拍手は隣から
隣の部屋から、拍手が聞こえる。
最初は、一人ぶんだった。
私が壁を叩いて静かにしてほしいと知らせると、拍手はやんだ。
翌晩には、二人になっていた。
*
引っ越して十日目だった。
建物の三階、角部屋。隣との間には、薄い壁が一枚ある。壁に向けて机を置いたので、向こうの音はよく聞こえた。
拍手は、夜十一時ごろに始まった。
ぱち、ぱち、ぱち。
速度は遅く、十回ほどで終わる。テレビの音はしない。笑い声も、話し声もない。誰かが動画でも見て、一人で拍手しているのだろうと思った。
三日目、私は壁を二度叩いた。
拍手はすぐに止まった。
そのあと、向こうから同じ強さで二度、叩き返された。
すみません、という返事の代わりだと思った。
次の晩、音が増えた。
近い、ぱちぱち、という音。その後ろに重なる、少し遅い、ぱち、ぱち。
隣の部屋の広さは、私の部屋と同じくらいだ。二人なら住める。特別おかしいことではない。
でも、拍手だけをする二人が、毎晩十一時に集まるだろうか。
携帯で録音した。スピーカーで聞くと、小さな音が二重に入っていた。
小さな部屋で、人が手を打つ音だった。
その晩は、壁を叩かなかった。
布団を窓側に寄せ、イヤホンを入れて寝た。
眠りに落ちる前、イヤホンの音楽の切れ目に、ぱち、と一度だけ聞こえた。
私が叩かなかったので、向こうが先に叩いたのだと思った。
*
翌朝、管理会社へ連絡した。
担当の男性は、隣は空室です、と言った。
「先月末から、まだ募集しているところです」
録音を送ると、男性は、配管かもしれませんね、と言った。それから、少し間を置いた。
「前にそちらのお部屋に住んでいた方からも、同じご相談があったんです。隣がうるさいって。そのときも、隣は空いていたんですが」
夕方、男性と一緒に隣へ入った。
私の部屋と左右が逆なだけで、間取りは同じだった。何も置いていない床。カーテンのない窓。
私の机があるはずの壁を見た。
壁紙の下のほうが、黒ずんでいた。床から四十センチほどの高さに、横に細長く。
「前の方の、家具の跡かと」
男性は浴室の点検口も開け、携帯の明かりを向けた。むき出しの管と、細い金属の棒が見えた。人が入れる広さはなかった。
「前にお住まいだった方は、どうされたんですか」
私が聞くと、男性は鍵束を持ち直した。
「半年ほどで、解約されました。急なお引っ越しで、荷物も業者さん任せで」
男性はそう言って、鍵を掛けた。
今夜も聞こえたら連絡してください、と言い残して帰っていった。
私は自分の部屋に戻り、机を壁から離した。
*
十一時、拍手が始まった。
今度は三人、いや、もっといた。早い手拍子と遅い手拍子が、ばらばらに鳴る。隣の部屋いっぱいに、人が立っているようだった。
壁へ近づくと、拍手は止まった。
離れると、また始まった。
私は鞄に財布と鍵を入れた。靴を履いていると、拍手が一斉に速くなった。
まるで、私が出ていくのを喜んでいるようだった。
廊下に出て、階段へ向かった。
一段降りたところで、後ろから拍手がした。
玄関ではなく、窓からだった。
私の部屋には、共用廊下に面した台所の小さな窓がある。すりガラスに、人の影が重なっていた。
頭の丸い形が、五つ。もっと奥にも、何かが動いている。
窓の下のほうに、白いものが見えた。
手だった。
ガラスの内側で、何組もの手が開き、閉じていた。
私は階段を駆け下りた。
*
通りのコンビニから警察に電話した。
二人の警察官が来て、部屋を調べた。玄関も窓も壊されていない。押し入れも浴室も、誰もいなかった。
「見間違いとは言いません。ただ、今は人がいません」
警察官の一人が、私がタクシーに乗るまで待ってくれた。
ドアが閉まるとき、三階を見上げた。台所の窓には、誰の影もなかった。
私は姉の家へ泊まった。
拍手は聞こえなかった。姉が皿を重ねる音に、何度か体が跳ねた。
翌朝、管理会社の男性から電話が来た。
私は契約を終えたいと伝えた。費用の話は、あとでよかった。
男性は少し黙り、まずお荷物を取りに来られますか、と言った。
昼の一時、姉と男性と三人で部屋へ向かった。
車の中で、姉は私の録音を聞いた。
「隣の部屋、空いてるんだよね」
「昨日、見た」
姉はイヤホンを外して、私に返した。話を否定はしなかったが、窓の影のことは、もう一度聞いた。
私は、手が動いていた、とだけ答えた。
昼間の部屋は、何も変わっていなかった。
私は服を袋へ詰め、姉はパソコンと充電器をまとめた。
男性は台所の窓の鍵を確かめていた。
私は机を見た。
昨日、壁から離したところに、薄い汚れが付いていた。
隣の部屋の黒ずみと、同じ高さだった。
近づくと、黒い筋が幾つも重なっていた。
手の跡だった。
手首から先だけの形が、横一列に並んでいる。大きな手、小さな手。
隣の黒ずみも、これだったのだと思った。
壁を挟んで、両側から、手を当てていた跡だった。
前に住んでいた人も、きっと壁を叩いたのだ。
静かにしてほしくて。
向こうは、叩き返した。
「触らないで」
姉が、私より先に言った。
私の手は、壁のすぐ手前で止まっていた。
男性が近づいてきて、携帯を出した。
「写真を残します」
撮ろうとした瞬間、壁の向こうで一度、ぱん、と鳴った。
三人とも動かなかった。
もう一度、ぱん。
「……聞こえましたね」
私が言うと、男性はうなずいた。
姉が、私の肘をつかんだ。
そのとき、壁の手形が、一つ動いた。
汚れではなかった。
壁の中から、手のひらが押し付けられていた。平らだった壁紙が、指の形に盛り上がった。
男性が先に玄関を開けた。
三人で廊下へ出て、扉を閉めると、向こうで拍手が始まった。
何十人もの人が、狭い部屋で手を叩いていた。
私は階段の一段目で、振り返った。
台所のすりガラスに、丸い頭が詰まっていた。
窓の上の端まで、小さな頭が積み重なっている。
姉が、息をのんだ。
その音を聞いて、窓の頭が一斉にこちらを向いた。
顔は見えない。それでも、向いたとわかった。
拍手が、止まった。
*
三人で、駅前の喫茶店まで歩いた。
ガラス越しに、人のいる席を確かめてから入った。
男性が水を飲んだとき、手の甲に黒い線が見えた。
私は自分の右手を見た。
親指の付け根に、薄い黒ずみがあった。壁には、触っていない。
姉も、自分の手を見ていた。
三人とも、片方の手に同じ形が付いていた。小さな手のひら。指は五本だった。
男性がナプキンで拭いた。落ちなかった。
私は、壁を叩いた夜を思い出した。
二度叩くと、二度返ってきた。次の夜、拍手が増えた。
あれは、返事だったのではない。迎え入れる合図だったのだ。
今日、私たちは三人で、あの拍手を聞いた。
三人で、あの頭に見られた。
男性の後ろは、大きな鏡だった。客席が映っている。窓際の老夫婦。奥で新聞を読む男。
その間に、座っていないはずの人の頭があった。
鏡の中でだけ、少しずつ、数が増えていた。
私たちは、両手を机の下に下ろした。
互いの手を、握らないようにした。
それでも、右の手のひらが、ゆっくり左の手のひらへ近づいていく。
私が動かしているのではなかった。
姉の膝の上で、姉の手も、同じ形に開いていた。
机の下で、最初の一拍が鳴った。
了