書き下ろしその他

今年は赤くならなかった

約6,303字 読了目安 約13分 2026年10月28日 公開

「遅い!」

店に入るなり、美咲に言われた。

「ごめん。新幹線がちょっと遅れて」

「罰金千円ね」

「じゃあ、今日は俺が払うよ」

「そういうことじゃないんだけど」

健太がメニューを差し出した。

「ビールだろ。もう頼んどいた」

テーブルにはポテトフライとホッケが並んでいた。

「お前ら、また同じもの頼んでんの」

「お前が食うからだろ」

健太がポテトを一本つまんだ。

「俺はホッケでいいんだけどな」

「じゃあ何で頼んだんだよ」

「だから、お前が食うからだって」

「二人とも、四十過ぎて何やってんの」

「まだ四十一だろ」

「同じだよ」

三人で笑った。

僕たちは高校からの友人だった。卒業して、僕は東京の大学へ行き、健太と美咲は地元に残った。それぞれ就職し、僕は三十代で会社を立ち上げた。暮らしはずいぶん変わったが、毎年秋になると三人で集まった。いつからか、店も同じ居酒屋になった。健太と美咲は、昔と変わらず僕を直人と呼んだ。僕はこの集まりを楽しみにしていた。

高校一年の秋、僕の机が教室の後ろへ動かされていた。掃除用具入れの隣だった。黒板の隅に、小さく「特等席」と書いてあった。

誰がやったのかはわかっていた。休み時間になると、僕の筆箱を隠したり、教科書に落書きしたりする男子が三人いた。はじめは冗談のつもりだったのだろう。僕が言い返せないとわかると、少しずつひどくなった。先生に言うことも考えた。それが三人に知られるほうが怖かった。

机を戻そうとすると、後ろから声がした。

「宮原、そこがお前の席だろ」

振り返ると、三人が笑っていた。僕も笑った。なぜ笑ったのか、今でもよくわからない。

そこへ健太が来た。

「何してんの」

「宮原の席、引っ越し。こっちのほうが似合うじゃん」

健太は僕の机を見た。

「宮原、昼飯食った? まだ? じゃあ食おうぜ」

「いや、机が」

「戻せばいいじゃん」

健太が机の片側を持ち、僕が反対側を持って、元の場所に運んだ。

「大野、何いい人ぶってんだよ」

「別に。腹減っただけ」

健太はそれ以上何も言わなかった。弁当を広げると、僕の卵焼きを見て「それ一個ちょうだい」と言い、代わりに自分のミートボールを一つ僕の弁当に入れた。

「交換な」

それから毎日、健太は僕を昼に誘った。そのうち美咲も加わった。美咲は健太と中学が同じで、二人は何でも遠慮なく言い合った。僕は最初、聞いているだけだったが、いつの間にか冗談を言えるようになった。三人でいるようになると、僕をからかっていた連中は寄ってこなくなった。

ずっとあとになってその話をしても、健太は「そんなことあったな」と言うだけだった。

高校三年の秋、僕たちはよく学校近くの公園で時間をつぶした。大きなもみじの木があった。

「卒業しても、たまには集まろうよ」

美咲が言った。

「お前が一番先に来なくなりそう。飽きっぽいじゃん」

「そんなことないし。直人は東京行っても帰ってくるよね?」

「帰ってくるよ」

「じゃあ、毎年秋ね」

「何で秋?」

「今、秋だから」

そんな適当な約束だった。それでも僕たちは、毎年秋に集まった。

四十一歳の秋は、高校時代によく通ったラーメン屋が閉店したという話から始まった。

「店主のおっちゃん、もう七十過ぎてたからな」

「寂しいなあ。うまかったのに」

「そう? 私、あんまり好きじゃなかったな」

美咲が首をかしげた。

「え、いつも一緒に行ってたじゃん」

「二人が行きたがるからでしょ。別に嫌いってほどじゃなかったし。だから行ってたんじゃん」

美咲はホッケの身をほぐした。三人とも好きな店だと思っていたので、僕は少し驚いた。

「でも、あそこの餃子はおいしかったよね」

「お前、最後に行ったとき覚えてる? 直人が一人で二皿食ったやつ。俺の分まで」

「それ、お前が腹いっぱいだったからだろ。都合よく忘れるなよ」

美咲が声を上げて笑った。

そのあと、美咲が陶芸を始めたという話になった。休みの日に教室に通っていて、来月には作品展があるらしい。スマートフォンで、小さな青い器の写真を見せてくれた。少し形がゆがんでいたが、色がきれいだった。

「いいじゃん。売れるんじゃない?」

健太が言った。僕もそう思った。

「こういうの、ネットで結構売れるよ。写真の撮り方次第だと思う」

「いや、売るつもりはないんだけど。別に商売したいわけじゃないから」

「ああ、そっか」

「こっちは先生の作品。全然違うでしょ。こういう形、難しいんだよ」

「今度、俺にも一個作ってよ」

「簡単に言わないでよ。結構時間かかるんだから」

「じゃあ、できたやつでいいよ」

「もっと嫌だ」

美咲は、教室で知り合った人たちの話をした。定年してから始めた男性がいて、毎週欠かさず来るのに、全然うまくならない。でも、すごく楽しそうなのだという。健太はその人の失敗談を聞きたがり、美咲も楽しそうに話した。知らない名前がいくつも出てきた。

しばらくして、僕の会社の話になった。新しい事業がようやく軌道に乗って、社員を増やそうとしている。

「お前、ほんと変わったよな。高校のとき、人前でしゃべるのも苦手だったじゃん。それが今じゃ社長だもんな。俺なんか五人くらいの会議でも面倒くさいもん」

健太は本当に感心しているようだった。悪い気はしなかった。ただ、昔の自分を引き合いに出されるのは、あまり好きではなかった。もう二十年以上前のことだ。

その日も、僕が会計を済ませた。健太が財布を出しかけたが、遅刻したからと断った。

「直人、いつも払ってない? この前も払ってたじゃん」

「そうだっけ」

「まあ、社長だからな」

健太が僕の肩を叩いた。三人分といっても、たいした額ではなかった。

店を出ると、美咲が鞄から小さな袋を二つ出した。

「これ、二人に。陶芸教室の近くのお店の焼き菓子。直人、こういうの好きだよね。昔から甘いもの好きだったじゃん」

「よく覚えてるな」

「ほら、また本人が覚えてない」

美咲は少し得意そうだった。

三人で、いつもの公園まで歩いた。もみじは半分ほど赤くなっていた。

「今年はまだだな。来週くらいかな」

「来週はもう東京だよ」

「毎年タイミング悪いね。去年はきれいだったよね」

「去年もこんなもんじゃなかった?」

「違うよ。もっと赤かった」

健太も覚えていないらしかった。美咲は木を見上げた。

「二人とも、全然見てないんだね」

公園を出たところで、美咲と別れた。

「じゃあ、またね。東京、気をつけてね」

「おう、また来年な」

美咲はもう一度手を振って、角を曲がった。

それが、三人で集まった最後の日になった。

四十二歳の秋、美咲は来なかった。陶芸教室の仲間と予定があるらしいと、健太から聞いた。

「最近、よく出かけてるみたいだよ」

「楽しそうでいいじゃん」

健太と二人で、いつもの居酒屋で飲んだ。美咲がいなくても、話には困らなかった。高校の先生の話、共通の友人の近況、仕事のこと。店員がポテトフライとホッケを運んできた。

「二人でも同じもの頼むんだな」

「お前が食うだろ」

「そういえばさ、俺、もうあんまりポテト食わないんだよね。最近ちょっと胃が重くて」

「おっさんじゃん。じゃあ俺が食うわ」

健太は皿を自分のほうへ寄せた。

健太の勤める印刷会社は、ここ数年で取引先が減っているらしかった。この前も一社、契約が切れたという。

「どこも似たようなもんだよ。昔はもっと人がいたけどな」

「お前、転職とか考えてないの? だったら、うち来ない? 営業。ちょうど人が欲しいんだよ」

健太が顔を上げた。

「ITなんかわかんねえよ」

「最初は誰だってそうだよ。お前、人付き合いうまいじゃん」

「昔の話だろ。ありがとな。でも、今の会社も嫌いじゃないし」

「本当に困ったら言ってよ。給料も今より出せると思うし」

健太はグラスを置いた。

「そんなに俺、困ってそうに見える?」

「え?」

「いや、何でもない」

「別に、そういうつもりじゃないよ」

「わかってるって」

健太は枝豆を一つつまみ、最近担当している取引先の話を始めた。小さな和菓子屋で、昔ながらの包装紙を作っているのだという。

「そこのじいちゃんがさ、毎回新しい柄を考えてくるんだよ。もう八十近いのに。この前なんか三回も色を変えさせられて。でも、できたのを見せたら、すげえ喜んでくれて」

淡い黄色に小さな花が散った包装紙の写真を、健太はしばらく眺めてから、スマートフォンをしまった。

「お前の会社は? 順調?」

「売上は悪くないんだけど、人がね。せっかく育てても辞めちゃったりさ。あと、俺がやったほうが早い仕事でも、社員に任せなきゃいけないし」

「じゃあ、お前が現場から離れればいいじゃん。社長なんだから、任せればいいだろ」

「任せられるなら苦労しないって」

「でも、それじゃいつまでたっても大変じゃん」

「だから、そういう話じゃないんだよ」

自分でも、言い方が強くなったと思った。健太は枝豆の殻を皿の端に寄せた。

「まあ、俺にはよくわかんねえけど」

僕はビールを飲んだ。会社の事情を全部話したわけでもないのに、そう簡単に言われても困る。

「そういや、西村が家建てたらしいぞ。サッカー部の」

それからしばらく、地元の同級生の話になった。僕の知らない近況が多かった。話が途切れたところで、健太が言った。

「お前、ほんと変わったよな。昔はおとなしかったのに、今じゃ会社やって、社員も何十人もいてさ。高校の頃のお前からは想像できなかったよ」

健太は嬉しそうだった。褒めてくれているのはわかっていた。でも、もう昔の話はいいだろうと思った。僕にだって、あれからいろいろあった。会社を作り、失敗し、借金もした。社員が辞めて眠れなかった夜もある。そういう話を、健太にはほとんどしたことがなかった。

「でもさ」

「ん?」

「いや、何でもない」

健太はしばらく僕を見ていたが、「まあ、いいけど」と言って別の話を始めた。

会計のとき、伝票を取ると、健太が財布を出した。

「今日は俺が払うよ。前も払ってもらったし」

「いいって。気にすんなよ」

「たまには払わせろって」

「何でそんなにこだわるんだよ」

「別にこだわってねえよ」

健太は伝票を見た。

「じゃあ、今日は割り勘な」

結局、半分ずつ払った。

店を出ると、健太が言った。

「さっきの仕事の話。誘ってくれたのは嬉しかったよ。でも、今の会社、結構好きなんだよ」

「わかってるよ。そんなに気にしなくていいって」

「別に気にしてねえよ」

少し歩いてから、健太がまた言った。

「お前、高校のとき、俺が数学で赤点取ったの覚えてる? あのとき、お前に教えてもらっただろ。あれ、助かったんだよ。あのままだったら進級やばかったかもな。今でも感謝してる」

照れくさくなった。

「別に、たいしたことしてないよ」

「そうか?」

「うん」

健太は、それきり何も言わなかった。

公園に着くと、街灯の下にあのもみじの木が見えた。枝には、ほとんど葉が残っていなかった。

「今年は赤くならなかったな」

僕が言った。健太は木を見上げた。少し間があった。

「……そうだな」

足もとには、色の抜けた葉が乾いて積もっていた。

「昔は、もっときれいだった気がするな。高校の頃とか」

「そうだっけ」

「お前、ほんと覚えてねえな」

「お前だってそうだろ」

「まあな」

二人とも、しばらく木を見ていた。

「美咲、最近どうしてるんだろうな」

「陶芸、頑張ってるみたいだよ。来月も作品展あるって。お前も来れば?」

「東京からわざわざ?」

「新幹線乗ればすぐだろ」

「そう簡単に言うなよ」

健太は少し笑った。

駅までの道で、健太は僕の知らない同級生の話をし、僕は東京の友人の話をした。健太は知らない相手の話でも、面白そうに聞いてくれた。

「じゃあ、また来年な」

「おう、またな」

軽く手を上げて別れた。

翌年の春、三人のグループに美咲から作品展の案内が届いた。

『よかったら来てね』

健太は『時間あったら行くわ』と返した。僕は『おめでとう! 東京だから行けないけど、写真見せてね』と送った。

数日後、健太が写真を送ってきた。美咲と並んで写っていて、二人とも楽しそうだった。

『行ってきた。結構すごかったぞ』

写真を拡大すると、美咲の後ろに器がたくさん並んでいた。前に見せてもらった青い器もあった。

『いいね。楽しそう』

続けて健太が、教室の人たちとの集合写真を送ってきた。美咲は真ん中あたりで、隣の女性と肩を寄せていた。知らない顔ばかりだった。

『美咲、友達増えたな』

『ほんとだな』

その年の秋、健太から『今年どうする?』と来た。新しい取引先との契約が重なり、出張も続いていた。

『今月ちょっと忙しいんだよね。来月なら』

『来月は俺が厳しいかも』

『じゃあ、年明けでもいいよ』

『そうだな。また連絡する』

『了解』

年が明けても、僕は連絡しなかった。健太からも来なかった。毎年会っていたからといって、一年空いたくらいで何かが変わるわけではない。正直に言えば、予定を合わせなくていいのは少し気楽だった。秋になるたびに仕事を空け、新幹線を取り、翌日の仕事に間に合うように帰る。楽しい時間ではあったが、忙しい年には負担でもあった。だからといって、健太に会いたくないわけではない。会えば、きっと楽しい。

春になると、健太から『駅前、今年も満開』と桜の写真が届いた。新しい取引先が決まって、忙しくなっているらしい。

『よかったじゃん』

『まあな』

仕事の相談があればいつでも言ってくれ、と打ちかけた。桜の写真を送ってきただけの相手に、わざわざ言うことでもないだろう。消して、『体に気をつけろよ』と送った。健太からは、親指を立てた絵文字が返ってきた。

四十四歳の秋、仕事で地元の近くに行くことになった。打ち合わせが早く終わり、帰りの新幹線まで二時間ほど空いた。

駅へ向かう途中、昔の公園の前を通った。遊具は新しくなっていたが、もみじの木は同じ場所にあった。今年は、きれいに赤くなっていた。

僕は足を止めた。

健太とはもう二年会っていない。美咲とは三年になる。喧嘩をしたわけではない。春には健太から桜の写真が届いたし、美咲ともときどきグループで近況をやりとりしていた。

スマートフォンで健太とのやりとりを開いた。桜の写真があり、さかのぼると、去年の秋の『また連絡する』『了解』があった。それだけだった。

『今日、そっちに来てるんだけどさ』

そこまで打って、時計を見た。新幹線まで一時間半ある。健太に連絡すれば、仕事を抜けて顔を出してくれるかもしれない。昔から、そういう男だった。でも、今日は忙しいかもしれない。

文章を消して、ベンチに腰を下ろした。

机を戻してくれたあの日から、健太とは長い付き合いになった。思い出すのは、どれもたいしたことのない場面ばかりだった。

足もとに、赤い葉が何枚か落ちていた。一枚拾った。まだ乾いていない、きれいな葉だった。

高校の頃、美咲はよく落ち葉を拾っていた。形のいいものを探しては、教科書に挟んでいた。

「どうせ枯れるのに」

健太が言うと、美咲はいつも「いいじゃん、別に」と答えた。

葉を持ったまま、しばらく木を見ていた。それからカメラを起動して、もみじを画面に収めた。少し角度を変えると、ベンチも入った。写真を撮った。

健太に送ろうかと思った。美咲に見せたら、懐かしがるかもしれない。三人のグループを開くと、最後のメッセージは美咲の作品展の写真で、その下に僕の『楽しそう』が残っていた。

撮った写真を選んだ。画面の中で、もみじはきれいに赤くなっていた。

健太なら、すぐに返事をくれるだろう。懐かしいな、と書いてくる。それから、たぶん、こう続ける。お前、ほんと変わったよな。

送信ボタンの手前で、指を止めた。

しばらくして、画面を閉じた。拾った葉をベンチに置いて、駅へ向かった。

了