書き下ろしイヤミス

完治報告

約4,635字 読了目安 約9分 2026年10月28日 公開

最初の投稿は、小児病棟の自動販売機の前で打った。紙コップのココアが冷めていくのを見ながら、沙織は何度も文章を消しては書き直した。

〈娘のひよりは五歳です。全国でも数十人しかいない筋肉の難病と診断されました。海外で承認された治療薬がありますが、日本では保険が使えず、費用は一億六千万円かかります。どうか、ひよりに力を貸してください〉

送信ボタンを押した指が震えていた。誰にも届かないと思っていた。

届いた先のことは、考えていなかった。

三日後、知らない男性からメッセージが来た。寺内と名乗るその人は、以前にも別の子どもの募金活動を手伝ったことがあるといい、「お母さん一人で抱えないでください」と書いていた。翌週には「ひよりちゃんを救う会」ができ、駅前に募金箱が並び、地元の新聞が記事にした。寺内は六十代の元信用金庫職員で、どんな場でも声を荒げなかった。

「大事なのはね、透明性です」と、最初の打ち合わせで寺内は言った。「皆さんのお金をお預かりするんですから、ひよりちゃんの様子はできるだけ毎日、報告してあげてください。それが支援者さんへの一番のお礼になります」

沙織は頷いた。お礼なら、いくらでもしたかった。

その夜、病室に戻ると、ひよりは目を覚ましていた。首から下がほとんど動かない娘は、天井の染みを指さすかわりに、目だけでそこを示した。

「あれ、うさぎ」

「そうだね、うさぎだね」

「ママ、だれとおはなししてたの」

「ひよりを応援してくれる人たち」

ひよりは少し考えて、「おうえんって、運動会のやつ?」と聞いた。保育園の運動会を、ひよりは窓から見たことしかなかった。そうだよ、と沙織は言った。みんながひよりに、がんばれって言ってくれるの。ひよりは満足そうに目を閉じた。

毎晩、ひよりが眠ったあとに投稿した。点滴の数、食べられたゼリーの量、リハビリで指が何センチ動いたか。〈今日はスプーンを自分で握れました〉と書けば、たくさんの「いいね」と、〈ひよりちゃん頑張れ〉〈応援してます〉というコメントがついた。知らない人たちの言葉が、夜の病室の暗さを少しずつ薄めてくれた。

募金は半年で目標額に届いた。報告の動画を撮りながら、沙織は声を詰まらせた。寺内は「皆さんの善意の勝利です」とコメントした。

治療は成功した。

そう言い切ってしまうのが怖いくらい、ひよりは回復した。投与から三か月で寝返りを打ち、半年で伝い歩きを始め、一年後には病院の廊下を、看護師を追いかけて走った。主治医は「ここまで反応がいい例は珍しい」と言い、カルテから顔を上げて笑った。

沙織はその日、走るひよりの動画を投稿した。十五秒の、手ぶれのひどい動画だった。

〈皆さんのおかげです。ひよりが、走りました〉

コメントはいつもの何倍もついた。〈奇跡!〉〈おめでとう!〉。その中に、ひとつだけ色の違う言葉が混じっていた。

〈え、普通に走ってる。一億いったの、これ?〉

沙織は少し笑って、その書き込みを読み流した。そういう人もいる。たったひとつだ。

たったひとつは、ひと月で数十になった。

〈完治したなら余ったお金はどうなるの〉〈本当に重症だったの? 最初の写真と顔色違いすぎ〉〈お母さんのネイル、きれいですね〉

ネイルは、退院の日に友人が「ずっと頑張ってきたんだから」と塗ってくれたものだった。ひよりと手をつないだ写真に、それが写り込んでいた。

沙織は説明の投稿をした。余剰金は会の規約どおり、同じ病気の子を支える団体に寄付すること。診断書の一部も、個人情報を伏せて公開した。説明すればするほど、それは引用され、切り取られ、〈必死すぎて逆に怪しい〉と書かれた。

寺内から電話があったのは、その頃だった。

「お母さん、お気持ちはわかります。でもね、反論はいけません」穏やかな声だった。「支援者さんの中には、ご自分も苦しい中から千円、二千円を出してくださった方がいる。そういう方が、元気なひよりちゃんを見て、ふと複雑な気持ちになる。それは責められないでしょう」

「でも、元気になったんです。元気になるために、皆さんが……」

「ええ、ええ。だから、配慮です」寺内は少し間を置いた。「たとえば、ネイルの写真ですとか、外食ですとか。誤解を招くものは控えたほうがいい。透明性というのは、何でも見せることじゃないんです。安心していただける形でお見せすることです」

それから寺内は、ふと懐かしむような声になった。

「前にお手伝いした子はね、最後までご立派でした。最後の日まで、皆さんにありがとうって」

電話を切ってから、沙織は過去の投稿を見返した。ファミレスでお子様ランチを食べるひより。誕生日のケーキ。新しいスニーカー。どれも、喜んでもらえると思って載せたものだった。

その夜、沙織は三十件あまりの投稿を非公開にした。

ひよりは小学校に上がった。

入学式の写真は、校門の前で、ひよりの顔にスタンプを押して投稿した。ランドセルは祖母のお下がりだと書き添えた。本当は新品だった。

コメント欄は、少し静かになった。〈ひよりちゃん、おめでとう〉〈ずっと応援してます〉。寺内からは〈良い報告ですね〉と短いメッセージが来た。

五月に運動会があった。

ひよりは学年のリレーの選手に選ばれた、と目を輝かせて帰ってきた。クラスで三番目に速いのだという。沙織は娘を抱きしめ、それから、自分でも驚くほど早く、別のことを考えた。運動会には保護者が大勢来る。皆、スマートフォンを持っている。

「ひより、リレー、ほかの子に代わってもらおうか」

ひよりはきょとんとした。

「なんで」

「……まだ、体に負担がかかるかもしれないから」

主治医からは、運動の制限は何も言われていなかった。ひよりはそれを知らない。

その夜、布団の中で、ひよりは長いあいだ黙っていた。泣くかもしれない、と沙織は思った。泣いてくれたら、撤回できる気がした。

けれどひよりは、天井を見たまま、小さな声で言った。

「わかった。ひより、ちゃんとがまんする」

それから、沙織の手を探して握った。

「がまんしたら、みんな、よろこぶ?」

沙織は「うん」と言った。言ってから、何に頷いたのか、自分でもわからなかった。

翌日、沙織は担任に電話をかけ、主治医の名前を出して、リレーの辞退を申し出た。担任は気の毒そうに「わかりました」と言った。

運動会の日、ひよりは玉入れにだけ出た。沙織は観覧席から、ゆっくりと腕を振る娘の写真を撮り、〈無理のない範囲で参加しました〉と投稿した。

帰り道、ひよりが聞いた。

「ママ、ひより、きょう、おうえんしてもらえた?」

沙織はスマートフォンを開いて見せた。〈無理しないでね〉〈ひよりちゃんのペースでいいんだよ〉〈応援してるよ〉。久しぶりに、温かい言葉だけが並んでいた。ひよりは画面を指でなぞり、読める字だけを声に出して、うれしそうに笑った。

沙織はその夜、布団の中で、何度もそれをスクロールした。指先が、ずっと冷たかった。

夏休み、近所の公園で、ひよりは同じクラスの子たちと鬼ごっこをしていた。沙織はベンチでそれを見ていた。あんなに走れる。あんなに笑える。胸がいっぱいになって、スマートフォンを取り出しかけ、やめた。

「ひよりちゃんのお母さんですよね」

声をかけてきたのは、日傘をさした四十代くらいの女性だった。上品な麻のワンピースを着ていた。

「ずっと応援してたんです。少しだけど、募金もさせていただいて。本当によかった。あんなに走って」

女性は胸の前で手を組み、心から嬉しそうに言った。沙織は立ち上がり、深く頭を下げた。この人は善い人だ、と思った。

その夜、女性のアカウントに、公園で全力疾走するひよりの写真が上がった。顔にはスタンプが押してあった。

〈近所の公園で偶然!ひよりちゃん、こんなに走れるように!募金して本当によかった〉

それを、知らない誰かが引用した。

〈リレーは辞退したらしいけど?〉

引用は一晩で、何千回と拡散された。着ているTシャツが以前の投稿と同じだと、誰かが並べて示した。沙織のアカウントには、新しい種類の言葉が届くようになった。〈病弱アピールで同情集め〉〈子どもを使ってまだ稼ぐ気か〉。誰かが沙織の勤め先を書き込み、誰かがそれを「特定は良くない」とたしなめ、たしなめた投稿にもたくさんの「いいね」がついた。

日傘の女性は、翌朝、元の投稿を消した。〈軽率でした。ひよりちゃんとお母さんを傷つけるつもりはありませんでした〉という謝罪だけが残り、その謝罪には〈あなたは悪くない〉〈優しい人〉という言葉が集まった。

翌週、職場の給湯室で、同僚の女性が気まずそうに声をかけてきた。

「大変だったね。ああいうの、気にしないほうがいいよ」

ありがとう、と沙織が言いかけると、同僚は続けた。

「でもさ、ちょっとだけ、言われてもしょうがないとこ、あったかもね。あんなにお金集めたんだし。わたしも三千円、出したしさ」

同僚は冗談めかして笑い、マグカップを持って出ていった。沙織はシンクの前に立ったまま、蛇口から落ちる水滴を数えた。三千円。その三千円が、ひよりの足のどこかに、まだ埋まっているような気がした。

寺内からの電話は短かった。

「残念です。皆さんの善意を裏切るようなことは、なさらないでください」

「裏切ってなんか」

「お母さん」寺内の声は、最初に会った日と少しも変わらなかった。「僕たちはね、ひよりちゃんを救ったんですよ。皆で。そのことを、忘れないでいただきたい」

秋が来た。

沙織は、ひよりの手を引いて歩くようになった。登校のときも、買い物のときも。

「外ではね、ゆっくり歩こうね」

「なんで?」

「みんなが、心配するから」

ひよりは少し考えて、「みんなって、ひよりにお金くれた人?」と聞いた。沙織は答えなかった。答えなかったことが、答えになった。

病室で長く過ごした子どもは、大人の顔色を読むのが早い。それきり、ひよりは外ではけっして走らなくなった。横断歩道で信号が点滅しはじめても、母親の手を握ったまま、一歩ずつ足を運んだ。

十月、沙織はひよりと並んで、病院の前で写真を撮った。定期検診の日だった。ひよりは何も言われないうちに母親の腕にもたれかかり、少し疲れたような顔をしてみせた。

投稿には、こう書いた。

〈定期検診でした。まだまだ経過観察が続きます。焦らず、ゆっくり。どうか、これからもひよりに力を貸してください〉

嘘は一つも書いていなかった。経過観察は、たしかに続いていた。

コメント欄が、温かい言葉で埋まっていく。〈ひよりちゃん、えらいね〉〈お母さんも無理しないで〉〈ずっと応援してます〉。寺内からも、ひさしぶりにメッセージが来た。

〈最近の投稿、皆さん安心しておられますよ。これが一番いい形です〉

帰りのバスで、隣に座ったおばあさんがひよりに話しかけた。

「お嬢ちゃん、どこか悪いの」

ひよりは窓の外を見たまま、ほんの少し、膝をさするような仕草をした。

「ちょっとだけ」

そうして、おばあさんの方を向いて、にこりと笑った。病院で、何百人もの大人に向けてきた笑顔だった。

「でも、みんなのおうえんのおかげで、がんばれてます」

おばあさんは目を細め、バッグから飴玉を取り出してひよりの手に握らせた。ひよりはそれを、両手で大事そうに受け取った。

バスが揺れた。ひよりが、沙織の耳もとに口を寄せた。

「ママ、いまの、じょうずだった?」

「うん」

沙織は娘の頭を撫でた。窓ガラスに映る自分の顔が、ほっとしたように緩んでいるのを、沙織は見た。

了