いつもの朝
妻の名前を間違えそうになった。
「コーヒー、飲む?」
台所から声がした。
「ああ、頼む」
誠一は妻の背中を見た。早苗とは結婚して十九年になる。コーヒーを淹れる前に必ず換気扇を回す癖も、とうに見慣れていた。
昨日まで一緒に暮らしていた妻は、真由美という名前だった。真由美は朝、紅茶を飲む。カップの縁に口紅が残るのを嫌って、出かける前には必ず洗っていた。十七年一緒に暮らし、息子が二人いた。上は大学生、下は高校の陸上部だった。
最後に見たのは、真由美が夕飯の残りを保存容器に移しているところだった。
「明日のお昼、これ食べちゃっていい?」
「いいよ」
「じゃあ、あなたは外で食べてね」
そこで、その人生は終わった。次に目を開けると白い天井があり、医師がいて、誠一は四十五歳の会社経営者に戻っていた。
「砂糖、一杯でいい?」
「ああ」
カップを受け取りながら、誠一は思った。真由美は、あの残りものを食べただろうか。体験を終えると、向こうの時間は止まるらしい。再開すれば、あの夜の続きから始まる。それなら真由美にとっては、まだ昨日の夜なのだ。
「どうだった? 昨日の、別の人生」
早苗が向かいに座った。
「面白かったよ。会社員でさ。結婚して、子どもが二人いて」
「へえ。奥さんは? 私より美人?」
「そういう比べ方をするもんじゃないだろ」
「だって気になるじゃない」
誠一も笑った。真由美が美人だったかどうか、考えたことがないわけではない。ただ、十七年連れ添った妻の顔を、いまさら誰かと比べる気にはなれなかった。
*
人工人生の体験は、まだ金持ちにしか手の届かないサービスだった。脳に埋めこんだ装置を通して、人工的に組み立てられた人生を生きる。体験中はもとの人生の記憶が遮断され、本人にはそれが唯一の現実になる。終われば記憶は戻り、人工の人生で経験したことも残る。
数時間の処置で何十年分も生きられる、という触れこみだった。実際には日々の大半が省かれ、記憶として補われるらしい。そのことを、誠一は医師に聞いたことがある。
「それだと、実際には生きていない時間もあるわけですよね。それなのに、本人は生きたと思っている。どこまでが本当の経験なんですか」
「高瀬さんは、十年前の旅行で食べた夕食を、全部覚えていらっしゃいますか」
「いや」
「でも、旅行に行ったことは疑わないでしょう。感覚としては、それに近いものです」
わかったような、わからないような説明だった。料金が高いことと、脳への処置に危険があることはよくわかった。誠一は契約前に資料を全部読んだ。起業したときも、新しい事業に投資したときも、失敗の可能性はあった。危険を調べたうえで、引き受けるかどうかを決める。それが誠一のやり方だった。
早苗に話したのは、申し込みを済ませてからだった。
「脳に装置を入れるの? 危なくないの?」
「危険はある。でも検査も受けたし、説明も聞いた」
「そんなことまでして、別の人生を生きたい? 今の人生に不満でもあるの?」
「ないよ」
本当だった。自分で興して二十年近く育ててきた会社は順調だった。早苗との仲も悪くない。十四歳の娘の遥は、近ごろ父親と出かけることこそ減ったが、夕飯の席では学校や部活の話をしてくれる。十分に恵まれていると思っていた。
「だったら、どうして」
「一回しかないからじゃないかな。人生が」
早苗は少し考えた。
「一回でよくない?」
誠一には意外な答えだった。誰にだって、選ばなかった人生がある。別の仕事に就いていたら。違う街で暮らしていたら。あのとき、別の相手と一緒になっていたら。今に満足していても、一度くらい確かめたくなるものではないか。
「私は今ので十分かな」
早苗はそう言って、洗濯物を畳み始めた。
*
真由美との人生は、保存してもらった。追加の料金を払えば、あの夜の続きから再開できる。息子たちが結婚するところも見たかったし、真由美と年を取ってみたかった。誠一は迷わず契約した。ただ、次の体験までは一定の期間を空けなければならない。
そのあいだ、いつもどおりに暮らした。会社へ行き、取引先と会い、帰って家族と夕飯を食べた。真由美を思い出す日はあったが、早苗への気持ちが減ったわけではない。どちらの妻も愛していた。ただ、一度に一人としか暮らせない。それだけのことだった。
ある日曜日、早苗が古いアルバムを整理していた。大学時代の集合写真に、誠一の知らない若い男女が十人ほど写っていた。
「この頃、海外で働こうと思ってたんだよね。最終面接まで行って、落ちちゃった。この子は受かって、今でも向こうにいるの」
「じゃあ、受かってたら今頃海外だったかもな。気にならない?」
「そりゃ、たまには考えるよ」
「だったら、あの装置で試してみればいいじゃないか」
早苗は首を振った。
「もし、そっちの人生のほうが楽しかったら嫌じゃない。知っちゃったら、気になると思うんだよね。逆にすごく不幸だったら、今の人生でよかったって安心すると思う。でも、それもちょっと嫌かな」
「何で」
早苗は少し笑った。
「別の私が不幸なところを見なくても、今がよかったって思ってるから」
誠一は写真の中の若い早苗を見た。海外で働いていたら、どんな人生になっていただろう。少し、見てみたかった。
*
二度目に選んだのは、現実とほとんど同じ人生だった。妻は早苗、娘は遥。会社も同じ。変えたのは、娘が生まれた頃の働き方だけだった。
当時の誠一は会社を大きくするために、朝早く出て夜遅く帰り、休日も取引先との付き合いに出ていた。早苗には苦労をかけたと思っている。だが、あの時期があったから今の会社がある。後悔していたわけではない。ただ、少し気になっていた。あの頃、もっと家にいたら。
人工の人生で、誠一は早くから社員に仕事を任せた。最初は失敗もした。取引先を一つ失い、売上が予定に届かない年もあった。それでも会社は持ち直した。誠一は夕方には家に帰り、遥を風呂に入れ、寝かしつけた。休日は三人で公園に行った。二歳の遥は、玄関の開く音を聞くと走ってきた。
「パパ!」
抱き上げると、娘は肩に頬を押しつけた。
会社は現実ほど大きくならなかったが、十分な利益を出していた。早苗は遠慮なく頼み事をするようになり、遥は中学生になっても父親によく話しかけた。現実の家庭が不幸だったわけではない。ただ、こちらのほうが少しだけ居心地がよかった。
帰ってきた誠一は、その「少し」が気になった。幹部をもっと早く育てていたら。投資の時期を変えていたら。会社を大きくしながら、家族との時間も増やせたのではないか。
三度目の予約を入れた。
*
三度目の人生では、会社は現実より大きくなった。幹部の登用を早め、投資の時期を変え、家族との時間も減らさなかった。辞めていく社員はいたし、早苗と言い争う夜もあった。それでも四十五歳の誠一は満足していた。
その人生の遥は、ピアノが好きだった。小学生の頃から習い、中学に入っても続けていた。誠一は発表会に行くのが楽しみだった。ある年、遥は難しい曲を弾き、途中で一度だけ音を外したが、最後まで弾ききった。
「途中、間違えた」
「わかったよ。でも、よかったと思う」
「適当だなあ」
遥は笑った。
帰ってから、誠一はその曲を探した。同じ曲の演奏動画はいくつも見つかった。どれも違った。遥は終わり近くで少し走る癖があって、早苗にいつも注意されていた。客席の隣で、最後の音を聴いた早苗が小さくうなずいたことまで覚えていた。
現実の遥は、ピアノを習っていない。バスケットボールをしている。誠一はどちらの娘も愛していた。ただ、あの曲をもう一度、遥の指で聴きたかった。
その人生も保存してもらった。担当者に聞かれた。
「次回は、こちらの人生を続けられますか。それとも、別の分岐をお作りしますか」
もう一度、あの娘に会いたかった。けれど、別のことも気になっていた。会社がもっと伸びていたら。遥がピアノでなくバスケットボールを選んでいたら。それも悪くない人生になるのではないか。
「別の分岐でお願いします」
*
保存された人生は増えていった。会社を売った人生。海外で暮らした人生。早苗と三年早く出会った人生。早苗と結婚しなかった人生。
早く出会った人生では、遥は生まれなかった。別の娘がいた。誠一はその子も愛していた。誕生日を祝い、初めて自転車に乗れた日のことも覚えている。帰ってきてから、遥のいない人生を幸せだと感じていたことに、妙な後ろめたさを覚えた。それでも、消す気にはなれなかった。あの子がどんな大人になるのか知りたかった。
真由美と息子たちの人生も、まだ残してあった。ときどき、真由美はもう昼を済ませただろうかと思った。再開すれば、あの夜の続きから始まる。わかっていても、気になった。
失敗した人生もあった。会社が潰れたことも、早苗と別れたこともある。そういう人生から帰ると、誠一はほっとした。今の人生でよかった。けれど、うまくいった人生から帰ると、それまで気にもしなかったことが気になった。
*
ある日の夕方、遥が学校から帰ってきた。誠一はリビングで資料を読んでいた。
「おかえり。今日、何かあった?」
「別に」
「学校は」
「普通」
遥は冷蔵庫から炭酸水を出して飲み、ペットボトルを流しの横に置いた。
「今日、早いね」
「会議がなくなったんだ」
「ふうん」
そのまま部屋へ戻っていった。人工の人生の遥なら、もう少し話しただろう。友達のことや、学校であったことを。現実の遥は、あまり話さない。別に不機嫌なわけでもない。
廊下の向こうから、娘が誰かと電話する声が聞こえてきた。楽しそうに笑っていた。前なら、その笑い声を聞いて安心しただろう。今は、何を話しているのかが気になった。
*
役員会で、誠一は新規事業への投資を提案した。数年前に見送った事業だった。人工の人生の一つで、その事業は大きく育っていた。
「今は抑えたほうがいいと思う。市場がまだ読めないし、額が大きすぎる」
野口が言った。誠一より五つ年上で、創業から会社を支えてきた役員だった。反対する理由はよくわかった。誠一も資料は十分に調べ、取引先への聞き取りもしていた。それでも迷いはなかった。その事業が成功したときのことを、覚えていたからだ。新しい事務所の入口に立ったこと。採った社員が初めて大きな契約を取ってきたこと。野口と祝杯を挙げたこと。
「今だから意味があるんです」
誠一は投資を決めた。最初の半年は順調だった。そのあと大口の取引先が契約を見直し、予定していた資金調達も難航した。事業は赤字になった。人工の人生では、その時期を越えたところで売上が跳ね上がっていた。誠一は追加の投資を決めた。現実では、回復しなかった。
一年後、撤退を決めた。社員の賞与は減り、採用の予定も取り消した。誠一は役員たちに頭を下げた。野口は最後まで何も言わなかった。
*
野口が辞めたいと言ってきたのは十二月だった。
「少し、休もうと思う」
「正月休みなら、長めに取ってくださいよ」
「そうじゃなくて」
野口は笑わなかった。
「会社が大変なときに?」
「大変だから、今まで残ってたんだよ」
社員が四人しかいなかった頃から、野口はいた。誠一が資金集めに走り回っているあいだ取引先を回り、給料が払えない月には自分の報酬を削った。初めて年間売上が一億を超えた夜、二人で安い焼肉屋に行った。
「来年は二億だな」
「いや、三億ですよ」
「欲張りだな、お前は」
誠一が真っ先に思い出したのは、その夜のことだった。
「待遇の問題なら、考えます」
「そうじゃないんだ。昔さ、俺たち、よく喧嘩しただろ。夜中まで言い合って。あの頃は面白かったんだよ。どうなるかわからないことを、二人で考えてたから」
誠一は黙っていた。
「最近のお前は、何を言っても、もう答えを知ってるみたいな顔をする。そんなつもりはないんだろうけどな。でも俺には、もう何を話せばいいのかわからない」
野口は退職届を机に置いた。
「長いこと、世話になったな。会社、頼むぞ」
誠一は書類を見た。野口が辞めない人生を知っていた。会社が大きくなり、野口が副社長として経営を支えている人生。あそこでは、二人で何度も笑った。
「考え直してもらえませんか」
「もう決めたんだ」
*
送別会の帰り、野口はタクシーを断り、駅とは反対の方向へ歩いていった。
翌週、誠一は保存した人生の一覧を開いた。野口が会社に残っている人生。予約すれば、また一緒に仕事ができる。予約画面まで進んで、手を止めた。あちらの野口にどれだけ謝っても、こちらの野口には届かない。そんなことは、最初からわかっていた。
画面を閉じて、電話をかけた。
「どうした」
「いや、特に用事はないんですけど。元気にしてます?」
「何だよ、それ。毎日暇だよ」
「よかったら、また飯でも」
「いいよ。年明けにな」
電話を切ってから、誠一は来月の手帳にその約束を書きこんだ。それだけのことが、嬉しかった。
*
その頃、早苗が髪を短くして帰ってきた。肩まであった髪が、耳のあたりまでになっていた。
「どう?」
「似合ってるよ。急にどうしたんだ」
「別に。切りたくなっただけ」
人工の人生では、妻が髪を切った理由をいつも知っていた。友達に勧められたとか、仕事の邪魔になったとか、そういう会話があった。目の前の早苗がなぜ切ったのか、誠一にはわからなかった。結婚して二十年以上経っても、知らないことはいくらでもある。
数日後、早苗が大学時代の友人と食事に出かけ、十時過ぎに帰ってきた。昔の話になったらしい。
「あなた、結婚した頃はほんとに忙しかったもんね。ほとんど家にいなかったでしょ」
「悪かったと思ってるよ」
「急にどうしたの」
「最近、ちょっと考えることがあって」
早苗は冷蔵庫から水を出した。
「でも、あの頃はあの頃で楽しかったよ。大変だったけど。遥が初めて歩いたときとか、あなたがいなかったから、私だけが見られたこともいっぱいあるし。もちろん一緒に見たかったなって思うこともあったけど、今となっては、あれも私の思い出だから」
人工の人生で、誠一は遥が初めて歩いた瞬間を見ていた。二人で手を叩いて喜んだ。あちらのほうがよかったと、ずっと思っていた。だが早苗の覚えているあの日には、自分はいなかった。
「遥、どこまで歩いたの」
「台所からソファまで。三歩くらいだけど。転んで泣いちゃってね。私一人で大騒ぎしたの」
早苗が笑い、誠一も笑った。その場にいなかったことが、少し惜しかった。
*
翌月、医師から利用を控えるよう勧められた。検査で、記憶の混同が進んでいるとわかったのだ。誠一は、現実の旅行と人工の人生での旅行を何度か取り違えていた。遥がピアノを弾いていたと思いこんでいたこともある。
「落ち着いて考えれば、区別はできます」
「今はそうですね。ただ、これ以上続けると、難しくなるかもしれません」
誠一はうなずき、その日は次の予約を入れなかった。
*
半年ほど経った頃、遥の試合を見に行った。高校二年になった遥は、バスケットボール部で練習を続けていた。途中から試合に出た。誠一は客席で動画を撮っていたが、遥がシュートを決めた瞬間に思わず立ち上がり、画面が大きく揺れた。
「肝心なところ、全然映ってないじゃん。もう、ママに撮ってもらう」
「それは困るな」
三人で笑った。ピアノを弾く遥のことを、誠一は思った。次の発表会では何を弾くのだろう。真由美の息子たちは今ごろ何をしているのだろう。それでも、この日の試合は自分の目で見た。画面には映っていなくても、ボールが入った瞬間の娘の顔を覚えていた。
*
会社も落ち着いていった。若い役員たちが意見を出すようになり、誠一も判断を急がず、彼らの話を聞くようになった。早苗は、夫が前より家にいることを喜んだ。
「最近、楽しそうだね。前は、何かずっと考えてるみたいだった」
誠一は笑った。別の人生を忘れたわけではない。真由美にも会いたかった。あの夜の続きを見たかった。ピアノの発表会にも行きたかった。野口と大きな会社をやっている人生も、まだ終わっていない。どの人生にも続きがあった。
誠一はときどき、保存された人生の一覧を眺めた。それから画面を閉じ、翌日の予定を確かめた。
*
施設から新しい案内が届いた。これまで体験した人生の記録を組み合わせて、一つの人生を作れるという。従来より長い期間を体験できるが、脳への負担は大きく、重い後遺症が残るおそれもあった。
会社での判断。早苗との結婚。遥が生まれてからの暮らし。過去に失敗した選択。それらを、自分の知るかぎりいちばんいい形に組み合わせられる。
誠一は資料を何度も読み、申し込まなかった。翌日も、その次の日も。一週間後、施設に電話をかけた。
「最善の人生って、どういう基準で決めるんですか」
「最終的には、お客様ご自身に決めていただきます。会社が大きくなる、ご家族が幸せでいらっしゃる、健康でいらっしゃる。そうした設定は可能です」
誠一は考えた。会社を大きくしても、もっと大きくできたのではないかと思ってしまう。早苗と幸せに暮らしても、もっと違う接し方があったのではないかと考える。遥が楽しそうにしていても、別の環境を与えられたのではないかと思う。どんな条件をそろえても、あとから別の可能性が気になる。
「今の人生で十分だと思えるような設定は、できますか。会社が今より大きくなくてもいい。妻と喧嘩することがあってもいい。娘が思いどおりに育たなくても構わない。その人生を生きている自分が、これで十分だと思える。それだけでいいんです」
担当者は少し間を置いた。
「お客様の感情まで指定することはできませんが、過去の体験をもとに、そうした人生を生成することは可能です」
「それなら、一度試してみたいです」
*
医師は反対した。以前から記憶の混同が起きていて、この方式ではさらに重い障害が残るおそれがある。家族との暮らしにも影響するかもしれない。誠一は説明を聞き、理解し、それでも申し込みを取り消さなかった。
「高瀬さん。今の生活に不満があるわけではないんですよね。ご家族とも、うまくいっていると」
「ええ」
「それなら、どうして」
「もっといい人生があるかもしれないので」
答えてから、誠一は少し笑った。
「今度こそ、それを確かめたいんです」
*
処置の朝、遥は早くから起きていた。
「パパ、今日も出かけるの? 帰りは?」
「夕方には戻るよ」
「じゃあ、帰ってきたら、ちょっと相談していい? 進路のことなんだけど」
「帰ってきたら、ゆっくり話そう」
「うん。じゃあ、早めに帰ってきてね」
玄関で靴を履いていると、早苗が見送りに来た。
「本当に大丈夫なの?」
「説明は聞いたよ」
「無理しないでね」
誠一は、妻に何か言おうとした。今の暮らしに満足していること。早苗も遥も、大切に思っていること。そんなことを、改めて言葉にしようとした。うまい言い方が見つからなかった。
「行ってくる」
結局、いつもと同じことを言った。
「いってらっしゃい」
早苗が答えた。
*
二十五歳の誠一は、会社を辞めるかどうか迷っていた。勤め先の待遇は悪くなく、仕事にもやりがいがあった。ただ、自分で事業を始めてみたい気持ちもあった。友人はやってみればいいと言い、両親は心配した。一週間考えて、退職届を出した。
小さな事務所を借り、二人の社員と始めた。最初の数年は苦しかった。やっと取った契約が突然消え、社員の給料のために貯金を崩したこともある。それでも会社は少しずつ育った。
二十六歳のとき、共通の友人が開いた食事会で早苗に会った。よく笑う人で、食事の途中に何度も携帯電話を確かめていた。あとで聞くと、その日は妹の就職試験の結果が出る日だったという。半年ほどして付き合い始め、翌年結婚した。娘が生まれ、遥と名づけた。
誠一は仕事を続けながら、できるだけ家族との時間を取るようにした。それでも忙しい日はあった。運動会に行けなかったこともある。早苗と喧嘩したこともある。会社では新規事業から撤退して、社員に頭を下げたこともあった。野口とは何度も意見がぶつかった。それでも、二人で仕事を続けた。
四十九歳になった誠一は、安定した会社を経営していた。早苗とは結婚して二十二年。遥は高校三年になり、バスケットボール部の最後の大会を終えたところだった。結果は思っていたほどよくなかったが、本人は納得しているらしく、最近は受験勉強を始めていた。机に向かう娘の背中を見ると、何か声をかけたくなった。邪魔になるかもしれないと思って、やめることが多かった。
ある夜、早苗が旅行の話を持ち出した。
「今度、三人でどこか行かない? 箱根か伊豆あたり」
「いいね。どっちでもいいよ」
「珍しい。いつもホテルとか調べるのに」
「最近は早苗のほうが詳しいだろ」
「じゃあ、私が決めちゃうよ」
*
週末、早苗が選んだ箱根の旅館に出かけた。部屋は思っていたより狭く、窓から見えるはずの山も、隣の建物に半分隠れていた。
「写真と違うね」
早苗が笑った。遥がスマートフォンで別の部屋の写真を見せた。
「こっちのほうが景色よかったんじゃない?」
「空いてるか聞いてみる?」
早苗が言った。誠一は少し考えた。
「もう荷物も広げちゃったし、このままでいいんじゃないか」
「そう?」
「うん」
遥は肩をすくめ、早苗と温泉へ出ていった。一人になった誠一は窓辺に立った。建物の向こうに、山が少しだけ見えた。いい部屋を選んでいれば、違う夕日が見られたのだろう。しばらくそうしていてから、夕食まで少し眠ることにした。
夕食では、遥が煮物を誠一の皿に移した。
「ちゃんと食べなさいよ」
「パパが食べたいって」
「言ってないぞ。まあ、食べるけど」
三人で笑った。誠一は酒を飲んで少し酔った。遥は部活の思い出を、早苗は近所にできた店の話を、誠一は会社であったことを話した。たいした出来事のない一日だった。
*
翌週、誠一は知人と昼を食べた。知人は最近、珍しい医療サービスを使ったという。
「人生をもう一回経験できるんだよ。結婚相手とか仕事とか、いろいろ選べるらしい。値段は高いし、危険もあるみたいだけどな。昔の彼女と結婚した人生を試してみた」
「どうだった」
「悪くなかった。でも、今の嫁のほうがよかったな」
「それは奥さんに言ってやれよ」
「言えないよ。ほかの女と結婚した人生を試したなんて」
二人で笑って店を出た。車に乗ってから、誠一はその話を思い出した。別の人生。面白いとは思った。だが、脳に装置を入れるほどのことだろうか。今の人生には満足している。早苗とは仲がいいし、遥も元気だ。会社も順調だ。誠一はエンジンをかけた。
*
その夜、夕飯の残りを保存容器に移しながら、早苗が言った。
「明日のお昼、これ食べちゃっていい?」
「いいよ」
どこかで聞いたことのあるやりとりだと思った。二十年以上も一緒に暮らしていれば、そんなものだろう。
早苗が旅行の写真を見せてきた。旅館の庭で撮った三人が写っている。遥が真ん中に立ち、誠一と早苗が両側に並んでいる。
「俺、変な顔だな」
「いつもこんな顔でしょ。撮り直せばよかったね」
「いや、これでいいよ」
遥が隣に座り、大学の話を始めた。志望校を二つまで絞ったらしい。誠一は話を聞き、ときどきうなずいた。そのうち遥は部屋に戻り、早苗は風呂に入った。
一人でテレビを見ていると、スマートフォンが鳴った。昼間の知人からだった。
『さっき話したサービス、これ。興味あったら見てみて』
リンクを開いた。料金は思っていたより高かった。処置には危険もある。注意事項を途中まで読んで、閉じようとした。
今の人生には満足している。やり直したいことがあるわけではない。ただ、少しだけ気になった。もし会社を作っていなかったら。もし、早苗に出会っていなかったら。今とは違う娘が生まれていたかもしれない。その子は、どんな子だったのだろう。
誠一は、閉じかけた画面をもう一度開いた。
了