弔辞の校正
父は、自分の弔辞に赤を入れた。
「私を主語にするな。今日は故人の話だ」
故人は、私の向かいでコーヒーを飲んでいた。
来週、七十歳の記念に生前葬を開く。出版社の編集者を引退した父は、最後の仕事として、自分の葬式を編集することにしたらしい。
「まだ死んでないでしょ」
「だから直せるんだ」
私の原稿には、父と行った海の話が書いてあった。
小学四年の夏、波打ち際で、父の眼鏡がなくなった。二人で日が暮れるまで探した。帰りの電車で、父は駅名が読めず、私に聞いた。
父は、その段落を丸ごと赤で囲んだ。
「何を伝えたいのかわからない」
「一緒にいたこと」
「それで?」
赤いペンの先が、机を二度叩いた。
私は続きを説明しようとした。父は、もう次の行を読んでいた。
*
会場は、駅前の小さな宴会場だった。棺桶は置かない。父が椅子に座り、後ろのスクリーンに仕事の写真を映す。
案内状には、香典・供物を固くお断りします、と父の字で書いてあった。その下に、花束可、と小さく足してあった。
母は、その一行を見て笑った。
「死んだあとじゃ、花も見られないものね」
「麻衣の弔辞も聞けない」
父は、当然のように言った。
娘の言葉で送ってほしい。そう頼まれたのは、三週間前だ。
最初の原稿は、三日で書いた。
戻ってきた紙は、黒より赤のほうが多かった。
「あの作家の話は入れたか」
父は、担当した作家の名前を言った。よく知られた文学賞を取った人だ。
私は会ったこともなかった。調べて書いた。父が新人を見出したこと。何度も原稿を直したこと。受賞の挨拶で、作家が父に礼を言ったこと。
すると、祖母の入院中に父が毎晩、祖母の靴下を洗っていた話が、長すぎると言われた。
仕事の話が増えるほど、私の知っている父は減った。
*
私も一冊だけ、小説を出したことがある。
五年前だ。小さな出版社の、薄い本だった。父の会社とは関係がない。
書店に並んだ日、父は会社帰りに一冊買ってきた。翌朝、付箋だらけになっていた。
「主人公を変えたほうがいい」
父の言う主人公は、私が脇役として書いた男だった。目立つし、話も動く。父の説明はわかった。聞くほど、父の本になる気がした。
もう刊行されているよ、と言うと、父は「次のためだ」と答えた。
本は、あまり売れなかった。
それから私は、父に書いているものを見せなくなった。昼は印刷会社で働き、夜は部屋で小説を書いた。
書いている、と言えば、何枚だ、どこへ出す、誰が読む、と聞かれる。答えのない日には、書いていないと言った。
*
二度目の原稿を持っていくと、父は最後の段落に線を引いた。
「父に教わったのは、書き続けることです」
私が書いた一文だった。父は、その下に赤字を足した。
「納得するまで、書き直すことです」
「同じことだろう」
「そうかな」
「途中で満足するから、先へ行けない」
私は、赤いほうを消さずに持ち帰った。
*
前日の夕方、父から電話が来た。
「五分で収まるか」
「三分くらい」
「少し短いな。父親の話だ。もう少しあってもいい」
長いと言われるつもりでいたので、黙ってしまった。
「あの海の話。入れてもいい。ただ、眼鏡をなくした話で終わるな。何が残るのか、ということだ」
私は電話を持ち替えた。
「お父さんは、覚えてる?」
「何を」
「海」
父は、すぐに答えなかった。
「おまえが、切符を持ってた」
私は、そうだったかなと思った。
「二人分。なくすなよと言ったら、怒った」
「だって、お父さんが眼鏡なくしたあとだもの」
父は短く笑った。
電話を切って、赤い原稿を広げた。海の段落の横に、何が残る?と書いてあった。
私はその横に、鉛筆で、切符二枚、と足した。
それから、別の白い紙を出した。
*
当日の朝、母から電話があった。
「会場に、お父さんの担当した本を並べる台があるの。麻衣の本も、持ってきたら」
電話の向こうで、父の声がした。
「あれは、俺が担当した本じゃない」
母は受話器を塞がなかった。
私は、いちばんきれいな一冊を鞄へ入れた。背表紙が、少しだけ日に焼けていた。
*
宴会場には三十人ほど集まった。花束は、六つもあった。
父は紺のスーツに、小さな白い花をつけていた。自分の大きな写真の下に座るのが落ち着かないらしく、何度も立ち上がっては受付を見に行った。
「原稿は」
私の顔を見るなり聞いた。
「持ってる」
「もう一度だけ、見ておく」
「時間ないよ」
本当に時間がなかった。司会をする元同僚が、父を呼んだ。
私は鞄の口を閉じた。
始まってみると、生前葬は、会社の送別会に似ていた。
締切前に家へ通った話。最初の一冊が売れず、二冊目をどうしても出した話。
若い作家が、父にもらった手紙を読んだ。
「この主人公で、もう一度やってみましょう」
父は、椅子に座ったまま頷いた。
私は膝の上で、鞄の持ち手を握った。
父は、人によって違うことを言う人だった。仕事なのだから、当然だろう。
私は、その違うほうを、一度でいいから言われたかった。
*
司会が、娘さんからの弔辞です、と言った。
マイクの前に立つと、父の顔が近かった。
「お父さんへ」
そこだけは、どの原稿でも同じだった。
父が直したほうの紙は、家に置いてきた。
「今日、お父さんの話をたくさん聞いて、私の知らないお父さんがいたんだなと思いました。だから私も、お父さんの知らない話をします」
父は、まだ頷いていた。
「海で眼鏡をなくした日、帰りの電車で、父は私に、次は何駅だ、と聞きました。父に何か教えてあげたのは、それが初めてでした。父は、そうか、と言いました。たぶん、礼を言ったつもりだったと思います」
父が、椅子の上で背筋を伸ばした。
「その日、父は、私に切符を二枚持たせました。なくすなよ、と言いました。私は怒りました。眼鏡をなくした人に言われたくなかったからです。でも、なくしませんでした。降りる駅まで、ずっと握っていました。改札で、父は駅員さんに頼んで、その二枚に穴をあけてもらいました。記念だ、と言って、私に返しました」
会場の奥で、誰かが小さく笑った。
「父は、私の小説を読みました。主人公を変えたほうがいいと言いました。私は変えませんでした。次のためだと、父は言いました」
原稿を持つ指が汗ばんだ。
「次も、同じ主人公で書いています。父は、まだ知りません」
父が、胸のポケットから赤いペンを抜いた。
「ここは、そういう場では」
マイクには入らない声だった。でも、私には聞こえた。
「お父さんが頼んだの。娘の言葉で、って」
父の手が止まった。
私は、最後の行を読んだ。
「お父さんに渡された切符は、二枚とも、まだ私が持っています。なくすなと言われたので」
これは、原稿にない言葉だった。
「今日は、最後まで聞いてくれて、ありがとう」
お辞儀をした。拍手が来る前に、紙を畳んだ。
*
控室へ戻る途中で、父に呼ばれた。
「麻衣。見せなさい」
いつもと同じ声だった。
私は鞄を開けた。畳んだ紙ではなく、その下にあった本を出した。
「それは、読んだ」
「うん」
私は、父の手に本をのせた。
父は表紙を見た。手の中で、少し回した。赤いペンは、胸のポケットに戻っていた。
「並べていいよ」
父は何も言わなかった。本を持ったまま、会場のほうを見た。
廊下で、母が待っていた。
「続き、あるの。さっきの本の」
私は頷いた。
「できたら読ませて」
「直さないでね」
母は花束の包みを握ったまま、少し考えた。
「誤字は?」
私は、廊下で笑った。
会場から、父の咳払いが聞こえた。
今度は、続きを説明しに戻らなかった。
了