書き下ろし感動

日陰

約5,146字 読了目安 約10分 2026年10月28日 公開

「パパ、寒い」

娘が、三度目の文句を言った。

「歩いてれば暖かくなるよ」

「さっきもそう言った」

十月の日曜日、朝八時を少し過ぎたところだった。川沿いの遊歩道には、走っている人が何人もいた。対岸には朝日が当たっているが、こちら側は高架道路の影に入っている。

「向こう歩こうよ」

「向こうは暑いぞ。帰りは向こうにしよう」

娘は口を尖らせた。

五年生になった娘を散歩に連れ出すのは、前より難しくなっていた。今朝も一度は断られた。帰りにパン屋に寄ることと、午後にゲームの相手をすることを約束して、ようやくついてきてくれたのだ。

「パパ、一人で歩けばいいのに。私も別に歩きたくないんだけど」

「じゃあ、何で来たんだよ」

「パパが行きたいって言ったからじゃん」

もっともだった。

「じゃあ、ありがとな」

「うん。感謝して」

娘は得意そうに笑った。

折り返す頃には、娘は寒いと言わなくなっていた。帰りは橋を渡って対岸を歩いた。日向に出ると、娘は両腕を広げた。

「あったかい! 最初からこっちにすればよかったじゃん」

私は笑ってごまかした。

ところが十分も歩くと、今度は額の汗を拭いはじめた。

「暑い。めっちゃ暑い」

「だから言っただろ」

「言わなくていいよ」

水筒のお茶を飲んでから、娘はあたりを見回し、私の腕を引いた。

「パパ、こっち来て。いいから」

言われたとおりにすると、娘は私のすぐ横に寄ってきた。足もとを見ると、私の影の中に入っていた。

「ああ、なるほど」

「何が?」

「何でもない」

娘は影からはみ出さないように歩いた。私が速くなると、娘も速くなる。

「パパ、ゆっくり」

歩幅を小さくした。背はずいぶん伸びた。去年買った靴はもう履けない。それでも、私の影にはまだ収まった。

「ねえ、パパ。来週、友達と自転車で遊びに行っていい? 駅の向こうの大きい公園」

自転車なら二十分ほどの場所だった。

「誰と?」

「莉央ちゃんと、結衣ちゃんと、美月ちゃん」

私は道を思い浮かべた。

「あそこなら、川沿いから回ったほうがいいな」

「えー、遠回りじゃん。みんな近いほうから行くって言ってる」

「五分くらいだろ。あの交差点、左に曲がってくる車が多いんだ」

「信号あるじゃん」

「信号があっても危ないところはあるよ。聞いてる?」

「聞いてる」

「じゃあ、川沿いから行くんだぞ」

「……わかった」

娘は私の影から少し離れ、すぐにまた戻ってきた。

「パパ、もうちょっと右」

私は右に寄った。娘は満足すると、公園にある長い滑り台の話を始めた。道の話は、それきりしなかった。

翌週の日曜、娘は七時半から起きていた。いつもは何度起こしても布団から出てこないのに、遊びに行く日だけは早い。

「パパ、ヘルメットどこ?」

「玄関だろ」

「ないよ」

見に行くと、靴箱の上にあった。

「そこ見たもん」

「見てないだろ」

私は自転車のタイヤとブレーキを確かめた。

「どっちから行くんだっけ?」

「川沿い。でも莉央ちゃんたちは近いほうがいいって」

「危ないところを説明してあげな。みんなが違う道で行くって言ったら?」

「わかんない。行ってから決める」

もう少し話そうとしたが、娘は先にヘルメットをかぶった。

「パパ、もう行くよ」

「気をつけてな」

「わかってる!」

ペダルを踏んで走り出し、角を曲がる前に一度振り返った。私が手を振ると、娘も片手を上げた。

「両手で持て!」

娘は笑いながらハンドルを握り直した。

家に戻ると、妻が朝食の皿を片づけていた。

「送っていかなかったの? 珍しい」

「もう五年生だからな」

私はコーヒーを淹れ、新聞を開いた。

十時四十七分、娘から電話がかかってきた。

「もしもし?」

返事はなかった。代わりに、知らない女性の声がした。

「お父様ですか。お嬢さんが、自転車で転ばれて……」

電話の向こうで、誰かが泣いていた。娘の声だった。

女性は、たまたま近くを通りかかった人だった。娘が転ぶのを見て、駆け寄ってくれたらしい。場所を聞くと、私が避けろと言ったあの交差点の近くだった。

救急車を呼んでもらい、妻と家を出た。車の中で、妻は娘の携帯に何度もかけたが、つながらなかった。赤信号で止まった。前の車がなかなか動かない。クラクションに手を伸ばしかけて、やめた。

「落ち着いて」

「落ち着いてるよ」

「そうは見えないけど」

現場には救急車が止まっていた。娘は車内のストレッチャーに座り、左腕を胸の前で支えられていた。頬に擦り傷があった。

「パパ」

私の顔を見るなり、娘は泣き出した。

「痛いよ。すごい痛い」

娘の右手を握った。冷たかった。

救急隊員によると、意識ははっきりしているが、左腕が腫れていて骨が折れているかもしれないという。

「ママとパパ、どっちが一緒に乗る?」

妻が聞くと、娘は私の手を離さなかった。

「パパ」

救急車の中で、娘は何度も痛いと言った。私はそのたびに大丈夫だよと答えた。何が大丈夫なのか、自分でもよくわからなかった。

検査の結果、左腕の骨折だった。ずれは大きくなく、手術はしなくて済みそうだという。頭にも急いで処置するような異常はなかった。娘は固定された腕を見て、顔をしかめた。

「これ、いつ取れるの。来週、ドッジボールなのに」

私は娘の隣に座った。

「どうやって転んだんだ」

娘はうつむいた。

「莉央ちゃんが前にいて、信号が変わりそうになって、止まろうとしたらブレーキ強くかけちゃって」

「あの交差点?」

娘は小さくうなずいた。

「パパ、あそこは車が曲がってくるって言ってたでしょ」

「うん」

「だから、車がいないか見ようと思って……」

娘はそこで言葉を切った。

「近いほうの道、行っちゃった」

私は息を吐いた。

「だから言っただろ。危ないって説明したよな。何で言うこと聞かなかったんだよ」

「ごめんなさい」

娘の目から涙がこぼれた。妻が私の腕に触れた。

「今はやめよう」

私は口を閉じた。娘は右手で涙を拭った。少しして、私はもう一度その手を握った。娘は握り返してきた。

三週間が経った。娘は左腕を固定したまま学校に通い、体育は見学、給食の配膳は友達に手伝ってもらい、風呂では妻に髪を洗ってもらっていた。

「パパ、靴ひも」

玄関で呼ばれ、しゃがんで結んでやった。右手だけでも、時間をかければ結べるのかもしれない。けれど呼ばれると、つい立ち上がってしまう。翌朝も娘は私を呼び、私はまた結んだ。

修理に出した自転車が戻ってきたのは、その週の土曜日だった。ハンドルの端に、転んだときの傷が残っていた。娘はしゃがんで、その傷を指でなぞった。

「ここ、私がつけたんだよね。結構すごいね」

「よく腕だけで済んだよ」

娘はしばらく傷を見ていた。

「ねえ、パパ。助けてくれた人に、お礼言った?」

「ママが連絡して、伝えたよ」

「そっか。すごく優しかったんだよ。私が泣いてたら、手つないでくれた」

私が着いたとき、娘はもう手当てを受けていた。転んでから私が着くまでのことを、私はほとんど知らない。

「どんな人だった?」

「女の人。ママくらいかな。莉央ちゃんにも優しかった。莉央ちゃん、すっごい泣いてたんだよ。私のほうが痛かったのに」

私もつられて笑った。

「その人、何て言ってくれたの」

「忘れちゃった。でも、ずっといてくれたよ」

娘は自転車のベルを鳴らした。小さな音が玄関に響いた。

「パパ、腕が治ったら、またあの公園行っていい?」

「別の公園じゃ駄目なのか」

「だって、まだ遊んでないじゃん。行く途中で転んじゃったんだもん」

娘は不思議そうな顔をした。

「また同じことになったらどうする」

「同じ道は通らないよ」

「ほかの道だって転ぶかもしれないだろ」

「じゃあ、どこにも行けないじゃん」

私は答えなかった。

「治ってから考えよう」

「えー、またそれ?」

娘は鍵を持って家に入っていった。私は自転車を壁際に寄せた。

固定が外れ、医者から運動していいと言われても、娘はすぐには自転車に乗らなかった。初めて練習に出た日は、近所の公園を一周しただけだった。

「怖い?」

「ちょっと」

「今日はもうやめとくか」

「もう一回」

娘はもう一周した。角を曲がるたびに私は身構えたが、娘は転ばなかった。翌週には、私より速く走るようになっていた。

それでも、あの公園に行きたいと言われると、私はうなずけなかった。

「もう少し近くで遊んだら?」

「前は行っていいって言ったじゃん」

「あれは怪我する前だろ」

「もう治ったよ」

「そういうことじゃないんだ」

「じゃあ、いつになったらいいの。来月? 六年生になったら?」

「とにかく、今週は駄目」

娘は椅子を引いて立ち上がった。

「パパ、ずるい。いつも、あとでって言うじゃん」

娘は自分の部屋に戻っていった。妻は、食卓に残された娘の皿を片づけた。

その夜、妻に聞いた。

「やっぱり、行かせたほうがいいと思う?」

「わからない。私だって怖いし」

妻はすぐに答えた。

「でも、もう治ったんだよね。自転車も乗れてるし。じゃあ、何が心配なの」

「また怪我することだよ。次は骨折じゃ済まないかもしれない。頭を打つかもしれないし、車にひかれるかもしれない」

「考えたらきりがないね」

「そうなんだよ」

「でも、あの子は行きたいんだよね」

「そうなんだよな」

それ以上、二人とも何も言わなかった。

三十分ほどして、娘がリビングに下りてきた。

「パパ、ご飯まだある?」

電子レンジで温め直すと、娘は黙って食べはじめた。私は向かいに座った。

「日曜日の公園なんだけど」

「うん」

「どうしても行きたい?」

娘は箸を止めて、うなずいた。

「また転ぶかもしれないぞ。今度はもっと大きな怪我をするかもしれない」

「……うん」

「怖くないの」

「怖いよ」

その声が思っていたより小さくて、私は続きを言えなくなった。

「でも、行きたい」

娘はまた食べはじめた。しばらくして、顔を上げた。

「パパ、道教えてくれる?」

「前に教えただろ」

「違う道」

私は娘を見た。

「あの道は嫌なんだ?」

「うん」

「怖いから?」

「それもあるけど」

娘は箸を置いた。

「みんなに、もうあそこ通りたくないって言ったら、別の道でもいいよって」

「そうか」

「でも、どこ通ればいいかわかんない」

私はスマートフォンを出した。

「じゃあ、一緒に見てみるか」

娘は隣に移ってきて、画面の川沿いの道を指さした。

「これ、パパが言ってた道?」

「そう」

「結構遠いじゃん」

「五分くらいだよ」

「五分って結構長いよ」

「そうか?」

「だって、早く遊びたいもん」

娘は笑った。私は地図を広げた。

「じゃあ、こっちは?」

住宅街を抜ける道だった。娘は指で画面をたどり、近くの交差点を確かめた。

「あ、ここ知ってる」

「車が来るから気をつけないとな。この辺は道が狭いから」

「パパ、また全部危ないって言う」

私は口を閉じた。

「ここは、自転車から降りて渡ろうか」

「うん。莉央ちゃんたちに聞いてみる」

娘は自分のスマートフォンを出して、友達にメッセージを打ちはじめた。私が画面を閉じようとすると、止められた。

「パパ、まだ消さないで。道、見ながら送るから」

私はスマートフォンを持ったまま、娘の隣に座っていた。

日曜の朝、娘は七時半から起きていた。玄関で、自分で靴ひもを結んでいた。結び終えると立ち上がった。

「パパ、ヘルメット取って」

「自分で取れるだろ」

「パパのほうが近いじゃん」

棚から取って渡すと、娘はかぶって鏡で前髪を直した。

「変じゃない? ちゃんと見て」

私は前髪を少し整えてやった。

ブレーキは前の日に確かめてあった。それでも、もう一度握ってみた。

「昨日も見てたじゃん」

「今日も見ておきたいんだよ」

「パパって、ほんと心配性だね」

「そうだな」

娘は笑った。

「着いたら連絡するから。行ってきます!」

娘は自転車にまたがって走り出した。角の手前で速度を落とし、左右を見て、またペダルを踏んだ。私は、その姿が見えなくなるまで立っていた。

家に戻ると、妻がコーヒーを淹れていた。

「行った? 大丈夫そうだった?」

「今のところは」

妻は笑わなかった。

「心配だね」

「うん」

コーヒーを飲み終えても、私は席を立たなかった。

「散歩でも行ってきたら?」

妻に言われて、家を出た。

川沿いの遊歩道に着くと、対岸には朝日が当たっていた。こちら側は高架道路の影になっている。少し肌寒かったが、私はいつもの道を歩きはじめた。

しばらくして、スマートフォンが震えた。

『ついたよ!』

友達四人で撮った写真が添えてあった。公園の入口に自転車を並べ、娘は真ん中で笑っていた。

『楽しんでおいで』

そう返して、少し迷ってから、もう一通送った。

『帰りも気をつけて』

『わかってるよ笑』

すぐに返事が来た。私はスマートフォンをポケットにしまった。

もう少し歩くと、高架道路が途切れた。急に日が当たった。私は上着のファスナーを下げた。

娘がいたら、きっと暑いと言うだろう。そう思って、振り返った。

私はまた前を向き、歩きはじめた。

了