書き下ろしミステリー

返品された土曜日

約2,906字 読了目安 約6分 2026年10月29日 公開

土曜日の売上だけが、月曜日になると消えていた。

正確には、レジの記録には残っている。ただ、売れたはずの本が店に戻り、代金が返品として引き出されている。

父の書店を畳むために帰ってきた私は、同じ絵本が四週続けて返品されているのを見つけた。

父が入院してから、店は店員の佐伯さんに任せきりだった。

私は東京で勤めていて、戻れるのは週末だけ。閉店まで三週間というところで、ようやく休みをまとめて取った。

佐伯さんは六十二歳で、父より店のことを知っていた。私が小学生のころから、店先の植木に水をやっている。

「返品って、こんなにあるものですか」

帳簿を示すと、佐伯さんは眼鏡を掛け直した。

「その本は、少し特別で」

「どう特別なんですか」

返事の前に客が来た。佐伯さんは帳簿を伏せ、いつもの声で挨拶した。

絵本は『くじらの駅』という。表紙に、鯨の背中を走る小さな電車が描かれている。千四百円。棚には同じものが五冊あった。一冊だけ、角がつぶれていた。

返品伝票は、すべて月曜日。担当者欄は佐伯。理由は〈商品相違〉。

その夜、半年分の伝票を調べた。

同じ絵本の返品が、二十件あった。毎回、土曜日の午後二時台に売れて、月曜日の朝九時台に返品されている。

現金を少しずつ抜くなら、もっと目立たない本にしそうなものだ。

そう思う一方で、手順を変えないことが、かえって見つかりにくいのかもしれないとも思った。

帳簿を閉じるとき、手のひらが湿っていた。

防犯カメラの映像を見た。

土曜日には、小さな男の子と母親が映っていた。月曜日に戻ってくるのは、母親だけだった。カウンターに本を置き、何度か頭を下げる。佐伯さんは、レジから代金を出していた。

確かに、客に返している。

それなのに私は、母親と佐伯さんが知り合いなら、と考えた。

考えてから、画面を閉じた。何を見ても疑うつもりなら、映像を調べる意味がなかった。

翌朝、土曜日は私も店にいると佐伯さんに伝えた。

「ええ。お昼は、裏の定食を頼みましょうか」

いつもと同じ返事だった。中学生のころ、父と喧嘩して裏口から帰ろうとすると、佐伯さんは必ず食べ物の話をした。

今は、その懐かしさにまで用心している自分が嫌だった。

金曜日、父の病室へ行った。

父は窓の外のクレーンを見ていた。閉店の話をするときだけ、私のほうを向かなくなる。

「『くじらの駅』って、覚えてる?」

「棚の下から二段目」

場所はすぐに答えた。

「毎週、返品されてるんだけど」

父は膝の上のタオルを畳んだ。半分にして、もう半分にした。

「佐伯に聞いてくれ」

土曜日の二時十分、男の子が店に入ってきた。

小学一年生くらいだろう。紺色の財布を両手で持っていた。後ろから、灰色の上着の女性が入る。

「これ、ください」

男の子が『くじらの駅』を差し出した。角のつぶれた一冊だった。

男の子は財布から、千円札と百円玉を並べた。百円玉は四枚。一枚ずつ指で押して数え、足りていることを確かめた。

「ちょうど、お預かりします」

佐伯さんが紙袋に本を入れた。男の子は袋を抱え、入口で振り返った。

「また来週」

「はい。また来週」

客がいなくなると、佐伯さんはレジの引き出しを閉めた。

「お話しします」

その声は、叱られる前の私が出していた声に似ていた。

男の子は、同じ本を買うことで、買い物の練習をしているのだという。

毎週同じ時刻に来て、同じ金額を払い、同じやりとりをする。

最初は品物を受け取る前に帰ってしまった。財布を開けられない日もあった。母親が代わりに払うと、やり直したがった。

「本が家に何冊もたまって。それで、お母さんが、買っては戻すのをお願いできないかって」

月曜日に、母親が本とレシートを持ってくる。代金を返し、それを次の土曜日に使ってもらう。

「店長が始めたことです。私が引き継ぎました」

胸の奥の硬いものが、少しほどけた。

続いて、別のものが引っ掛かった。

「閉店することは、伝えてあるんですか」

佐伯さんの手が止まった。

「まだです」

「当日、シャッターが閉まっていたら?」

佐伯さんは植木鉢を持ち上げ、受け皿にたまった水を、店先の溝に捨てた。

それ以上は言わなかった。

日曜日、棚に閉店のお知らせを貼った。

月曜日の朝、男の子の母親が来た。

貼り紙を見つけると、入口で足を止めた。

「あと二週間ですか」

「はい。もっと早く、お伝えすればよかったです」

「私も、聞かなかったから」

母親は、紙袋から本を出した。角のつぶれた『くじらの駅』。

「今日は、返品しに来たんじゃないんです」

レシートの裏に、鉛筆で字が書かれていた。

〈さいごは、ぼくの〉

「土曜日に帰ってから、ここに書いてって言われました。本屋さん、いつまであるの、とも」

私は貼り紙の日付を見た。これを貼ったのは昨日だ。

「先月、荷造りの箱を見たんです。それから、毎週、箱が増えてるのを数えていたみたいで」

私たちが言い出せないでいた間に、男の子は店の変化を見ていた。

「最後の買い物の日を、決めていいですか」

母親が言った。

「最後の日に、また来週って言わない練習をしたいんです」

私は新しい紙を一枚、母親の前に置いた。営業時間と閉店の日を書き、空欄を残してペンを渡した。

母親はその空欄に、男の子が来られる土曜日の日付を書いた。

その夜、私は店の奥に積んでいた段ボールを倉庫へ運び、通路の幅を戻した。

売りやすいようにと、商品を入口に集めていた。自分では営業中のつもりだったが、入ってくる人には、店の中を歩くたびに終わりを見せていたのだ。

佐伯さんは何も聞かず、空いた床に掃除機を掛けた。

最後の土曜日、男の子は母親より先に入ってきた。

いつもの一冊を持ってきて、千四百円を並べる。動作は、先週と同じだった。

佐伯さんがレジを打ち、紙袋を渡す。

男の子は、その場を動かなかった。

「今日は、返品しません」

「ありがとうございます」

男の子は財布を閉じた。留め金が一度では留まらず、やり直した。

「また来週は、ありません」

大きな声だった。店の奥まで届いた。

「はい」

佐伯さんが答えた。

男の子は一歩、入口のほうへ進んで、また振り返った。

「でも、ありがとうは、あります」

佐伯さんがカウンターから出てきた。膝を少しかがめ、男の子と同じ高さで頭を下げた。

男の子はガラス戸を押した。いつもなら母親が押さえている重い戸を、自分で開けて、待った。

閉店後、私は帳簿の最後のページを開いた。

千四百円。『くじらの駅』。

月曜日の欄に、初めて何も書かずに済んだ。

「お金を抜いてるのかと、思いました」

私が言うと、佐伯さんは手を止めた。

「それは、きちんと言ってくださらないと」

「すみません」

「私も、説明しないといけませんでしたけど」

しばらくして、二人とも笑った。

翌日、父の病室へ、最後の売上表を持っていった。

その上に、男の子のレシートの写しを重ねた。母親が、店長さんにと言って置いていったものだった。

〈さいごは、ぼくの〉

父は、その字を長いこと見ていた。

「また来週、って言わずに済んだか」

「言わなかったよ。あの子が、自分で」

父は窓のほうを向いた。クレーンが、ゆっくり回っていた。

「そうか」

父は、レシートを畳まなかった。

膝の上で、ずっと、平らに持っていた。

了