書き下ろし幻想

いつもの朝

約9,630字 読了目安 約19分 2026年10月28日 公開

妻の名前を間違えそうになった。

「コーヒー、飲む?」

台所から声がした。

「ああ、頼む」

誠一は妻の背中を見た。早苗とは結婚して十九年になる。コーヒーを淹れる前に必ず換気扇を回す癖も、とうに見慣れていた。

昨日まで一緒に暮らしていた妻は、真由美という名前だった。真由美は朝、紅茶を飲む。カップの縁に口紅が残るのを嫌って、出かける前には必ず洗っていた。十七年一緒に暮らし、息子が二人いた。上は大学生、下は高校の陸上部だった。

最後に見たのは、真由美が夕飯の残りを保存容器に移しているところだった。

「明日のお昼、これ食べちゃっていい?」

「いいよ」

「じゃあ、あなたは外で食べてね」

そこで、その人生は終わった。次に目を開けると白い天井があり、医師がいて、誠一は四十五歳の会社経営者に戻っていた。

「砂糖、一杯でいい?」

「ああ」

カップを受け取りながら、誠一は思った。真由美は、あの残りものを食べただろうか。体験を終えると、向こうの時間は止まるらしい。再開すれば、あの夜の続きから始まる。それなら真由美にとっては、まだ昨日の夜なのだ。

「どうだった? 昨日の、別の人生」

早苗が向かいに座った。

「面白かったよ。会社員でさ。結婚して、子どもが二人いて」

「へえ。奥さんは? 私より美人?」

「そういう比べ方をするもんじゃないだろ」

「だって気になるじゃない」

誠一も笑った。真由美が美人だったかどうか、考えたことがないわけではない。ただ、十七年連れ添った妻の顔を、いまさら誰かと比べる気にはなれなかった。

人工人生の体験は、まだ金持ちにしか手の届かないサービスだった。脳に埋めこんだ装置を通して、人工的に組み立てられた人生を生きる。体験中はもとの人生の記憶が遮断され、本人にはそれが唯一の現実になる。終われば記憶は戻り、人工の人生で経験したことも残る。

数時間の処置で何十年分も生きられる、という触れこみだった。実際には日々の大半が省かれ、記憶として補われるらしい。そのことを、誠一は医師に聞いたことがある。

「それだと、実際には生きていない時間もあるわけですよね。それなのに、本人は生きたと思っている。どこまでが本当の経験なんですか」

「高瀬さんは、十年前の旅行で食べた夕食を、全部覚えていらっしゃいますか」

「いや」

「でも、旅行に行ったことは疑わないでしょう。感覚としては、それに近いものです」

わかったような、わからないような説明だった。料金が高いことと、脳への処置に危険があることはよくわかった。誠一は契約前に資料を全部読んだ。起業したときも、新しい事業に投資したときも、失敗の可能性はあった。危険を調べたうえで、引き受けるかどうかを決める。それが誠一のやり方だった。

早苗に話したのは、申し込みを済ませてからだった。

「脳に装置を入れるの? 危なくないの?」

「危険はある。でも検査も受けたし、説明も聞いた」

「そんなことまでして、別の人生を生きたい? 今の人生に不満でもあるの?」

「ないよ」

本当だった。自分で興して二十年近く育ててきた会社は順調だった。早苗との仲も悪くない。十四歳の娘の遥は、近ごろ父親と出かけることこそ減ったが、夕飯の席では学校や部活の話をしてくれる。十分に恵まれていると思っていた。

「だったら、どうして」

「一回しかないからじゃないかな。人生が」

早苗は少し考えた。

「一回でよくない?」

誠一には意外な答えだった。誰にだって、選ばなかった人生がある。別の仕事に就いていたら。違う街で暮らしていたら。あのとき、別の相手と一緒になっていたら。今に満足していても、一度くらい確かめたくなるものではないか。

「私は今ので十分かな」

早苗はそう言って、洗濯物を畳み始めた。

真由美との人生は、保存してもらった。追加の料金を払えば、あの夜の続きから再開できる。息子たちが結婚するところも見たかったし、真由美と年を取ってみたかった。誠一は迷わず契約した。ただ、次の体験までは一定の期間を空けなければならない。

そのあいだ、いつもどおりに暮らした。会社へ行き、取引先と会い、帰って家族と夕飯を食べた。真由美を思い出す日はあったが、早苗への気持ちが減ったわけではない。どちらの妻も愛していた。ただ、一度に一人としか暮らせない。それだけのことだった。

ある日曜日、早苗が古いアルバムを整理していた。大学時代の集合写真に、誠一の知らない若い男女が十人ほど写っていた。

「この頃、海外で働こうと思ってたんだよね。最終面接まで行って、落ちちゃった。この子は受かって、今でも向こうにいるの」

「じゃあ、受かってたら今頃海外だったかもな。気にならない?」

「そりゃ、たまには考えるよ」

「だったら、あの装置で試してみればいいじゃないか」

早苗は首を振った。

「もし、そっちの人生のほうが楽しかったら嫌じゃない。知っちゃったら、気になると思うんだよね。逆にすごく不幸だったら、今の人生でよかったって安心すると思う。でも、それもちょっと嫌かな」

「何で」

早苗は少し笑った。

「別の私が不幸なところを見なくても、今がよかったって思ってるから」

誠一は写真の中の若い早苗を見た。海外で働いていたら、どんな人生になっていただろう。少し、見てみたかった。

二度目に選んだのは、現実とほとんど同じ人生だった。妻は早苗、娘は遥。会社も同じ。変えたのは、娘が生まれた頃の働き方だけだった。

当時の誠一は会社を大きくするために、朝早く出て夜遅く帰り、休日も取引先との付き合いに出ていた。早苗には苦労をかけたと思っている。だが、あの時期があったから今の会社がある。後悔していたわけではない。ただ、少し気になっていた。あの頃、もっと家にいたら。

人工の人生で、誠一は早くから社員に仕事を任せた。最初は失敗もした。取引先を一つ失い、売上が予定に届かない年もあった。それでも会社は持ち直した。誠一は夕方には家に帰り、遥を風呂に入れ、寝かしつけた。休日は三人で公園に行った。二歳の遥は、玄関の開く音を聞くと走ってきた。

「パパ!」

抱き上げると、娘は肩に頬を押しつけた。

会社は現実ほど大きくならなかったが、十分な利益を出していた。早苗は遠慮なく頼み事をするようになり、遥は中学生になっても父親によく話しかけた。現実の家庭が不幸だったわけではない。ただ、こちらのほうが少しだけ居心地がよかった。

帰ってきた誠一は、その「少し」が気になった。幹部をもっと早く育てていたら。投資の時期を変えていたら。会社を大きくしながら、家族との時間も増やせたのではないか。

三度目の予約を入れた。

三度目の人生では、会社は現実より大きくなった。幹部の登用を早め、投資の時期を変え、家族との時間も減らさなかった。辞めていく社員はいたし、早苗と言い争う夜もあった。それでも四十五歳の誠一は満足していた。

その人生の遥は、ピアノが好きだった。小学生の頃から習い、中学に入っても続けていた。誠一は発表会に行くのが楽しみだった。ある年、遥は難しい曲を弾き、途中で一度だけ音を外したが、最後まで弾ききった。

「途中、間違えた」

「わかったよ。でも、よかったと思う」

「適当だなあ」

遥は笑った。

帰ってから、誠一はその曲を探した。同じ曲の演奏動画はいくつも見つかった。どれも違った。遥は終わり近くで少し走る癖があって、早苗にいつも注意されていた。客席の隣で、最後の音を聴いた早苗が小さくうなずいたことまで覚えていた。

現実の遥は、ピアノを習っていない。バスケットボールをしている。誠一はどちらの娘も愛していた。ただ、あの曲をもう一度、遥の指で聴きたかった。

その人生も保存してもらった。担当者に聞かれた。

「次回は、こちらの人生を続けられますか。それとも、別の分岐をお作りしますか」

もう一度、あの娘に会いたかった。けれど、別のことも気になっていた。会社がもっと伸びていたら。遥がピアノでなくバスケットボールを選んでいたら。それも悪くない人生になるのではないか。

「別の分岐でお願いします」

保存された人生は増えていった。会社を売った人生。海外で暮らした人生。早苗と三年早く出会った人生。早苗と結婚しなかった人生。

早く出会った人生では、遥は生まれなかった。別の娘がいた。誠一はその子も愛していた。誕生日を祝い、初めて自転車に乗れた日のことも覚えている。帰ってきてから、遥のいない人生を幸せだと感じていたことに、妙な後ろめたさを覚えた。それでも、消す気にはなれなかった。あの子がどんな大人になるのか知りたかった。

真由美と息子たちの人生も、まだ残してあった。ときどき、真由美はもう昼を済ませただろうかと思った。再開すれば、あの夜の続きから始まる。わかっていても、気になった。

失敗した人生もあった。会社が潰れたことも、早苗と別れたこともある。そういう人生から帰ると、誠一はほっとした。今の人生でよかった。けれど、うまくいった人生から帰ると、それまで気にもしなかったことが気になった。

ある日の夕方、遥が学校から帰ってきた。誠一はリビングで資料を読んでいた。

「おかえり。今日、何かあった?」

「別に」

「学校は」

「普通」

遥は冷蔵庫から炭酸水を出して飲み、ペットボトルを流しの横に置いた。

「今日、早いね」

「会議がなくなったんだ」

「ふうん」

そのまま部屋へ戻っていった。人工の人生の遥なら、もう少し話しただろう。友達のことや、学校であったことを。現実の遥は、あまり話さない。別に不機嫌なわけでもない。

廊下の向こうから、娘が誰かと電話する声が聞こえてきた。楽しそうに笑っていた。前なら、その笑い声を聞いて安心しただろう。今は、何を話しているのかが気になった。

役員会で、誠一は新規事業への投資を提案した。数年前に見送った事業だった。人工の人生の一つで、その事業は大きく育っていた。

「今は抑えたほうがいいと思う。市場がまだ読めないし、額が大きすぎる」

野口が言った。誠一より五つ年上で、創業から会社を支えてきた役員だった。反対する理由はよくわかった。誠一も資料は十分に調べ、取引先への聞き取りもしていた。それでも迷いはなかった。その事業が成功したときのことを、覚えていたからだ。新しい事務所の入口に立ったこと。採った社員が初めて大きな契約を取ってきたこと。野口と祝杯を挙げたこと。

「今だから意味があるんです」

誠一は投資を決めた。最初の半年は順調だった。そのあと大口の取引先が契約を見直し、予定していた資金調達も難航した。事業は赤字になった。人工の人生では、その時期を越えたところで売上が跳ね上がっていた。誠一は追加の投資を決めた。現実では、回復しなかった。

一年後、撤退を決めた。社員の賞与は減り、採用の予定も取り消した。誠一は役員たちに頭を下げた。野口は最後まで何も言わなかった。

野口が辞めたいと言ってきたのは十二月だった。

「少し、休もうと思う」

「正月休みなら、長めに取ってくださいよ」

「そうじゃなくて」

野口は笑わなかった。

「会社が大変なときに?」

「大変だから、今まで残ってたんだよ」

社員が四人しかいなかった頃から、野口はいた。誠一が資金集めに走り回っているあいだ取引先を回り、給料が払えない月には自分の報酬を削った。初めて年間売上が一億を超えた夜、二人で安い焼肉屋に行った。

「来年は二億だな」

「いや、三億ですよ」

「欲張りだな、お前は」

誠一が真っ先に思い出したのは、その夜のことだった。

「待遇の問題なら、考えます」

「そうじゃないんだ。昔さ、俺たち、よく喧嘩しただろ。夜中まで言い合って。あの頃は面白かったんだよ。どうなるかわからないことを、二人で考えてたから」

誠一は黙っていた。

「最近のお前は、何を言っても、もう答えを知ってるみたいな顔をする。そんなつもりはないんだろうけどな。でも俺には、もう何を話せばいいのかわからない」

野口は退職届を机に置いた。

「長いこと、世話になったな。会社、頼むぞ」

誠一は書類を見た。野口が辞めない人生を知っていた。会社が大きくなり、野口が副社長として経営を支えている人生。あそこでは、二人で何度も笑った。

「考え直してもらえませんか」

「もう決めたんだ」

送別会の帰り、野口はタクシーを断り、駅とは反対の方向へ歩いていった。

翌週、誠一は保存した人生の一覧を開いた。野口が会社に残っている人生。予約すれば、また一緒に仕事ができる。予約画面まで進んで、手を止めた。あちらの野口にどれだけ謝っても、こちらの野口には届かない。そんなことは、最初からわかっていた。

画面を閉じて、電話をかけた。

「どうした」

「いや、特に用事はないんですけど。元気にしてます?」

「何だよ、それ。毎日暇だよ」

「よかったら、また飯でも」

「いいよ。年明けにな」

電話を切ってから、誠一は来月の手帳にその約束を書きこんだ。それだけのことが、嬉しかった。

その頃、早苗が髪を短くして帰ってきた。肩まであった髪が、耳のあたりまでになっていた。

「どう?」

「似合ってるよ。急にどうしたんだ」

「別に。切りたくなっただけ」

人工の人生では、妻が髪を切った理由をいつも知っていた。友達に勧められたとか、仕事の邪魔になったとか、そういう会話があった。目の前の早苗がなぜ切ったのか、誠一にはわからなかった。結婚して二十年以上経っても、知らないことはいくらでもある。

数日後、早苗が大学時代の友人と食事に出かけ、十時過ぎに帰ってきた。昔の話になったらしい。

「あなた、結婚した頃はほんとに忙しかったもんね。ほとんど家にいなかったでしょ」

「悪かったと思ってるよ」

「急にどうしたの」

「最近、ちょっと考えることがあって」

早苗は冷蔵庫から水を出した。

「でも、あの頃はあの頃で楽しかったよ。大変だったけど。遥が初めて歩いたときとか、あなたがいなかったから、私だけが見られたこともいっぱいあるし。もちろん一緒に見たかったなって思うこともあったけど、今となっては、あれも私の思い出だから」

人工の人生で、誠一は遥が初めて歩いた瞬間を見ていた。二人で手を叩いて喜んだ。あちらのほうがよかったと、ずっと思っていた。だが早苗の覚えているあの日には、自分はいなかった。

「遥、どこまで歩いたの」

「台所からソファまで。三歩くらいだけど。転んで泣いちゃってね。私一人で大騒ぎしたの」

早苗が笑い、誠一も笑った。その場にいなかったことが、少し惜しかった。

翌月、医師から利用を控えるよう勧められた。検査で、記憶の混同が進んでいるとわかったのだ。誠一は、現実の旅行と人工の人生での旅行を何度か取り違えていた。遥がピアノを弾いていたと思いこんでいたこともある。

「落ち着いて考えれば、区別はできます」

「今はそうですね。ただ、これ以上続けると、難しくなるかもしれません」

誠一はうなずき、その日は次の予約を入れなかった。

半年ほど経った頃、遥の試合を見に行った。高校二年になった遥は、バスケットボール部で練習を続けていた。途中から試合に出た。誠一は客席で動画を撮っていたが、遥がシュートを決めた瞬間に思わず立ち上がり、画面が大きく揺れた。

「肝心なところ、全然映ってないじゃん。もう、ママに撮ってもらう」

「それは困るな」

三人で笑った。ピアノを弾く遥のことを、誠一は思った。次の発表会では何を弾くのだろう。真由美の息子たちは今ごろ何をしているのだろう。それでも、この日の試合は自分の目で見た。画面には映っていなくても、ボールが入った瞬間の娘の顔を覚えていた。

会社も落ち着いていった。若い役員たちが意見を出すようになり、誠一も判断を急がず、彼らの話を聞くようになった。早苗は、夫が前より家にいることを喜んだ。

「最近、楽しそうだね。前は、何かずっと考えてるみたいだった」

誠一は笑った。別の人生を忘れたわけではない。真由美にも会いたかった。あの夜の続きを見たかった。ピアノの発表会にも行きたかった。野口と大きな会社をやっている人生も、まだ終わっていない。どの人生にも続きがあった。

誠一はときどき、保存された人生の一覧を眺めた。それから画面を閉じ、翌日の予定を確かめた。

施設から新しい案内が届いた。これまで体験した人生の記録を組み合わせて、一つの人生を作れるという。従来より長い期間を体験できるが、脳への負担は大きく、重い後遺症が残るおそれもあった。

会社での判断。早苗との結婚。遥が生まれてからの暮らし。過去に失敗した選択。それらを、自分の知るかぎりいちばんいい形に組み合わせられる。

誠一は資料を何度も読み、申し込まなかった。翌日も、その次の日も。一週間後、施設に電話をかけた。

「最善の人生って、どういう基準で決めるんですか」

「最終的には、お客様ご自身に決めていただきます。会社が大きくなる、ご家族が幸せでいらっしゃる、健康でいらっしゃる。そうした設定は可能です」

誠一は考えた。会社を大きくしても、もっと大きくできたのではないかと思ってしまう。早苗と幸せに暮らしても、もっと違う接し方があったのではないかと考える。遥が楽しそうにしていても、別の環境を与えられたのではないかと思う。どんな条件をそろえても、あとから別の可能性が気になる。

「今の人生で十分だと思えるような設定は、できますか。会社が今より大きくなくてもいい。妻と喧嘩することがあってもいい。娘が思いどおりに育たなくても構わない。その人生を生きている自分が、これで十分だと思える。それだけでいいんです」

担当者は少し間を置いた。

「お客様の感情まで指定することはできませんが、過去の体験をもとに、そうした人生を生成することは可能です」

「それなら、一度試してみたいです」

医師は反対した。以前から記憶の混同が起きていて、この方式ではさらに重い障害が残るおそれがある。家族との暮らしにも影響するかもしれない。誠一は説明を聞き、理解し、それでも申し込みを取り消さなかった。

「高瀬さん。今の生活に不満があるわけではないんですよね。ご家族とも、うまくいっていると」

「ええ」

「それなら、どうして」

「もっといい人生があるかもしれないので」

答えてから、誠一は少し笑った。

「今度こそ、それを確かめたいんです」

処置の朝、遥は早くから起きていた。

「パパ、今日も出かけるの? 帰りは?」

「夕方には戻るよ」

「じゃあ、帰ってきたら、ちょっと相談していい? 進路のことなんだけど」

「帰ってきたら、ゆっくり話そう」

「うん。じゃあ、早めに帰ってきてね」

玄関で靴を履いていると、早苗が見送りに来た。

「本当に大丈夫なの?」

「説明は聞いたよ」

「無理しないでね」

誠一は、妻に何か言おうとした。今の暮らしに満足していること。早苗も遥も、大切に思っていること。そんなことを、改めて言葉にしようとした。うまい言い方が見つからなかった。

「行ってくる」

結局、いつもと同じことを言った。

「いってらっしゃい」

早苗が答えた。

二十五歳の誠一は、会社を辞めるかどうか迷っていた。勤め先の待遇は悪くなく、仕事にもやりがいがあった。ただ、自分で事業を始めてみたい気持ちもあった。友人はやってみればいいと言い、両親は心配した。一週間考えて、退職届を出した。

小さな事務所を借り、二人の社員と始めた。最初の数年は苦しかった。やっと取った契約が突然消え、社員の給料のために貯金を崩したこともある。それでも会社は少しずつ育った。

二十六歳のとき、共通の友人が開いた食事会で早苗に会った。よく笑う人で、食事の途中に何度も携帯電話を確かめていた。あとで聞くと、その日は妹の就職試験の結果が出る日だったという。半年ほどして付き合い始め、翌年結婚した。娘が生まれ、遥と名づけた。

誠一は仕事を続けながら、できるだけ家族との時間を取るようにした。それでも忙しい日はあった。運動会に行けなかったこともある。早苗と喧嘩したこともある。会社では新規事業から撤退して、社員に頭を下げたこともあった。野口とは何度も意見がぶつかった。それでも、二人で仕事を続けた。

四十九歳になった誠一は、安定した会社を経営していた。早苗とは結婚して二十二年。遥は高校三年になり、バスケットボール部の最後の大会を終えたところだった。結果は思っていたほどよくなかったが、本人は納得しているらしく、最近は受験勉強を始めていた。机に向かう娘の背中を見ると、何か声をかけたくなった。邪魔になるかもしれないと思って、やめることが多かった。

ある夜、早苗が旅行の話を持ち出した。

「今度、三人でどこか行かない? 箱根か伊豆あたり」

「いいね。どっちでもいいよ」

「珍しい。いつもホテルとか調べるのに」

「最近は早苗のほうが詳しいだろ」

「じゃあ、私が決めちゃうよ」

週末、早苗が選んだ箱根の旅館に出かけた。部屋は思っていたより狭く、窓から見えるはずの山も、隣の建物に半分隠れていた。

「写真と違うね」

早苗が笑った。遥がスマートフォンで別の部屋の写真を見せた。

「こっちのほうが景色よかったんじゃない?」

「空いてるか聞いてみる?」

早苗が言った。誠一は少し考えた。

「もう荷物も広げちゃったし、このままでいいんじゃないか」

「そう?」

「うん」

遥は肩をすくめ、早苗と温泉へ出ていった。一人になった誠一は窓辺に立った。建物の向こうに、山が少しだけ見えた。いい部屋を選んでいれば、違う夕日が見られたのだろう。しばらくそうしていてから、夕食まで少し眠ることにした。

夕食では、遥が煮物を誠一の皿に移した。

「ちゃんと食べなさいよ」

「パパが食べたいって」

「言ってないぞ。まあ、食べるけど」

三人で笑った。誠一は酒を飲んで少し酔った。遥は部活の思い出を、早苗は近所にできた店の話を、誠一は会社であったことを話した。たいした出来事のない一日だった。

翌週、誠一は知人と昼を食べた。知人は最近、珍しい医療サービスを使ったという。

「人生をもう一回経験できるんだよ。結婚相手とか仕事とか、いろいろ選べるらしい。値段は高いし、危険もあるみたいだけどな。昔の彼女と結婚した人生を試してみた」

「どうだった」

「悪くなかった。でも、今の嫁のほうがよかったな」

「それは奥さんに言ってやれよ」

「言えないよ。ほかの女と結婚した人生を試したなんて」

二人で笑って店を出た。車に乗ってから、誠一はその話を思い出した。別の人生。面白いとは思った。だが、脳に装置を入れるほどのことだろうか。今の人生には満足している。早苗とは仲がいいし、遥も元気だ。会社も順調だ。誠一はエンジンをかけた。

その夜、夕飯の残りを保存容器に移しながら、早苗が言った。

「明日のお昼、これ食べちゃっていい?」

「いいよ」

どこかで聞いたことのあるやりとりだと思った。二十年以上も一緒に暮らしていれば、そんなものだろう。

早苗が旅行の写真を見せてきた。旅館の庭で撮った三人が写っている。遥が真ん中に立ち、誠一と早苗が両側に並んでいる。

「俺、変な顔だな」

「いつもこんな顔でしょ。撮り直せばよかったね」

「いや、これでいいよ」

遥が隣に座り、大学の話を始めた。志望校を二つまで絞ったらしい。誠一は話を聞き、ときどきうなずいた。そのうち遥は部屋に戻り、早苗は風呂に入った。

一人でテレビを見ていると、スマートフォンが鳴った。昼間の知人からだった。

『さっき話したサービス、これ。興味あったら見てみて』

リンクを開いた。料金は思っていたより高かった。処置には危険もある。注意事項を途中まで読んで、閉じようとした。

今の人生には満足している。やり直したいことがあるわけではない。ただ、少しだけ気になった。もし会社を作っていなかったら。もし、早苗に出会っていなかったら。今とは違う娘が生まれていたかもしれない。その子は、どんな子だったのだろう。

誠一は、閉じかけた画面をもう一度開いた。

了