書き下ろしイヤミス

玄関まで

約3,545字 読了目安 約7分 2026年10月29日 公開

「奥さんに、全部話そうと思う」

向かいの席で、美月さんが言った。

私はコーヒーを持ち上げたまま、しばらく動けなかった。

「会いに行くの?」

「うん。もう逃げたくないから」

彼女は、私がその奥さんだと知らない。

夫の浩一と結婚して、十三年になる。

子どもはいない。二人で暮らすには少し広い家を買い、休日は別々の用事を済ませて、夕方になると同じ食卓についた。

去年の冬、私は共有のパソコンで、夫が予約した旅館の確認メールを見つけた。

二人分の宿泊予約だった。

日付は、夫が出張すると言っていた金曜日。

同行者の欄に、美月という名前があった。名字も書かれていたので、あとで探すことができた。

夫に見せると、しばらく画面を見つめてから言った。

「もう終わってる」

いつ終わったのかは、答えなかった。

私はそれ以上、聞けなかった。

二週間後、夫はまた金曜日に帰りが遅くなった。

私は食卓に二人分の皿を並べ、片方にラップをかけた。

朝になっても、その皿は冷蔵庫に残っていた。

名前を手がかりに探すと、駅前のパン教室の写真が見つかった。

美月さんは小麦粉のついた指で、焼き上がったパンを持ち上げていた。

私より八つ若い。よく笑う人だった。

翌月、私はその教室に申し込んだ。

近くで見れば、嫌いになれると思った。

夫が選んだ女の、気に入らないところを集めるつもりだった。

スマートフォンに、そのための記録を作った。

夫を問い詰める日に、全部並べて見せるために。

教室では、下の名前を書いた小さな札を胸につけた。

私は「佳奈」と書いた。旧姓で呼ばれていたころの、友達だけが使う呼び名だった。美月さんは、私の名字を一度も尋ねなかった。

初めて会った日、美月さんは私のエプロンのひもを結んでくれた。

自分では背中に手が届かず、もたもたしていたからだ。

「佳奈さん、きつくない?」

「大丈夫。ありがとう」

写真よりずっと普通の人だった。

少し乾いた唇。爪の先のささくれ。

レシピを読み間違えて、慌てて小麦粉を足す手。

その夜、記録に一行目を書いた。

〈レシピを読まずに始める〉

書いてみると、悪口にもならなかった。

帰り道、彼女は駅まで一緒だった。

「パン、家で食べる人いる?」

「夫が」

「そっか。いいね」

その言い方が、妙にうらやましそうだった。

私は何かを言ってしまいそうになり、袋の口を握り直した。

教室に通い始めて三か月ほどで、私たちは授業のあとにも会うようになった。

彼女は駅前の文房具店で働いていた。

休憩時間が合う日は、近くの喫茶店で話した。

美月さんは、人の話を途中で取らない。

私が母の通院の付き添いで疲れていると話したときも、「大変だね」と決めつけず、「今日は何時に帰れるの」と聞いた。

一度、母が急に入院して、私は教室を休んだ。

その夜、美月さんからメッセージが来た。

〈今日のパン、先生が冷凍してくれたよ。次に会うとき持っていくね〉

二日後、彼女は病院の最寄り駅までパンを届けに来た。

改札の外で袋を渡すと、すぐ帰ろうとした。

「せっかく来てくれたのに」

「佳奈さん、早く戻ってあげて。私、寄り道のついでだから」

あとで袋を開けると、パンは一個ずつ包んであった。

母の分もあるのだと、すぐにわかった。

その夜、母の病室でパンを半分に割ってから、記録の画面を開いた。

〈病院まで来た〉

そこまで書いて、消した。

記録は、それきり増えなくなった。

美月さんが秘密を打ち明けたのは、春の終わりだった。

「誰にも言ってなかったんだけど」

彼女はそう前置きしてから、付き合って三年になる男性がいると話した。

「奥さんがいる人なの」

「……そう」

「軽蔑する?」

私は首を振れなかった。

彼女はカップの取っ手を何度も持ち替えた。

「最初は、別れるって言ってた。最近は、奥さんとはもう話がついてるって」

私の夫は、家ではそんな話を一度もしていない。

「信じてるの?」

「信じたい、かな」

美月さんは笑った。

笑い方だけが、教室でパンを焦がしたときと同じだった。

「やめたほうがいいと思う」

言ったあと、自分でも驚いた。

それは妻としての言葉だったのか、友達としての言葉だったのか。

「そうだよね」

美月さんはうつむいた。

「佳奈さんは、ちゃんと言ってくれるから好き」

その日、帰宅してから夫に夕飯を出した。

夫はテレビを見ながら「今日、パン教室だった?」と聞いた。

「そう」

「楽しそうでよかった」

私は味噌汁をよそい直した。

楽しいことがあったような顔をしていたのだろうか。

夏になると、美月さんは彼と会う回数を減らした。

メッセージにすぐ返事をしないようにしている、と教えてくれた。

休みの日には、一人で映画を見に行った。

私は彼女を応援した。

本当に、応援していた。

ある日、帰り道で夫に電話をした。

「今夜、何時に帰る?」

「遅くなる。先に食べてて」

その声を聞いても、もう美月さんと一緒にいるのかどうか、確かめたいとは思わなかった。

それより、彼女が今日はちゃんと夕飯を食べているかが気になった。

次の週、美月さんは教室を休んだ。

翌週も来なかった。

〈大丈夫?〉と送ると、〈少し考えたいことがある〉と返ってきた。

久しぶりに会った美月さんは、テーブルの上にスマートフォンを置いた。

「彼から、また連絡が来たの」

画面には、短いメッセージが並んでいた。

〈妻には全部話した〉

〈今は時間が必要なだけだ〉

〈君にも待ってほしい〉

夫は私に、何も話していない。

あの冬、私が見つけたことを知っているだけだ。

「私、これを信じたかった」

美月さんは言った。

「でも、それも彼から聞いただけなんだよね。奥さんは本当に知ってるのって聞いたら、『知ってるから大丈夫だ』って」

大丈夫。

その言葉を、夫は私にも使う。

母の病状を尋ねたあとも、私が眠れないと話した夜も。

何も確かめずに、大丈夫だよ、と言う。

「だから、私が直接話すことにした」

美月さんはスマートフォンを裏返した。

「奥さんが知ってるなら、会って謝りたい。知らないなら、知ってもらいたい」

「謝ったら、気が済む?」

私は聞いた。

美月さんは少し考えた。

「気は済まないと思う。でも、知らないままでいいかどうかを、私が決めるのは違う気がする」

私の喉が詰まった。

私は、もう知っている。

そのことを、美月さんは知らない。

「会いに行かない方がいいと思う」

「どうして?」

「奥さんが、今の暮らしを続けたいと思ってるかもしれないから」

美月さんは黙った。

その沈黙のあいだ、私は自分の言葉を聞いていた。

「でも、それも奥さんが決めることじゃない?」

私は答えられなかった。

「佳奈さんに、ひとつ頼みがあるの」

美月さんは、一人で行くのが怖いと言った。

相手の家まで、付き添ってほしいのだという。

「玄関まででいい。話すのは私がやるから」

私は断った。

彼女は「そっか」と言って、それ以上頼まなかった。

その夜、彼女からメッセージが届いた。

〈今日まで話を聞いてくれてありがとう。明日、一人で行ってくる〉

私は画面を見たまま、しばらく動かなかった。

記録の画面を開いた。最初の一行のほかは、何もなかった。

私はそれを消してから、返事を打った。

〈待って。私も行く〉

送信してから、手が震えた。

翌日の午後、駅前で待ち合わせた。

美月さんはいつもの服を着ていた。髪だけ、きちんと結んでいた。

「ごめんね、巻き込んじゃって」

「ううん」

私は、最初から巻き込まれている。

道順は彼女が知っていた。

以前、彼を家の近くまで送ったことがあるのだという。

「近くまで来たら、やっぱり帰りたくなるかも」

「帰ってもいいよ」

「佳奈さんは、私が帰った方がいいと思う?」

私は返事をしなかった。

彼女は歩きながら、何度もバッグの中の封筒を確かめた。

そのたびに、金具が小さく鳴った。

角を曲がると、見慣れた白い塀が見えた。

庭の木が、夏のあいだに少し伸びていた。

「ここ」

美月さんが足を止めた。

門の表札には、夫と私の名字が書いてある。

「佳奈さん、ありがとう。ここで大丈夫」

彼女は深く息を吸った。

私は、彼女の背中を見ていた。

このまま帰ればいい。

私が付き添ったことは、夫にも知られない。

美月さんが一人でベルを押し、夫が出て、二人で話す。

私は、何も知らない妻のままでいられる。

そのとき、美月さんが振り向いた。

「私ね、佳奈さんに会えてよかった」

彼女は笑おうとして、うまく笑えなかった。

「どんな話をしても、最後まで聞いてくれたから」

私はバッグの中に手を入れた。

「美月さん」

「うん?」

鍵束を取り出すと、彼女の目がそこに止まった。

「ごめんなさい」

それだけ言って、私は門を開けた。

玄関の鍵を回す音が、思ったより大きく響いた。

美月さんは、動かなかった。

私はドアを開け、彼女が通れるだけの隙間をつくった。

長い沈黙のあと、美月さんは小さく頭を下げた。

「……お邪魔します」

私は答えた。

「ただいま」

了