書き下ろしホラー

拍手は隣から

約2,865字 読了目安 約6分 2026年10月29日 公開

隣の部屋から、拍手が聞こえる。

最初は、一人ぶんだった。

私が壁を叩いて静かにしてほしいと知らせると、拍手はやんだ。

翌晩には、二人になっていた。

引っ越して十日目だった。

建物の三階、角部屋。隣との間には、薄い壁が一枚ある。壁に向けて机を置いたので、向こうの音はよく聞こえた。

拍手は、夜十一時ごろに始まった。

ぱち、ぱち、ぱち。

速度は遅く、十回ほどで終わる。テレビの音はしない。笑い声も、話し声もない。誰かが動画でも見て、一人で拍手しているのだろうと思った。

三日目、私は壁を二度叩いた。

拍手はすぐに止まった。

そのあと、向こうから同じ強さで二度、叩き返された。

すみません、という返事の代わりだと思った。

次の晩、音が増えた。

近い、ぱちぱち、という音。その後ろに重なる、少し遅い、ぱち、ぱち。

隣の部屋の広さは、私の部屋と同じくらいだ。二人なら住める。特別おかしいことではない。

でも、拍手だけをする二人が、毎晩十一時に集まるだろうか。

携帯で録音した。スピーカーで聞くと、小さな音が二重に入っていた。

小さな部屋で、人が手を打つ音だった。

その晩は、壁を叩かなかった。

布団を窓側に寄せ、イヤホンを入れて寝た。

眠りに落ちる前、イヤホンの音楽の切れ目に、ぱち、と一度だけ聞こえた。

私が叩かなかったので、向こうが先に叩いたのだと思った。

翌朝、管理会社へ連絡した。

担当の男性は、隣は空室です、と言った。

「先月末から、まだ募集しているところです」

録音を送ると、男性は、配管かもしれませんね、と言った。それから、少し間を置いた。

「前にそちらのお部屋に住んでいた方からも、同じご相談があったんです。隣がうるさいって。そのときも、隣は空いていたんですが」

夕方、男性と一緒に隣へ入った。

私の部屋と左右が逆なだけで、間取りは同じだった。何も置いていない床。カーテンのない窓。

私の机があるはずの壁を見た。

壁紙の下のほうが、黒ずんでいた。床から四十センチほどの高さに、横に細長く。

「前の方の、家具の跡かと」

男性は浴室の点検口も開け、携帯の明かりを向けた。むき出しの管と、細い金属の棒が見えた。人が入れる広さはなかった。

「前にお住まいだった方は、どうされたんですか」

私が聞くと、男性は鍵束を持ち直した。

「半年ほどで、解約されました。急なお引っ越しで、荷物も業者さん任せで」

男性はそう言って、鍵を掛けた。

今夜も聞こえたら連絡してください、と言い残して帰っていった。

私は自分の部屋に戻り、机を壁から離した。

十一時、拍手が始まった。

今度は三人、いや、もっといた。早い手拍子と遅い手拍子が、ばらばらに鳴る。隣の部屋いっぱいに、人が立っているようだった。

壁へ近づくと、拍手は止まった。

離れると、また始まった。

私は鞄に財布と鍵を入れた。靴を履いていると、拍手が一斉に速くなった。

まるで、私が出ていくのを喜んでいるようだった。

廊下に出て、階段へ向かった。

一段降りたところで、後ろから拍手がした。

玄関ではなく、窓からだった。

私の部屋には、共用廊下に面した台所の小さな窓がある。すりガラスに、人の影が重なっていた。

頭の丸い形が、五つ。もっと奥にも、何かが動いている。

窓の下のほうに、白いものが見えた。

手だった。

ガラスの内側で、何組もの手が開き、閉じていた。

私は階段を駆け下りた。

通りのコンビニから警察に電話した。

二人の警察官が来て、部屋を調べた。玄関も窓も壊されていない。押し入れも浴室も、誰もいなかった。

「見間違いとは言いません。ただ、今は人がいません」

警察官の一人が、私がタクシーに乗るまで待ってくれた。

ドアが閉まるとき、三階を見上げた。台所の窓には、誰の影もなかった。

私は姉の家へ泊まった。

拍手は聞こえなかった。姉が皿を重ねる音に、何度か体が跳ねた。

翌朝、管理会社の男性から電話が来た。

私は契約を終えたいと伝えた。費用の話は、あとでよかった。

男性は少し黙り、まずお荷物を取りに来られますか、と言った。

昼の一時、姉と男性と三人で部屋へ向かった。

車の中で、姉は私の録音を聞いた。

「隣の部屋、空いてるんだよね」

「昨日、見た」

姉はイヤホンを外して、私に返した。話を否定はしなかったが、窓の影のことは、もう一度聞いた。

私は、手が動いていた、とだけ答えた。

昼間の部屋は、何も変わっていなかった。

私は服を袋へ詰め、姉はパソコンと充電器をまとめた。

男性は台所の窓の鍵を確かめていた。

私は机を見た。

昨日、壁から離したところに、薄い汚れが付いていた。

隣の部屋の黒ずみと、同じ高さだった。

近づくと、黒い筋が幾つも重なっていた。

手の跡だった。

手首から先だけの形が、横一列に並んでいる。大きな手、小さな手。

隣の黒ずみも、これだったのだと思った。

壁を挟んで、両側から、手を当てていた跡だった。

前に住んでいた人も、きっと壁を叩いたのだ。

静かにしてほしくて。

向こうは、叩き返した。

「触らないで」

姉が、私より先に言った。

私の手は、壁のすぐ手前で止まっていた。

男性が近づいてきて、携帯を出した。

「写真を残します」

撮ろうとした瞬間、壁の向こうで一度、ぱん、と鳴った。

三人とも動かなかった。

もう一度、ぱん。

「……聞こえましたね」

私が言うと、男性はうなずいた。

姉が、私の肘をつかんだ。

そのとき、壁の手形が、一つ動いた。

汚れではなかった。

壁の中から、手のひらが押し付けられていた。平らだった壁紙が、指の形に盛り上がった。

男性が先に玄関を開けた。

三人で廊下へ出て、扉を閉めると、向こうで拍手が始まった。

何十人もの人が、狭い部屋で手を叩いていた。

私は階段の一段目で、振り返った。

台所のすりガラスに、丸い頭が詰まっていた。

窓の上の端まで、小さな頭が積み重なっている。

姉が、息をのんだ。

その音を聞いて、窓の頭が一斉にこちらを向いた。

顔は見えない。それでも、向いたとわかった。

拍手が、止まった。

三人で、駅前の喫茶店まで歩いた。

ガラス越しに、人のいる席を確かめてから入った。

男性が水を飲んだとき、手の甲に黒い線が見えた。

私は自分の右手を見た。

親指の付け根に、薄い黒ずみがあった。壁には、触っていない。

姉も、自分の手を見ていた。

三人とも、片方の手に同じ形が付いていた。小さな手のひら。指は五本だった。

男性がナプキンで拭いた。落ちなかった。

私は、壁を叩いた夜を思い出した。

二度叩くと、二度返ってきた。次の夜、拍手が増えた。

あれは、返事だったのではない。迎え入れる合図だったのだ。

今日、私たちは三人で、あの拍手を聞いた。

三人で、あの頭に見られた。

男性の後ろは、大きな鏡だった。客席が映っている。窓際の老夫婦。奥で新聞を読む男。

その間に、座っていないはずの人の頭があった。

鏡の中でだけ、少しずつ、数が増えていた。

私たちは、両手を机の下に下ろした。

互いの手を、握らないようにした。

それでも、右の手のひらが、ゆっくり左の手のひらへ近づいていく。

私が動かしているのではなかった。

姉の膝の上で、姉の手も、同じ形に開いていた。

机の下で、最初の一拍が鳴った。

了