書き下ろしイヤミス

いいお母さんですね

約3,046字 読了目安 約6分 2026年10月29日 公開

面談の日、校門の前でパンの袋を渡された。

同じクラスの保護者だった。

「よかったら、今日の夕飯にでも」

袋には、三人家族でも余りそうなほど入っていた。

私が礼を言うと、その人は声を落とした。

「恵さんから聞いて。大変なんだよね」

私は袋を持ったまま、何を聞いたのか尋ねられなかった。

恵さんと知り合ったのは、息子の航が一年生になった春だった。

引っ越したばかりで、私は学校のことを何も知らなかった。

学童のお迎えの場所を間違えたとき、恵さんが案内してくれた。

行事の日程も、必要な持ち物も、早めに教えてくれた。

「去年、上の子のときに困ったので」

礼を言うと、恵さんはいつもそう答えた。人に貸しを作った顔をしない人だった。

夫は長期の出張が多く、平日の夕方はほとんど私一人だった。

仕事が延びて迎えに遅れそうなとき、学校から近い恵さんの家で、航を預かってもらったこともあった。

迎えに行くと、恵さんの子と航が同じテーブルで宿題をしていた。

二人の前に、小さな皿が一枚ずつあった。切ったりんごが、同じ数だけ載っていた。

私は玄関で何度も頭を下げた。

「お仕事して、迎えにも来て。いいお母さんですね」

恵さんは、そう言って笑った。

私はその日、会社で一度叱られていた。帰りの電車で、その言葉を何度も思い出した。

航が二年生になった秋、私は恵さんに弱音を吐くようになった。

迎えのあと、子どもたちが校庭の端で遊んでいる十分ほどの間だった。

ある日は、夕飯を作る気力がなく、パンだけになったと話した。

本当は、冷蔵庫に残っていたスープも温めた。けれど話したかったのは献立ではなかった。家に帰っても、もう何もしたくなかったことだった。

恵さんは、パンを出したなら十分だと言った。

別の日には、航を強く叱ってしまったと話した。

出勤前、ランドセルを自分で見てと言っても、航が動かなかった。私は声を荒らげた。

あとで、その日、図工があることを知った。

航は作ったものを同じ班の子に笑われ、続きを学校へ持っていくのを嫌がっていた。

友達のお母さんたちには言わないで、と航は頼んだ。

私はその朝、会社に遅れる連絡をした。航が落ち着くまで一緒にいて、その日は学校を休ませた。翌日、担任に電話をし、詳しくは面談で話すことになった。

恵さんには、学校を一日休ませたとだけ話した。

「お仕事があるのに、航くんのために休めるんですね」

恵さんは、うなずいた。

「いいお母さんですね」

私は肩の力を抜いた。

理由を全部説明しなくても、責めずに聞いてくれる。そう思っていた。

パンの袋を椅子の横に置いて、私は面談を受けた。

先生は、航が最近、図工の前に黙ってしまうことを話した。私は家で聞いたことを伝えた。班の子へ話す前には、もう一度本人と相談することも確認した。

話し終えると、先生はメモを閉じた。

「おうちでも、疲れている様子はありますか」

航のことだと思って答えかけると、先生は言葉を足した。

「お母さんご自身も」

私はパンの袋を見た。

個人面談なら、よくある質問なのかもしれない。

「少し。でも、必要なことは、相談します」

その夜、別の保護者からメッセージが来た。

〈明日のお迎え、代わろうか。少し休んでね〉

私は恵さん以外に、仕事がつらいとも、航を叱ったとも話していなかった。

何か聞いたのかと返すと、しばらくして届いた。

〈恵さんが心配してたから〉

翌朝、パンをくれた人にもう一度会った。

悪いことは何も、とその人はすぐに言った。私は、悪いことかどうかではなく、内容を教えてほしいと頼んだ。

その人は迷ったあと、スマホを見せてくれた。

私の入っていない、近所の保護者数人のグループだった。

〈最近、夕飯はパンだけの日もあるみたい〉

〈朝、かなり怒ってしまったって〉

〈学校も休ませたそうです。一人で抱えていそうで心配〉

どれも、私が話したことだった。

三つ並ぶと、自分の知っている家ではないように見えた。

最後に、こう書いてあった。

〈直接何か言うと気を遣わせるから、航くんの様子も、さりげなく見てあげてください〉

「みんな、心配してるだけだよ」

私は、パンはおいしかったです、と答えた。

ほかに、その場で言えることがなかった。

子どもたちが学校へ行っている朝、駅前のベンチで恵さんと話した。

「私の話を、ほかの人に伝えましたか」

恵さんは隠さなかった。

「一人で頑張りすぎてると思ったので」

前の晩、航が私に聞いていた。明日のご飯は何か決まっているか。

どうしたのか尋ねると、友達のお母さんに、昨日は何を食べたのか聞かれたのだという。

それでも航は、来週は恵さんの家へ行けるかと聞いた。友達と作っている紙の町の続きをしたいのだという。

私は、その二つを恵さんに話した。

「ごめんなさい。航くんに気づかせないように、って言ったんですけど」

気づかせないように。

「私には、言わないんですか。心配だから、誰かに相談していいかって」

「先に聞いたら、大丈夫って言いますよね」

言うかもしれなかった。

「うちの母も、ずっと大丈夫って言ってたんです。私が小さいころ」

母親が体調を崩したとき、近所の人は何も知らなかった。家の中のことは分からないからと、あとになって言われたという。

「私、誰か一人くらい、見てくれてたらって思ったので」

恵さんは、本当に分からないという顔をした。

「嘘は、言ってないですよね」

私は、そうですねと答えた。

嘘をつかれたのなら、もっと簡単に訂正できた。

帰りの電車で、グループに転送してもらう文章を考えた。

夕飯のこと。学校を休ませたこと。その朝、航が動かなかった本当の理由。

打っている途中で、指が止まった。

どの子が、航の何を笑ったのか。

それを書けば、私は何も考えていない母親だと思われずに済むかもしれない。

その文章は、私より先に、航の教室へ着く気がした。

私は航の話を消した。

〈気にかけていただいてありがとうございます。家庭のことで気になることがあれば、子どもではなく私に聞いてください〉

恵さんへ送り、同じ人たちにも伝えてほしいと頼んだ。

来週の火曜、航が嫌でなければまた預かってほしいこと。ただし、私が話した家のことを、ほかの人へ伝えるのはやめてほしいことも書いた。

恵さんからは、〈火曜日、大丈夫です〉と返ってきた。

もう一つのお願いへの返事は、なかった。

その日のお迎えで、恵さんはいつもどおり私に手を振った。

航は先に門を出て、恵さんの隣にいた。

「面談、どうでした?」

私は航の手を取ってから答えた。

「先生と、お話できました」

「よかった。お母さんが一人で抱えなくて」

恵さんが言い終える前に、航が顔を上げた。

「ママ、ご飯、ちゃんと作ってるよ」

恵さんは膝を少し曲げて、航に目を合わせた。

「うん。知ってるよ。航くんは心配しなくていいからね」

航は首を横に振った。

「いいお母さんだよ」

恵さんは、少し驚いた顔をした。それから、ほほえんで航の頭を撫でた。

「そうだね。いいお母さんだね」

私は航の手を引き寄せた。

航は、恵さんの返事を聞いてから、やっと私を見た。

その夜、パンをくれた人から、メッセージが届いた。

迷ったけど、知っておいたほうがいいと思って、と前置きがあった。

画面を写した画像が一枚、ついていた。

〈航くん、今日はママのことを一生懸命かばっていました。ちゃんと作ってるよ、いいお母さんだよ、って。けなげで、胸がいっぱいになりました。引き続き、そっと見守ってあげてください〉

航は、隣の部屋で眠っていた。

私は、その文章を何度も読んだ。

どこにも、嘘は書いていなかった。

了