気づき帳
由美子へ
お元気ですか。母は、元気にしています。
「あおばの丘」に入って、ひと月が経ちました。窓から海が見えると聞いていたけれど、本当は、松林のすきまから、ほんの指二本ぶんくらいが見えるだけです。それでも晴れた朝は、そこだけ銀色に光って、きれいですよ。
お部屋は二人部屋で、お隣はタキさんという九十一歳の方です。耳は遠いけれど、お話し好きで、昔、魚の行商をしていたそうです。毎朝、わたしに「奥さん、今日はいいアジが入ってるよ」と言ってくださるの。毎朝ですよ。ふふ。
ここの職員さんたちは、皆さん本当によくしてくださいます。とくにミホちゃんという、二十歳そこそこの介護士さんは、手が荒れて真っ赤なのに、いつもにこにこしていて。お父さんの形見の、あのハンドクリームを一つあげました。あなたは覚えていないかもしれないけれど、お父さんが冬になると塗っていた、緑色の缶の。ミホちゃん、「いいんですか」って、目をまるくしていました。かわいい子です。
あなたの住所に出したお手紙が二通、「あて所に尋ねあたりません」で戻ってきました。お引越ししたのなら、教えてね。このお手紙は、仕方がないので、あなたのお勤め先の会社に送ります。受付の方が渡してくださるといいのだけれど。
食堂のお食事は、薄味ですけれど、悪くありません。火曜日のお昼に出る茶碗蒸しには、銀杏が一つ入っています。あなたは小さいころ、銀杏だけ残して、母のお茶碗にこっそり移していましたね。ここでは誰も移してくれないので、自分で食べています。
夕方になると、廊下の窓から、家族連れの面会の方たちが駐車場に戻っていくのが見えます。お孫さんが手を振って、おばあちゃんが手を振り返して。母はそれを見ているのが、案外好きなのです。
母のことは心配いりません。でも、ときどき、あなたの声が聞きたくなります。
体に気をつけて。
母より
*
由美子へ
お返事がないので、また書きます。
タキさんのことで、少し心配なことがありました。夜中の二時ごろ、ベッドの上に起き上がって、誰もいない壁に向かって、ずっとお話ししているの。「ほら、あんた、ちゃんと値札つけなきゃ」とか、「まけたら旦那に叱られる」とか。最初はかわいらしいと思っていたけれど、毎晩となると、やっぱり心配で。
母は昔から、気づいたことを帳面に書きつける癖があるでしょう。気づき帳。あなたも知っているあれです。それで、タキさんのことも少し書きとめて、施設長さんにお伝えしました。施設長さんは、「よく見ていてくださいました」と頭を下げてくださいました。
タキさんは先週、三階のフロアに移りました。専門の方に見ていただけるのですって。お別れのとき、タキさんがわたしの手を握って、「奥さん、なんで」と言いました。なんで、って。わたし、なんだか胸が痛くて。
三階の窓からは、海は見えないそうです。
新しい同室の方は、宮下さんという、品のいい方です。息子さんが東京にいらっしゃるそうですが、まだ一度も面会にいらしていないんですって。かわいそうに。
母より
*
由美子へ
今日は、お父さんの月命日でしたね。
ここのお部屋には仏壇が置けないので、写真立てにお父さんの写真を入れて、窓辺に置いています。海の見える指二本ぶんのすきまの、ちょうど手前です。お父さんは海が好きだったから。
宮下さんが、「優しそうなご主人ね」とおっしゃいました。ええ、優しい人でした、とお答えしました。あなたは違う意見かもしれないけれど。
お父さんが会社で係長になれなかったとき、母が人事の方にお手紙を書いたこと、あなたは「お父さんが恥をかいた」と言って泣きましたね。でも、あれは、お父さんの上司の方が経費をごまかしていたことを、母が知っていたから書いたのです。正しいことでしょう。その上司の方は地方に移られて、お父さんは翌年、係長になりました。お父さんは、何も、一言も、言いませんでした。何も言わずに、ずっと母のそばにいてくれました。
晩年、お父さんは、夜中によく目を覚まして、台所で一人でお茶を飲んでいました。母が起きていくと、「なんでもない」と言って寝室に戻るの。最後の入院のときには、検査の結果を妻には知らせないでほしいと、看護師さんに頼んでいたそうです。でも、母は、ちゃんと知りました。看護師さんのお一人が、夜勤の日にカルテを置きっぱなしにすることを、母は気づいていましたから。夫婦に隠し事はいけません。母はそれから、毎日、面会時間のはじめから終わりまで、そばにいてあげました。
お父さんは、最後の三週間、ほとんど口をききませんでした。お医者さまは薬のせいだとおっしゃいましたけれど、母が帰ったあとは、看護師さんと少しお話ししていたそうです。何を話していたのか、とうとう誰も教えてくれませんでした。それだけが、いまでも少し気がかりです。
宮下さんは、毎晩、引き出しから古い写真を出して眺めています。息子さんの、ランドセル姿の写真です。
母より
*
由美子へ
先月のお手紙のことで、会社の方から「ご本人はもう退職されております」とお電話がありました。あなた、お仕事をやめたの? 何かあったのなら、どうして母に相談してくれないの。
こちらは、宮下さんの件が片づきました。
宮下さんがあんまり寂しそうなので、わたし、息子さんにお手紙を書いたのです。住所は、宮下さんの引き出しの、年賀状の束から写させていただきました。お母さまは毎晩、あなたの小さいころの写真を見て泣いています、この施設は人手が足りず、お母さまに十分な目が届いていません、と。少し大げさに書いたかもしれないけれど。
息子さんは、すぐに飛んでいらっしゃいました。そして、施設長さんと長いお話をして、宮下さんを東京の近くの施設に移すことに決めたそうです。宮下さんは、本当はここの海が好きだったのですって。お部屋を出るとき、宮下さんは泣いていました。わたしは、うれし泣きだと思うことにしています。
宮下さんは、廊下で一度だけ振り返って、わたしに何かおっしゃいました。声が小さくて、聞き取れませんでした。気づき帳には「宮下さん、何か言う(不明)」と書いておきました。わからないことは、わからないと書くのが、正しい記録ですからね。息子さんは、わたしに深々と頭を下げて、「母に気づいてくださって、ありがとうございました」とおっしゃいました。
母より
*
由美子へ
ミホちゃんが、ここをやめました。
宮下さんの息子さんにお手紙を書いたとき、ついでに、ミホちゃんが入居者さんに「早くして」ときつい声を出していたことも書いておいたの。気づき帳に、ちゃんと日付も書いてありましたから。あの日は、夜勤明けでそのまま日勤に入っていたそうだけれど、それは言い訳になりませんものね。
ミホちゃん、最後の日にわたしの部屋に来て、あのハンドクリームの缶を、枕元にそっと置いていきました。お礼も言わずに。中身は、少しも減っていませんでした。
若い人は、そういうところがいけないわね。
母より
*
由美子へ
二人部屋は、いま、わたし一人です。新しい方は、なかなか入らないの。職員さんたちも、なんだかよそよそしくなりました。食堂でわたしが座ると、隣の席の方がお盆を持って移っていきます。皆さん、わたしが何でも気づいてしまうのが、少し怖いのかもしれませんね。
でも、それは仕方のないことです。見て見ぬふりをする人ばかりだから、世の中は悪くなるのです。お父さんも、よくそう言ってくれました。お前は正しい、お前みたいな人がいないと困る、って。
あなたは、いつもその反対でしたね。
あなたが十四のとき、母があなたの日記を担任の先生にお見せしたこと、まだ怒っているのかしら。でも、あれは母が正しかったのよ。あの日記には、あの男の子と夜の公園で会っていることや、母が嫌いだということや、家を出たいということが書いてありました。机の引き出しの奥の、教科書の箱の下に隠してありましたね。先生にお見せして、相手の男の子のおうちにもお伝えして、それで、ちゃんと縁が切れたでしょう。あなたは三日もご飯を食べなかったけれど、四日目には食べました。人は、そういうふうにできているのです。
そのあとも、アパートの大家さんにも、あちらのお母さまにも、母はちゃんとお伝えしておいたでしょう。隠し事のある暮らしは、うまくいきませんから。
由美子。あなたは昔から、隠し事をする子でした。
母より
*
由美子へ
このお手紙は、新しいご住所に送ります。届くのは、これがはじめてね。
施設長さんが、教えてくださったの。あなた、毎月の費用の振込みのことで、施設にご連絡をくださっていたのですってね。母には黙っていてほしい、とあなたがおっしゃったそうだけれど、施設長さんは、わたしの気づき帳を一度ご覧になってから、とても親切になってくださいました。夜勤の方が足りない日のことや、お薬の数え間違いのことや、施設長さんが事務室でなさっていたお電話のことなど、わたしは、たくさん書きとめていましたから。施設長さんはお顔を白くして、メモ用紙に、あなたの住所を書いてくださいました。
北のほうの、海に近い町なのですね。そちらからも、海が見えますか。母のところより、たくさん見えるといいわね。
お仕事をやめて、名字も変えて、暮らしているのね。施設長さんは、そこまで教えてくださいました。どうして、と思ったけれど、母はもう責めません。
でも、隠し事は、よくないの。
駅から歩いて十五分の、坂の上のアパートね。施設長さんが、事務室のパソコンで見せてくださいました。一階に大家さんが住んでいらして、近くに小さな郵便局と、パン屋さんがあるのね。あなた、昔から甘いパンが好きだったから、きっと通っているのでしょう。
外出の許可は、もういただきました。施設長さんが、タクシーと特急の切符の手配までしてくださるそうです。ゆっくりしていらしてください、なんなら、ずっとでも、とおっしゃいました。来週の木曜日、お昼すぎには着くと思います。
気づき帳は、新しいのをおろしました。最初のページには、あなたの住所を書いてあります。
母より
追伸 パン屋さんと大家さんには、もうお手紙を出しておきました。娘がいつもお世話になっています、少し隠し事の多い子ですけれど、よろしくお願いします、って。
了