのはよくない。

「一回、誘ってみたら?」

「いいの? 佳奈ちゃん、ほんと優しいね」

私は笑った。理沙ちゃんは続けた。

「でも、来てもらって雰囲気悪くなったら、ちょっと困るよね」

それも考えなければいけない。せっかく、みんなが楽しく集まれるようになったのだから。

「じゃあ、今回はいつものメンバーにしておこうか」

「そうだね。そのほうがいいかも」

ちょうど春香さんからメッセージが来ていた。

『三階の人、誘ってみてもいい?』

『もちろん。また今度みんなで集まるときに声かけよう。今回はもう人数決まっちゃってるしね』

『了解! じゃあ今回はいつものメンバーで』

スマートフォンをしまうと、焼きたてのパンの匂いがした。

「ここの塩パン、佳奈ちゃん好きそうだと思って」

「よく覚えてるね」

「付き合い長いからね」

列が少し進んだ。理沙ちゃんは店の入り口を見たまま言った。

「そういえばさ。私、あの日のこと、まだ誰にも言ってないよ」

「あの日って?」

「美穂ちゃんが死んだ日」

私は黙っていた。

「佳奈ちゃん、あの夜、一回家に帰ってから、また階段に行ったでしょ。私、見たんだよね。十一時過ぎに、佳奈ちゃんが非常階段から出てくるところ」

そんな時間に、どうして理沙ちゃんが五階の廊下にいたのか。聞きかけて、やめた。

「でも、もういいかなって。私も、いろいろ隠してたしね」

店員がドアを開けた。

「次のお客さま、どうぞ」

理沙ちゃんは一歩前に出てから振り返った。

「これからも仲よくしようね」

「うん」

店に入ると、塩パンは残り二つだった。

「よかったね」

理沙ちゃんが言った。

「うん。間に合ってよかった」

了