日陰
「パパ、寒い」
娘が、三度目の文句を言った。
「歩いてれば暖かくなるよ」
「さっきもそう言った」
十月の日曜日、朝八時を少し過ぎたところだった。川沿いの遊歩道には、走っている人が何人もいた。対岸には朝日が当たっているが、こちら側は高架道路の影に入っている。
「向こう歩こうよ」
「向こうは暑いぞ。帰りは向こうにしよう」
娘は口を尖らせた。
五年生になった娘を散歩に連れ出すのは、前より難しくなっていた。今朝も一度は断られた。帰りにパン屋に寄ることと、午後にゲームの相手をすることを約束して、ようやくついてきてくれたのだ。
「パパ、一人で歩けばいいのに。私も別に歩きたくないんだけど」
「じゃあ、何で来たんだよ」
「パパが行きたいって言ったからじゃん」
もっともだった。
「じゃあ、ありがとな」
「うん。感謝して」
娘は得意そうに笑った。
*
折り返す頃には、娘は寒いと言わなくなっていた。帰りは橋を渡って対岸を歩いた。日向に出ると、娘は両腕を広げた。
「あったかい! 最初からこっちにすればよかったじゃん」
私は笑ってごまかした。
ところが十分も歩くと、今度は額の汗を拭いはじめた。
「暑い。めっちゃ暑い」
「だから言っただろ」
「言わなくていいよ」
水筒のお茶を飲んでから、娘はあたりを見回し、私の腕を引いた。
「パパ、こっち来て。いいから」
言われたとおりにすると、娘は私のすぐ横に寄ってきた。足もとを見ると、私の影の中に入っていた。
「ああ、なるほど」
「何が?」
「何でもない」
娘は影からはみ出さないように歩いた。私が速くなると、娘も速くなる。
「パパ、ゆっくり」
歩幅を小さくした。背はずいぶん伸びた。去年買った靴はもう履けない。それでも、私の影にはまだ収まった。
*
「ねえ、パパ。来週、友達と自転車で遊びに行っていい? 駅の向こうの大きい公園」
自転車なら二十分ほどの場所だった。
「誰と?」
「莉央ちゃんと、結衣ちゃんと、美月ちゃん」
私は道を思い浮かべた。
「あそこなら、川沿いから回ったほうがいいな」
「えー、遠回りじゃん。みんな近いほうから行くって言ってる」
「五分くらいだろ。あの交差点、左に曲がってくる車が多いんだ」
「信号あるじゃん」
「信号があっても危ないところはあるよ。聞いてる?」
「聞いてる」
「じゃあ、川沿いから行くんだぞ」
「……わかった」
娘は私の影から少し離れ、すぐにまた戻ってきた。
「パパ、もうちょっと右」
私は右に寄った。娘は満足すると、公園にある長い滑り台の話を始めた。道の話は、それきりしなかった。
*
翌週の日曜、娘は七時半から起きていた。いつもは何度起こしても布団から出てこないのに、遊びに行く日だけは早い。
「パパ、ヘルメットどこ?」
「玄関だろ」
「ないよ」
見に行くと、靴箱の上にあった。
「そこ見たもん」
「見てないだろ」
私は自転車のタイヤとブレーキを確かめた。
「どっちから行くんだっけ?」
「川沿い。でも莉央ちゃんたちは近いほうがいいって」
「危ないところを説明してあげな。みんなが違う道で行くって言ったら?」
「わかんない。行ってから決める」
もう少し話そうとしたが、娘は先にヘルメットをかぶった。
「パパ、もう行くよ」
「気をつけてな」
「わかってる!」
ペダルを踏んで走り出し、角を曲がる前に一度振り返った。私が手を振ると、娘も片手を上げた。
「両手で持て!」
娘は笑いながらハンドルを握り直した。
家に戻ると、妻が朝食の皿を片づけていた。
「送っていかなかったの? 珍しい」
「もう五年生だからな」
私はコーヒーを淹れ、新聞を開いた。
*
十時四十七分、娘から電話がかかってきた。
「もしもし?」
返事はなかった。代わりに、知らない女性の声がした。
「お父様ですか。お嬢さんが、自転車で転ばれて……」
電話の向こうで、誰かが泣いていた。娘の声だった。
*
女性は、たまたま近くを通りかかった人だった。娘が転ぶのを見て、駆け寄ってくれたらしい。場所を聞くと、私が避けろと言ったあの交差点の近くだった。
救急車を呼んでもらい、妻と家を出た。車の中で、妻は娘の携帯に何度もかけたが、つながらなかった。赤信号で止まった。前の車がなかなか動かない。クラクションに手を伸ばしかけて、やめた。
「落ち着いて」
「落ち着いてるよ」
「そうは見えないけど」
現場には救急車が止まっていた。娘は車内のストレッチャーに座り、左腕を胸の前で支えられていた。頬に擦り傷があった。
「パパ」
私の顔を見るなり、娘は泣き出した。
「痛いよ。すごい痛い」
娘の右手を握った。冷たかった。
救急隊員によると、意識ははっきりしているが、左腕が腫れていて骨が折れているかもしれないという。
「ママとパパ、どっちが一緒に乗る?」
妻が聞くと、娘は私の手を離さなかった。
「パパ」
救急車の中で、娘は何度も痛いと言った。私はそのたびに大丈夫だよと答えた。何が大丈夫なのか、自分でもよくわからなかった。
検査の結果、左腕の骨折だった。ずれは大きくなく、手術はしなくて済みそうだという。頭にも急いで処置するような異常はなかった。娘は固定された腕を見て、顔をしかめた。
「これ、いつ取れるの。来週、ドッジボールなのに」
私は娘の隣に座った。
「どうやって転んだんだ」
娘はうつむいた。
「莉央ちゃんが前にいて、信号が変わりそうになって、止まろうとしたらブレーキ強くかけちゃって」
「あの交差点?」
娘は小さくうなずいた。
「パパ、あそこは車が曲がってくるって言ってたでしょ」
「うん」
「だから、車がいないか見ようと思って……」
娘はそこで言葉を切った。
「近いほうの道、行っちゃった」
私は息を吐いた。
「だから言っただろ。危ないって説明したよな。何で言うこと聞かなかったんだよ」
「ごめんなさい」
娘の目から涙がこぼれた。妻が私の腕に触れた。
「今はやめよう」
私は口を閉じた。娘は右手で涙を拭った。少しして、私はもう一度その手を握った。娘は握り返してきた。
*
三週間が経った。娘は左腕を固定したまま学校に通い、体育は見学、給食の配膳は友達に手伝ってもらい、風呂では妻に髪を洗ってもらっていた。
「パパ、靴ひも」
玄関で呼ばれ、しゃがんで結んでやった。右手だけでも、時間をかければ結べるのかもしれない。けれど呼ばれると、つい立ち上がってしまう。翌朝も娘は私を呼び、私はまた結んだ。
*
修理に出した自転車が戻ってきたのは、その週の土曜日だった。ハンドルの端に、転んだときの傷が残っていた。娘はしゃがんで、その傷を指でなぞった。
「ここ、私がつけたんだよね。結構すごいね」
「よく腕だけで済んだよ」
娘はしばらく傷を見ていた。
「ねえ、パパ。助けてくれた人に、お礼言った?」
「ママが連絡して、伝えたよ」
「そっか。すごく優しかったんだよ。私が泣いてたら、手つないでくれた」
私が着いたとき、娘はもう手当てを受けていた。転んでから私が着くまでのことを、私はほとんど知らない。
「どんな人だった?」
「女の人。ママくらいかな。莉央ちゃんにも優しかった。莉央ちゃん、すっごい泣いてたんだよ。私のほうが痛かったのに」
私もつられて笑った。
「その人、何て言ってくれたの」
「忘れちゃった。でも、ずっといてくれたよ」
娘は自転車のベルを鳴らした。小さな音が玄関に響いた。
「パパ、腕が治ったら、またあの公園行っていい?」
「別の公園じゃ駄目なのか」
「だって、まだ遊んでないじゃん。行く途中で転んじゃったんだもん」
娘は不思議そうな顔をした。
「また同じことになったらどうする」
「同じ道は通らないよ」
「ほかの道だって転ぶかもしれないだろ」
「じゃあ、どこにも行けないじゃん」
私は答えなかった。
「治ってから考えよう」
「えー、またそれ?」
娘は鍵を持って家に入っていった。私は自転車を壁際に寄せた。
*
固定が外れ、医者から運動していいと言われても、娘はすぐには自転車に乗らなかった。初めて練習に出た日は、近所の公園を一周しただけだった。
「怖い?」
「ちょっと」
「今日はもうやめとくか」
「もう一回」
娘はもう一周した。角を曲がるたびに私は身構えたが、娘は転ばなかった。翌週には、私より速く走るようになっていた。
それでも、あの公園に行きたいと言われると、私はうなずけなかった。
「もう少し近くで遊んだら?」
「前は行っていいって言ったじゃん」
「あれは怪我する前だろ」
「もう治ったよ」
「そういうことじゃないんだ」
「じゃあ、いつになったらいいの。来月? 六年生になったら?」
「とにかく、今週は駄目」
娘は椅子を引いて立ち上がった。
「パパ、ずるい。いつも、あとでって言うじゃん」
娘は自分の部屋に戻っていった。妻は、食卓に残された娘の皿を片づけた。
*
その夜、妻に聞いた。
「やっぱり、行かせたほうがいいと思う?」
「わからない。私だって怖いし」
妻はすぐに答えた。
「でも、もう治ったんだよね。自転車も乗れてるし。じゃあ、何が心配なの」
「また怪我することだよ。次は骨折じゃ済まないかもしれない。頭を打つかもしれないし、車にひかれるかもしれない」
「考えたらきりがないね」
「そうなんだよ」
「でも、あの子は行きたいんだよね」
「そうなんだよな」
それ以上、二人とも何も言わなかった。
*
三十分ほどして、娘がリビングに下りてきた。
「パパ、ご飯まだある?」
電子レンジで温め直すと、娘は黙って食べはじめた。私は向かいに座った。
「日曜日の公園なんだけど」
「うん」
「どうしても行きたい?」
娘は箸を止めて、うなずいた。
「また転ぶかもしれないぞ。今度はもっと大きな怪我をするかもしれない」
「……うん」
「怖くないの」
「怖いよ」
その声が思っていたより小さくて、私は続きを言えなくなった。
「でも、行きたい」
娘はまた食べはじめた。しばらくして、顔を上げた。
「パパ、道教えてくれる?」
「前に教えただろ」
「違う道」
私は娘を見た。
「あの道は嫌なんだ?」
「うん」
「怖いから?」
「それもあるけど」
娘は箸を置いた。
「みんなに、もうあそこ通りたくないって言ったら、別の道でもいいよって」
「そうか」
「でも、どこ通ればいいかわかんない」
私はスマートフォンを出した。
「じゃあ、一緒に見てみるか」
娘は隣に移ってきて、画面の川沿いの道を指さした。
「これ、パパが言ってた道?」
「そう」
「結構遠いじゃん」
「五分くらいだよ」
「五分って結構長いよ」
「そうか?」
「だって、早く遊びたいもん」
娘は笑った。私は地図を広げた。
「じゃあ、こっちは?」
住宅街を抜ける道だった。娘は指で画面をたどり、近くの交差点を確かめた。
「あ、ここ知ってる」
「車が来るから気をつけないとな。この辺は道が狭いから」
「パパ、また全部危ないって言う」
私は口を閉じた。
「ここは、自転車から降りて渡ろうか」
「うん。莉央ちゃんたちに聞いてみる」
娘は自分のスマートフォンを出して、友達にメッセージを打ちはじめた。私が画面を閉じようとすると、止められた。
「パパ、まだ消さないで。道、見ながら送るから」
私はスマートフォンを持ったまま、娘の隣に座っていた。
*
日曜の朝、娘は七時半から起きていた。玄関で、自分で靴ひもを結んでいた。結び終えると立ち上がった。
「パパ、ヘルメット取って」
「自分で取れるだろ」
「パパのほうが近いじゃん」
棚から取って渡すと、娘はかぶって鏡で前髪を直した。
「変じゃない? ちゃんと見て」
私は前髪を少し整えてやった。
ブレーキは前の日に確かめてあった。それでも、もう一度握ってみた。
「昨日も見てたじゃん」
「今日も見ておきたいんだよ」
「パパって、ほんと心配性だね」
「そうだな」
娘は笑った。
「着いたら連絡するから。行ってきます!」
娘は自転車にまたがって走り出した。角の手前で速度を落とし、左右を見て、またペダルを踏んだ。私は、その姿が見えなくなるまで立っていた。
家に戻ると、妻がコーヒーを淹れていた。
「行った? 大丈夫そうだった?」
「今のところは」
妻は笑わなかった。
「心配だね」
「うん」
コーヒーを飲み終えても、私は席を立たなかった。
「散歩でも行ってきたら?」
妻に言われて、家を出た。
*
川沿いの遊歩道に着くと、対岸には朝日が当たっていた。こちら側は高架道路の影になっている。少し肌寒かったが、私はいつもの道を歩きはじめた。
しばらくして、スマートフォンが震えた。
『ついたよ!』
友達四人で撮った写真が添えてあった。公園の入口に自転車を並べ、娘は真ん中で笑っていた。
『楽しんでおいで』
そう返して、少し迷ってから、もう一通送った。
『帰りも気をつけて』
『わかってるよ笑』
すぐに返事が来た。私はスマートフォンをポケットにしまった。
もう少し歩くと、高架道路が途切れた。急に日が当たった。私は上着のファスナーを下げた。
娘がいたら、きっと暑いと言うだろう。そう思って、振り返った。
私はまた前を向き、歩きはじめた。
了