いいお母さんですね
面談の日、校門の前でパンの袋を渡された。
同じクラスの保護者だった。
「よかったら、今日の夕飯にでも」
袋には、三人家族でも余りそうなほど入っていた。
私が礼を言うと、その人は声を落とした。
「恵さんから聞いて。大変なんだよね」
私は袋を持ったまま、何を聞いたのか尋ねられなかった。
*
恵さんと知り合ったのは、息子の航が一年生になった春だった。
引っ越したばかりで、私は学校のことを何も知らなかった。
学童のお迎えの場所を間違えたとき、恵さんが案内してくれた。
行事の日程も、必要な持ち物も、早めに教えてくれた。
「去年、上の子のときに困ったので」
礼を言うと、恵さんはいつもそう答えた。人に貸しを作った顔をしない人だった。
夫は長期の出張が多く、平日の夕方はほとんど私一人だった。
仕事が延びて迎えに遅れそうなとき、学校から近い恵さんの家で、航を預かってもらったこともあった。
迎えに行くと、恵さんの子と航が同じテーブルで宿題をしていた。
二人の前に、小さな皿が一枚ずつあった。切ったりんごが、同じ数だけ載っていた。
私は玄関で何度も頭を下げた。
「お仕事して、迎えにも来て。いいお母さんですね」
恵さんは、そう言って笑った。
私はその日、会社で一度叱られていた。帰りの電車で、その言葉を何度も思い出した。
*
航が二年生になった秋、私は恵さんに弱音を吐くようになった。
迎えのあと、子どもたちが校庭の端で遊んでいる十分ほどの間だった。
ある日は、夕飯を作る気力がなく、パンだけになったと話した。
本当は、冷蔵庫に残っていたスープも温めた。けれど話したかったのは献立ではなかった。家に帰っても、もう何もしたくなかったことだった。
恵さんは、パンを出したなら十分だと言った。
別の日には、航を強く叱ってしまったと話した。
出勤前、ランドセルを自分で見てと言っても、航が動かなかった。私は声を荒らげた。
あとで、その日、図工があることを知った。
航は作ったものを同じ班の子に笑われ、続きを学校へ持っていくのを嫌がっていた。
友達のお母さんたちには言わないで、と航は頼んだ。
私はその朝、会社に遅れる連絡をした。航が落ち着くまで一緒にいて、その日は学校を休ませた。翌日、担任に電話をし、詳しくは面談で話すことになった。
恵さんには、学校を一日休ませたとだけ話した。
「お仕事があるのに、航くんのために休めるんですね」
恵さんは、うなずいた。
「いいお母さんですね」
私は肩の力を抜いた。
理由を全部説明しなくても、責めずに聞いてくれる。そう思っていた。
*
パンの袋を椅子の横に置いて、私は面談を受けた。
先生は、航が最近、図工の前に黙ってしまうことを話した。私は家で聞いたことを伝えた。班の子へ話す前には、もう一度本人と相談することも確認した。
話し終えると、先生はメモを閉じた。
「おうちでも、疲れている様子はありますか」
航のことだと思って答えかけると、先生は言葉を足した。
「お母さんご自身も」
私はパンの袋を見た。
個人面談なら、よくある質問なのかもしれない。
「少し。でも、必要なことは、相談します」
その夜、別の保護者からメッセージが来た。
〈明日のお迎え、代わろうか。少し休んでね〉
私は恵さん以外に、仕事がつらいとも、航を叱ったとも話していなかった。
何か聞いたのかと返すと、しばらくして届いた。
〈恵さんが心配してたから〉
*
翌朝、パンをくれた人にもう一度会った。
悪いことは何も、とその人はすぐに言った。私は、悪いことかどうかではなく、内容を教えてほしいと頼んだ。
その人は迷ったあと、スマホを見せてくれた。
私の入っていない、近所の保護者数人のグループだった。
〈最近、夕飯はパンだけの日もあるみたい〉
〈朝、かなり怒ってしまったって〉
〈学校も休ませたそうです。一人で抱えていそうで心配〉
どれも、私が話したことだった。
三つ並ぶと、自分の知っている家ではないように見えた。
最後に、こう書いてあった。
〈直接何か言うと気を遣わせるから、航くんの様子も、さりげなく見てあげてください〉
「みんな、心配してるだけだよ」
私は、パンはおいしかったです、と答えた。
ほかに、その場で言えることがなかった。
*
子どもたちが学校へ行っている朝、駅前のベンチで恵さんと話した。
「私の話を、ほかの人に伝えましたか」
恵さんは隠さなかった。
「一人で頑張りすぎてると思ったので」
前の晩、航が私に聞いていた。明日のご飯は何か決まっているか。
どうしたのか尋ねると、友達のお母さんに、昨日は何を食べたのか聞かれたのだという。
それでも航は、来週は恵さんの家へ行けるかと聞いた。友達と作っている紙の町の続きをしたいのだという。
私は、その二つを恵さんに話した。
「ごめんなさい。航くんに気づかせないように、って言ったんですけど」
気づかせないように。
「私には、言わないんですか。心配だから、誰かに相談していいかって」
「先に聞いたら、大丈夫って言いますよね」
言うかもしれなかった。
「うちの母も、ずっと大丈夫って言ってたんです。私が小さいころ」
母親が体調を崩したとき、近所の人は何も知らなかった。家の中のことは分からないからと、あとになって言われたという。
「私、誰か一人くらい、見てくれてたらって思ったので」
恵さんは、本当に分からないという顔をした。
「嘘は、言ってないですよね」
私は、そうですねと答えた。
嘘をつかれたのなら、もっと簡単に訂正できた。
*
帰りの電車で、グループに転送してもらう文章を考えた。
夕飯のこと。学校を休ませたこと。その朝、航が動かなかった本当の理由。
打っている途中で、指が止まった。
どの子が、航の何を笑ったのか。
それを書けば、私は何も考えていない母親だと思われずに済むかもしれない。
その文章は、私より先に、航の教室へ着く気がした。
私は航の話を消した。
〈気にかけていただいてありがとうございます。家庭のことで気になることがあれば、子どもではなく私に聞いてください〉
恵さんへ送り、同じ人たちにも伝えてほしいと頼んだ。
来週の火曜、航が嫌でなければまた預かってほしいこと。ただし、私が話した家のことを、ほかの人へ伝えるのはやめてほしいことも書いた。
恵さんからは、〈火曜日、大丈夫です〉と返ってきた。
もう一つのお願いへの返事は、なかった。
*
その日のお迎えで、恵さんはいつもどおり私に手を振った。
航は先に門を出て、恵さんの隣にいた。
「面談、どうでした?」
私は航の手を取ってから答えた。
「先生と、お話できました」
「よかった。お母さんが一人で抱えなくて」
恵さんが言い終える前に、航が顔を上げた。
「ママ、ご飯、ちゃんと作ってるよ」
恵さんは膝を少し曲げて、航に目を合わせた。
「うん。知ってるよ。航くんは心配しなくていいからね」
航は首を横に振った。
「いいお母さんだよ」
恵さんは、少し驚いた顔をした。それから、ほほえんで航の頭を撫でた。
「そうだね。いいお母さんだね」
私は航の手を引き寄せた。
航は、恵さんの返事を聞いてから、やっと私を見た。
*
その夜、パンをくれた人から、メッセージが届いた。
迷ったけど、知っておいたほうがいいと思って、と前置きがあった。
画面を写した画像が一枚、ついていた。
〈航くん、今日はママのことを一生懸命かばっていました。ちゃんと作ってるよ、いいお母さんだよ、って。けなげで、胸がいっぱいになりました。引き続き、そっと見守ってあげてください〉
航は、隣の部屋で眠っていた。
私は、その文章を何度も読んだ。
どこにも、嘘は書いていなかった。
了