玄関まで
「奥さんに、全部話そうと思う」
向かいの席で、美月さんが言った。
私はコーヒーを持ち上げたまま、しばらく動けなかった。
「会いに行くの?」
「うん。もう逃げたくないから」
彼女は、私がその奥さんだと知らない。
*
夫の浩一と結婚して、十三年になる。
子どもはいない。二人で暮らすには少し広い家を買い、休日は別々の用事を済ませて、夕方になると同じ食卓についた。
去年の冬、私は共有のパソコンで、夫が予約した旅館の確認メールを見つけた。
二人分の宿泊予約だった。
日付は、夫が出張すると言っていた金曜日。
同行者の欄に、美月という名前があった。名字も書かれていたので、あとで探すことができた。
夫に見せると、しばらく画面を見つめてから言った。
「もう終わってる」
いつ終わったのかは、答えなかった。
私はそれ以上、聞けなかった。
二週間後、夫はまた金曜日に帰りが遅くなった。
私は食卓に二人分の皿を並べ、片方にラップをかけた。
朝になっても、その皿は冷蔵庫に残っていた。
名前を手がかりに探すと、駅前のパン教室の写真が見つかった。
美月さんは小麦粉のついた指で、焼き上がったパンを持ち上げていた。
私より八つ若い。よく笑う人だった。
翌月、私はその教室に申し込んだ。
近くで見れば、嫌いになれると思った。
夫が選んだ女の、気に入らないところを集めるつもりだった。
スマートフォンに、そのための記録を作った。
夫を問い詰める日に、全部並べて見せるために。
*
教室では、下の名前を書いた小さな札を胸につけた。
私は「佳奈」と書いた。旧姓で呼ばれていたころの、友達だけが使う呼び名だった。美月さんは、私の名字を一度も尋ねなかった。
初めて会った日、美月さんは私のエプロンのひもを結んでくれた。
自分では背中に手が届かず、もたもたしていたからだ。
「佳奈さん、きつくない?」
「大丈夫。ありがとう」
写真よりずっと普通の人だった。
少し乾いた唇。爪の先のささくれ。
レシピを読み間違えて、慌てて小麦粉を足す手。
その夜、記録に一行目を書いた。
〈レシピを読まずに始める〉
書いてみると、悪口にもならなかった。
帰り道、彼女は駅まで一緒だった。
「パン、家で食べる人いる?」
「夫が」
「そっか。いいね」
その言い方が、妙にうらやましそうだった。
私は何かを言ってしまいそうになり、袋の口を握り直した。
*
教室に通い始めて三か月ほどで、私たちは授業のあとにも会うようになった。
彼女は駅前の文房具店で働いていた。
休憩時間が合う日は、近くの喫茶店で話した。
美月さんは、人の話を途中で取らない。
私が母の通院の付き添いで疲れていると話したときも、「大変だね」と決めつけず、「今日は何時に帰れるの」と聞いた。
一度、母が急に入院して、私は教室を休んだ。
その夜、美月さんからメッセージが来た。
〈今日のパン、先生が冷凍してくれたよ。次に会うとき持っていくね〉
二日後、彼女は病院の最寄り駅までパンを届けに来た。
改札の外で袋を渡すと、すぐ帰ろうとした。
「せっかく来てくれたのに」
「佳奈さん、早く戻ってあげて。私、寄り道のついでだから」
あとで袋を開けると、パンは一個ずつ包んであった。
母の分もあるのだと、すぐにわかった。
その夜、母の病室でパンを半分に割ってから、記録の画面を開いた。
〈病院まで来た〉
そこまで書いて、消した。
記録は、それきり増えなくなった。
*
美月さんが秘密を打ち明けたのは、春の終わりだった。
「誰にも言ってなかったんだけど」
彼女はそう前置きしてから、付き合って三年になる男性がいると話した。
「奥さんがいる人なの」
「……そう」
「軽蔑する?」
私は首を振れなかった。
彼女はカップの取っ手を何度も持ち替えた。
「最初は、別れるって言ってた。最近は、奥さんとはもう話がついてるって」
私の夫は、家ではそんな話を一度もしていない。
「信じてるの?」
「信じたい、かな」
美月さんは笑った。
笑い方だけが、教室でパンを焦がしたときと同じだった。
「やめたほうがいいと思う」
言ったあと、自分でも驚いた。
それは妻としての言葉だったのか、友達としての言葉だったのか。
「そうだよね」
美月さんはうつむいた。
「佳奈さんは、ちゃんと言ってくれるから好き」
その日、帰宅してから夫に夕飯を出した。
夫はテレビを見ながら「今日、パン教室だった?」と聞いた。
「そう」
「楽しそうでよかった」
私は味噌汁をよそい直した。
楽しいことがあったような顔をしていたのだろうか。
*
夏になると、美月さんは彼と会う回数を減らした。
メッセージにすぐ返事をしないようにしている、と教えてくれた。
休みの日には、一人で映画を見に行った。
私は彼女を応援した。
本当に、応援していた。
ある日、帰り道で夫に電話をした。
「今夜、何時に帰る?」
「遅くなる。先に食べてて」
その声を聞いても、もう美月さんと一緒にいるのかどうか、確かめたいとは思わなかった。
それより、彼女が今日はちゃんと夕飯を食べているかが気になった。
次の週、美月さんは教室を休んだ。
翌週も来なかった。
〈大丈夫?〉と送ると、〈少し考えたいことがある〉と返ってきた。
*
久しぶりに会った美月さんは、テーブルの上にスマートフォンを置いた。
「彼から、また連絡が来たの」
画面には、短いメッセージが並んでいた。
〈妻には全部話した〉
〈今は時間が必要なだけだ〉
〈君にも待ってほしい〉
夫は私に、何も話していない。
あの冬、私が見つけたことを知っているだけだ。
「私、これを信じたかった」
美月さんは言った。
「でも、それも彼から聞いただけなんだよね。奥さんは本当に知ってるのって聞いたら、『知ってるから大丈夫だ』って」
大丈夫。
その言葉を、夫は私にも使う。
母の病状を尋ねたあとも、私が眠れないと話した夜も。
何も確かめずに、大丈夫だよ、と言う。
「だから、私が直接話すことにした」
美月さんはスマートフォンを裏返した。
「奥さんが知ってるなら、会って謝りたい。知らないなら、知ってもらいたい」
「謝ったら、気が済む?」
私は聞いた。
美月さんは少し考えた。
「気は済まないと思う。でも、知らないままでいいかどうかを、私が決めるのは違う気がする」
私の喉が詰まった。
私は、もう知っている。
そのことを、美月さんは知らない。
「会いに行かない方がいいと思う」
「どうして?」
「奥さんが、今の暮らしを続けたいと思ってるかもしれないから」
美月さんは黙った。
その沈黙のあいだ、私は自分の言葉を聞いていた。
「でも、それも奥さんが決めることじゃない?」
私は答えられなかった。
「佳奈さんに、ひとつ頼みがあるの」
美月さんは、一人で行くのが怖いと言った。
相手の家まで、付き添ってほしいのだという。
「玄関まででいい。話すのは私がやるから」
私は断った。
彼女は「そっか」と言って、それ以上頼まなかった。
その夜、彼女からメッセージが届いた。
〈今日まで話を聞いてくれてありがとう。明日、一人で行ってくる〉
私は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
記録の画面を開いた。最初の一行のほかは、何もなかった。
私はそれを消してから、返事を打った。
〈待って。私も行く〉
送信してから、手が震えた。
*
翌日の午後、駅前で待ち合わせた。
美月さんはいつもの服を着ていた。髪だけ、きちんと結んでいた。
「ごめんね、巻き込んじゃって」
「ううん」
私は、最初から巻き込まれている。
道順は彼女が知っていた。
以前、彼を家の近くまで送ったことがあるのだという。
「近くまで来たら、やっぱり帰りたくなるかも」
「帰ってもいいよ」
「佳奈さんは、私が帰った方がいいと思う?」
私は返事をしなかった。
彼女は歩きながら、何度もバッグの中の封筒を確かめた。
そのたびに、金具が小さく鳴った。
角を曲がると、見慣れた白い塀が見えた。
庭の木が、夏のあいだに少し伸びていた。
「ここ」
美月さんが足を止めた。
門の表札には、夫と私の名字が書いてある。
「佳奈さん、ありがとう。ここで大丈夫」
彼女は深く息を吸った。
私は、彼女の背中を見ていた。
このまま帰ればいい。
私が付き添ったことは、夫にも知られない。
美月さんが一人でベルを押し、夫が出て、二人で話す。
私は、何も知らない妻のままでいられる。
そのとき、美月さんが振り向いた。
「私ね、佳奈さんに会えてよかった」
彼女は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「どんな話をしても、最後まで聞いてくれたから」
私はバッグの中に手を入れた。
「美月さん」
「うん?」
鍵束を取り出すと、彼女の目がそこに止まった。
「ごめんなさい」
それだけ言って、私は門を開けた。
玄関の鍵を回す音が、思ったより大きく響いた。
美月さんは、動かなかった。
私はドアを開け、彼女が通れるだけの隙間をつくった。
長い沈黙のあと、美月さんは小さく頭を下げた。
「……お邪魔します」
私は答えた。
「ただいま」
了