書き下ろし感動

行っておいで

約4,588字 読了目安 約9分 2026年10月28日 公開

娘が、私の覚えていない昔話をした。

「パパ、私が小さい頃、公園まで迎えに来てくれたことあったよね」

大学生になった真帆が、久しぶりに帰ってきた夜だった。

「何度もあるだろ」

「そうじゃなくて。友達と遊んでて、帰る時間を忘れちゃったとき。絶対怒られると思ったのに、パパ、全然怒らなかったの。なんか、すごく嬉しそうだった。変でしょ」

食器を片づけながら、妻が言った。

「あなた、真帆を迎えに行くの好きだったものね。私が行こうとすると、いつも自分が行くって」

「それは心配だからだろ」

「そういうことにしておきましょう」

妻が笑い、私は苦笑いした。

真帆が小さかった頃は、休みのたびに公園へ連れていった。ブランコを押したことも、ボールを投げたことも、帰りたがらない娘をなだめたことも覚えている。けれど、どの日に何をしたかとなると、ほとんど思い出せない。

「で、何がそんなに嬉しそうだったんだ」

「知らないよ。でも、あの日のことは結構覚えてる。パパが迎えに来てくれたから。それだけ」

真帆は笑って、アルバイト先であった話を始めた。公園の話は、それきりだった。

真帆が大学に進んで家を出てから、休日が静かになった。

小さい頃は、朝からどこかへ連れていけとせがまれた。仕事で疲れている日の公園は、正直に言えば面倒だった。炎天下でブランコを押しつづけながら、早く帰ってビールを飲みたいと思っていた。そのうち娘には友達ができ、中学では休日を友達と過ごすようになり、高校に入ると私を誘うことはほとんどなくなった。

私は楽になった。思っていたほど、自分の時間に使い道はなかった。

大学生の娘からは、ときどき電話が来た。パソコンが壊れた。旅先でレンタカーを借りたい。相談されると私は張り切り、調べすぎて呆れられた。

「パパ、そこまで聞いてないよ。でも、ありがとう」

その一言が嬉しかった。

ある夜の電話では、バイト先の先輩の話と、友達の恋愛相談の話を聞かされ、気づけば三十分経っていた。

「で、何か用だったのか」

「別に。暇だったから。用事なきゃ電話しちゃだめ?」

「そんなことないよ」

「じゃあ、また電話するね」

通話が切れた。携帯をテーブルに置き、少しして、もう一度手に取った。

「真帆? 何だって?」

「暇だったらしい」

「よかったじゃない」

妻が台所から言った。私はうなずいた。

五十六歳の春、私は入院した。

はじめは数日で帰れると思っていた。検査が増え、医師と話す時間が長くなり、いつの間にか退院の予定が立たなくなった。妻は何度も医師に質問した。私は仕事の引き継ぎと、家のことを考えていた。娘の学費は残りも何とかなる。家のローンは終わっている。何度確かめても、翌日にはまた同じことが気になった。

真帆は授業が終わると、見舞いに来てくれた。

「何か欲しいものある?」

「病院の飯がもう少しうまければな」

「それは無理だよ」

その日は、友達と金沢に旅行する予定の話をしてくれた。

「パパ、行ったことある? おすすめある?」

「仕事で何度か。駅の近くに、魚のうまい店があったんだけどな」

「何ていう店?」

「忘れた」

「全然参考にならないじゃん。莉子と行くんだよ。小学校からずっと仲いいの」

真帆はスマートフォンで、行く予定の店を見せてくれた。知らない街の写真が並んでいた。娘は楽しそうに一つずつ説明し、私はそれを一つずつ眺めた。

「じゃあ、また来るね。旅行の写真、見せるから」

真帆が帰ったあと、私は金沢の店を調べた。それらしい店は見つかったが、評判があまりよくなかったので、送るのはやめた。

数日後、医師が妻を廊下に呼んだ。戻ってきた妻は、椅子をベッドのそばに寄せた。

「今日はここにいていいんだって。仕事は休みにしたから。いいのよ」

妻は鞄から携帯の充電器を出し、コンセントを探してきょろきょろした。私はベッドの脇を指さした。しばらく二人でテレビを見たが、中身はほとんど頭に入らなかった。テレビを消すと、部屋は急に静かになった。

「真帆には?」

「連絡したよ。明日、授業が終わったら来るって」

「無理しなくていいのにな」

妻は何も言わなかった。結婚した頃より、目尻の皺が増えていた。

「真帆、ちゃんとやっていけるかな」

「大丈夫でしょ。あの子、あなたが思ってるよりしっかりしてるよ」

妻が私の手を取った。私も握り返した。

夜中、看護師が何度か部屋に来た。妻はそのたびに起き上がった。

「寝てていいよ」

「あなたもね」

目を閉じた。しばらくして、妻が何か話しかけた気がした。聞き返そうとしたが、うまく声が出なかった。手を握られている感触だけが残っていた。

「パパ、早く!」

目を開けると、娘がいた。黄色い帽子をかぶり、小さな水筒を肩から下げている。

「公園、行くんでしょ」

真帆は九歳くらいだった。前歯が一本抜けていて、前髪の右側だけが短い。自分で切って、妻に叱られたのだ。

自分の手を見た。病室で見ていた手とは違った。手の甲にあった小さな染みがない。立ち上がると、体が軽かった。

自宅の玄関だった。下駄箱の上に、妻が昔使っていた鍵入れがある。何年も前に壊れて捨てたはずのものだ。居間のほうから、食器の触れ合う音がした。

頬をつねった。痛かった。

「パパ、何してるの。変なの」

真帆が笑った。私は手を下ろした。

「行こうか」

玄関を出ると、真帆は当たり前のように手を出してきた。握ると、「痛い!」と言われた。力を緩めた。小さな手だった。指先が少し汗ばんでいた。

公園までの道、真帆はずっとしゃべっていた。学校で飼っているウサギのこと。友達が消しゴムをなくしたこと。給食に嫌いなおかずが出たこと。私はほとんど返事ができなかった。

交差点の角に、昔よく通ったパン屋があった。何年も前に閉店したはずの店だった。ガラス戸の向こうに、店員の姿が見えた。足が止まった。

「パパ、青だよ」

娘に手を引かれて、横断歩道を渡った。

公園に着くと、真帆はブランコに走っていった。私は携帯を出した。ずっと前に使っていた機種だった。画面の日付は、十年以上前の日曜日を示していた。

「パパ! 押してってば!」

私は携帯をしまい、娘の背中を押した。

「もっと!」

「危ないぞ」

「大丈夫!」

そのうち真帆は、一人で漕ぎはじめた。

「見て、パパ!」

「見てるよ」

夢なのか、過去なのか。考えても、わからなかった。ただ、鎖の軋む音も、娘の笑い声も、はっきり聞こえた。もう一度携帯を出しかけて、やめた。

広場でボールを投げ、滑り台にも付き合った。真帆が転んだので駆け寄ったが、娘は自分で立ち上がり、膝の砂を払ってまた走っていった。

昼過ぎ、二人でベンチに座った。真帆は自販機で買ったオレンジジュースを飲んでいた。

「パパも一口飲む?」

ストローをくわえると、少しぬるかった。

「おいしい?」

「ああ」

「本当?」

「本当だよ」

真帆は満足そうに笑った。少し日焼けした頬。汗で額に張りついた髪。笑うと、抜けた前歯のところに隙間ができる。こんな顔をしていたのか。私はもう一度、娘を見た。

「あっ、莉子ちゃん!」

真帆が立ち上がった。広場の向こうで、女の子が二人、手を振っていた。

「パパ、莉子ちゃんたちと遊んできていい?」

「いいよ。四時半に、ここへ戻っておいで。遠くには行くなよ」

「はーい」

真帆は走り出し、途中で振り返った。

「パパは何してるの? つまんなくない?」

「大丈夫。ちょうど休みたかったところだ」

「そっか!」

娘は笑って、友達のところへ走っていった。私は手を振り、真帆が向こうを向いてから手を下ろした。三人は何か相談して、広場の向こうへ駆けていった。さっきまで隣にいた娘が、もうあんなに遠くにいる。呼べば、きっと戻ってくるだろう。私は飲みかけのジュースを片づけた。

三時を過ぎた頃、一度だけ真帆が戻ってきた。水筒が空になったというので、スポーツドリンクを買ってやった。

「一気に飲むなよ」

「わかってる! パパ、まだいる?」

「四時半まではな」

「じゃあ、またあとでね!」

「ああ。行っておいで」

真帆は走っていった。私はその後ろ姿を見ていた。

大学生の娘が、病室で旅行の話をしていた。あのとき、もう少しちゃんと聞いてやればよかった。もっとも、娘のほうは十分話したつもりだったかもしれない。今朝から聞いた話を思い返した。ウサギのこと。消しゴムのこと。給食のこと。ほかに何を話していただろう。思い出そうとしていると、遠くで娘の笑い声がした。

四時半を過ぎても、真帆は戻ってこなかった。

広場に娘の姿はなかった。奥の遊具まで歩き、植え込みの向こうを覗いた。いない。

「真帆!」

返事はなかった。何度も来た公園なのに、知らない通路があった。足を速めた。

そのとき、大学生の娘の言葉がよみがえった。パパが迎えに来てくれたの。

そうだった。私はこの日、娘を迎えに行ったのだ。真帆は無事に大人になる。大学に進み、莉子ちゃんと旅行に行く。それは知っている。でも、今どこにいるのかはわからない。私は通路を抜けた。

三人は、広場の隅で遊んでいた。

「真帆」

「あっ、パパ! ごめん、時間忘れてた! 莉子ちゃんたちとかくれんぼしてたの」

「楽しかったか?」

「うん! パパもやる?」

私は少し笑った。

「もう帰る時間だよ」

真帆は残念そうに友達を見た。時計は五時近かった。

「一回だけなら、付き合うよ」

「本当?」

真帆は友達のところへ走っていった。

「パパもやるって!」

私が鬼になった。木の幹に顔を向けて、ゆっくり十まで数えた。振り返ると、子どもたちの姿はなかった。遊具の裏を回り、植え込みの隙間を覗いて、一人見つけた。二人目も見つけた。真帆だけが、なかなか見つからなかった。

「真帆!」

どこかで笑う声がした。声のするほうへ歩くと、滑り台の裏から娘が顔を出した。

「あー、見つかっちゃった!」

「やっと見つけた」

真帆は笑いながら走ってきた。差し出された手を、私は握った。

「じゃあ、帰ろうか」

「うん! また明日ね!」

娘は友達に手を振った。

公園を出ると、夕方の風が吹いていた。

「パパ、ごめんね。時間、忘れちゃって」

「今度からは、遅くなる前に一度戻っておいで」

「わかった」

少し歩いてから、真帆が私を見上げた。

「パパ。迎えに来てくれて、ありがとう」

「どういたしまして」

娘は笑った。

「何で笑ってるの?」

「何でもないよ」

「変なの」

真帆はもう一度笑った。私はその顔を見ていた。

「パパ、またかくれんぼしようね。今度はもっと難しいところに隠れるから。絶対見つからないところ、知ってるんだよ。今度教えてあげる」

「教えたら隠れられないだろ」

「あ、そっか」

二人で笑った。

交差点の手前で、信号が赤になった。真帆はつないだ手を握り直した。小さな手だった。

病室で妻が握っていた手を思い出した。妻は、あのあとどうしているだろう。真帆は明日も大学に行くだろうか。莉子ちゃんと旅行に行くのだろうか。

真帆は横断歩道の向こうを眺めていた。

「パパ、今日、楽しかったね。また来週も公園行こうね」

「そうだな」

信号が青になった。

「パパ、青だよ」

私たちは歩き出した。渡っている途中で、真帆が何かを思い出したように言った。

「ねえ、パパ。明日はね、学校でウサギのお世話するんだよ。それでね」

真帆は話しはじめた。私は娘の歩幅に合わせた。途中で手を持ち替えようとすると、真帆は一度だけ指を緩めた。

けれど、離さなかった。

家に着くまで、ずっと。

了