書き下ろし感動

弔辞の校正

約3,001字 読了目安 約6分 2026年10月29日 公開

父は、自分の弔辞に赤を入れた。

「私を主語にするな。今日は故人の話だ」

故人は、私の向かいでコーヒーを飲んでいた。

来週、七十歳の記念に生前葬を開く。出版社の編集者を引退した父は、最後の仕事として、自分の葬式を編集することにしたらしい。

「まだ死んでないでしょ」

「だから直せるんだ」

私の原稿には、父と行った海の話が書いてあった。

小学四年の夏、波打ち際で、父の眼鏡がなくなった。二人で日が暮れるまで探した。帰りの電車で、父は駅名が読めず、私に聞いた。

父は、その段落を丸ごと赤で囲んだ。

「何を伝えたいのかわからない」

「一緒にいたこと」

「それで?」

赤いペンの先が、机を二度叩いた。

私は続きを説明しようとした。父は、もう次の行を読んでいた。

会場は、駅前の小さな宴会場だった。棺桶は置かない。父が椅子に座り、後ろのスクリーンに仕事の写真を映す。

案内状には、香典・供物を固くお断りします、と父の字で書いてあった。その下に、花束可、と小さく足してあった。

母は、その一行を見て笑った。

「死んだあとじゃ、花も見られないものね」

「麻衣の弔辞も聞けない」

父は、当然のように言った。

娘の言葉で送ってほしい。そう頼まれたのは、三週間前だ。

最初の原稿は、三日で書いた。

戻ってきた紙は、黒より赤のほうが多かった。

「あの作家の話は入れたか」

父は、担当した作家の名前を言った。よく知られた文学賞を取った人だ。

私は会ったこともなかった。調べて書いた。父が新人を見出したこと。何度も原稿を直したこと。受賞の挨拶で、作家が父に礼を言ったこと。

すると、祖母の入院中に父が毎晩、祖母の靴下を洗っていた話が、長すぎると言われた。

仕事の話が増えるほど、私の知っている父は減った。

私も一冊だけ、小説を出したことがある。

五年前だ。小さな出版社の、薄い本だった。父の会社とは関係がない。

書店に並んだ日、父は会社帰りに一冊買ってきた。翌朝、付箋だらけになっていた。

「主人公を変えたほうがいい」

父の言う主人公は、私が脇役として書いた男だった。目立つし、話も動く。父の説明はわかった。聞くほど、父の本になる気がした。

もう刊行されているよ、と言うと、父は「次のためだ」と答えた。

本は、あまり売れなかった。

それから私は、父に書いているものを見せなくなった。昼は印刷会社で働き、夜は部屋で小説を書いた。

書いている、と言えば、何枚だ、どこへ出す、誰が読む、と聞かれる。答えのない日には、書いていないと言った。

二度目の原稿を持っていくと、父は最後の段落に線を引いた。

「父に教わったのは、書き続けることです」

私が書いた一文だった。父は、その下に赤字を足した。

「納得するまで、書き直すことです」

「同じことだろう」

「そうかな」

「途中で満足するから、先へ行けない」

私は、赤いほうを消さずに持ち帰った。

前日の夕方、父から電話が来た。

「五分で収まるか」

「三分くらい」

「少し短いな。父親の話だ。もう少しあってもいい」

長いと言われるつもりでいたので、黙ってしまった。

「あの海の話。入れてもいい。ただ、眼鏡をなくした話で終わるな。何が残るのか、ということだ」

私は電話を持ち替えた。

「お父さんは、覚えてる?」

「何を」

「海」

父は、すぐに答えなかった。

「おまえが、切符を持ってた」

私は、そうだったかなと思った。

「二人分。なくすなよと言ったら、怒った」

「だって、お父さんが眼鏡なくしたあとだもの」

父は短く笑った。

電話を切って、赤い原稿を広げた。海の段落の横に、何が残る?と書いてあった。

私はその横に、鉛筆で、切符二枚、と足した。

それから、別の白い紙を出した。

当日の朝、母から電話があった。

「会場に、お父さんの担当した本を並べる台があるの。麻衣の本も、持ってきたら」

電話の向こうで、父の声がした。

「あれは、俺が担当した本じゃない」

母は受話器を塞がなかった。

私は、いちばんきれいな一冊を鞄へ入れた。背表紙が、少しだけ日に焼けていた。

宴会場には三十人ほど集まった。花束は、六つもあった。

父は紺のスーツに、小さな白い花をつけていた。自分の大きな写真の下に座るのが落ち着かないらしく、何度も立ち上がっては受付を見に行った。

「原稿は」

私の顔を見るなり聞いた。

「持ってる」

「もう一度だけ、見ておく」

「時間ないよ」

本当に時間がなかった。司会をする元同僚が、父を呼んだ。

私は鞄の口を閉じた。

始まってみると、生前葬は、会社の送別会に似ていた。

締切前に家へ通った話。最初の一冊が売れず、二冊目をどうしても出した話。

若い作家が、父にもらった手紙を読んだ。

「この主人公で、もう一度やってみましょう」

父は、椅子に座ったまま頷いた。

私は膝の上で、鞄の持ち手を握った。

父は、人によって違うことを言う人だった。仕事なのだから、当然だろう。

私は、その違うほうを、一度でいいから言われたかった。

司会が、娘さんからの弔辞です、と言った。

マイクの前に立つと、父の顔が近かった。

「お父さんへ」

そこだけは、どの原稿でも同じだった。

父が直したほうの紙は、家に置いてきた。

「今日、お父さんの話をたくさん聞いて、私の知らないお父さんがいたんだなと思いました。だから私も、お父さんの知らない話をします」

父は、まだ頷いていた。

「海で眼鏡をなくした日、帰りの電車で、父は私に、次は何駅だ、と聞きました。父に何か教えてあげたのは、それが初めてでした。父は、そうか、と言いました。たぶん、礼を言ったつもりだったと思います」

父が、椅子の上で背筋を伸ばした。

「その日、父は、私に切符を二枚持たせました。なくすなよ、と言いました。私は怒りました。眼鏡をなくした人に言われたくなかったからです。でも、なくしませんでした。降りる駅まで、ずっと握っていました。改札で、父は駅員さんに頼んで、その二枚に穴をあけてもらいました。記念だ、と言って、私に返しました」

会場の奥で、誰かが小さく笑った。

「父は、私の小説を読みました。主人公を変えたほうがいいと言いました。私は変えませんでした。次のためだと、父は言いました」

原稿を持つ指が汗ばんだ。

「次も、同じ主人公で書いています。父は、まだ知りません」

父が、胸のポケットから赤いペンを抜いた。

「ここは、そういう場では」

マイクには入らない声だった。でも、私には聞こえた。

「お父さんが頼んだの。娘の言葉で、って」

父の手が止まった。

私は、最後の行を読んだ。

「お父さんに渡された切符は、二枚とも、まだ私が持っています。なくすなと言われたので」

これは、原稿にない言葉だった。

「今日は、最後まで聞いてくれて、ありがとう」

お辞儀をした。拍手が来る前に、紙を畳んだ。

控室へ戻る途中で、父に呼ばれた。

「麻衣。見せなさい」

いつもと同じ声だった。

私は鞄を開けた。畳んだ紙ではなく、その下にあった本を出した。

「それは、読んだ」

「うん」

私は、父の手に本をのせた。

父は表紙を見た。手の中で、少し回した。赤いペンは、胸のポケットに戻っていた。

「並べていいよ」

父は何も言わなかった。本を持ったまま、会場のほうを見た。

廊下で、母が待っていた。

「続き、あるの。さっきの本の」

私は頷いた。

「できたら読ませて」

「直さないでね」

母は花束の包みを握ったまま、少し考えた。

「誤字は?」

私は、廊下で笑った。

会場から、父の咳払いが聞こえた。

今度は、続きを説明しに戻らなかった。

了