空き部屋の返事
誰も住んでいない隣の部屋から、私の声がした。
「はーい。今、行きます」
録音だから、驚くことはなかった。
大家さんに頼まれて、その言葉を吹き込んだのは私だ。
ところが、声のあとに足音がした。
玄関まで、三歩。
そこで、止まった。
私が録音したのは、声だけだった。
*
若葉町のそのアパートに住み始めて、二週間がたっていた。
二階建ての古い建物で、私の部屋は二階の角。隣は空き部屋で、大家の春江さんは一階に住んでいた。
夜勤のある仕事を辞め、昼間の事務職に移ったばかりだった。貯金を減らしたくなくて、家賃の安さで決めた。
内見のとき、春江さんは鍵束から二本を選び、間違えて隣の鍵を開けた。
「こっちも空いてるの。せっかくだから、お部屋、お見せします」
隣は日当たりが悪く、私は角の部屋を選んだ。
「夜、何かあったら電話してね。すぐ下だから」
腰につけた鍵束が、立ち上がるたびに鳴った。
引っ越しの翌日には、古い電球を新しいものに替えてくれた。宅配の荷物を一階で預かってくれたこともあった。
実家を出てから、隣人の名前を知らない部屋にしか住んだことがない。ここでは、誰かが帰宅を知っている。それが少しうれしかった。
録音を頼まれたのは、その春江さんからだった。
「お隣、長く空いてるでしょう。先月、窓をこじ開けようとした跡があってね」
見せられたのは、小さな白い箱だった。
人が前を通ると音を流す、電池式の機械だという。
「家に人がいると思わせたいの。私の声だと、年寄り一人だって分かっちゃうから」
空き部屋の玄関に箱を置き、外廊下に向けてセンサーをつける。夜だけ動かすつもりだった。
録音は、私の部屋の食卓で行った。
箱の赤いボタンを押し、春江さんが指で合図をする。
「はーい。今、行きます」
すぐにボタンを止めた。
再生された自分の声は、思っていたより高かった。録り直そうとしたが、春江さんは首を振った。
「これがいいわ。普通に暮らしてるみたい」
録音の間、私は椅子から動かなかった。
春江さんも、息を止めていた。
足音が入る余地はなかった。
*
最初の三晩は、ただの録音だった。
帰宅して隣の玄関を通ると、私の声がした。
五日目の夜、その声のあとに、足音が加わった。
とん、とん、とん。
裸足の人が、板の間を歩くような音だった。
私は自分の玄関に差した鍵を抜き、隣を見た。
窓は暗かった。足音の止まった場所は、ドアのすぐ裏だった。
一階の春江さんを訪ねると、春江さんはエプロンのポケットを探った。
「十分くらい前まで、お隣を掃除してたのよ。私の足音じゃない?」
十分も前なら違うと思ったが、強くは言えなかった。
誰もいない部屋に誰かがいた、と口にすると、自分がおかしなことを言っている気がした。
翌朝、春江さんは箱を持ってきて、私の前で再生した。
「はーい。今、行きます」
それだけだった。
「音が割れて、足音みたいに聞こえたのかもしれないわ」
その日の帰りは、隣のドアから離れて歩いた。
声はしなかった。
自分の部屋に入り、鍵をかける。
靴を脱いだとき、壁の向こうから声がした。
「はーい。今、行きます」
とん、とん、とん。
廊下を通った人は、いなかった。
三歩のあとに、別の音がした。
かちり。
ドアの内側の、つまみを回す音だった。
*
電話をすると、春江さんは五分もしないうちに上がってきた。
「もう使うの、やめましょう。防犯のためなのに、怖い思いをさせちゃいけないわ」
鍵を入れ、隣のドアを開ける。
白い箱が、玄関の床に置いてあった。
奥の部屋には家具がない。押し入れも、流しも、昼間に見た空き部屋のままだった。
春江さんは箱を持ち上げ、裏の蓋を外した。
乾電池を二本取り出す。一本は春江さんが持ち、もう一本を私が受け取った。
「これで、もう鳴らないから」
二人で玄関から出た。
その背後で、私の声がした。
「はーい。今、行きます」
春江さんが振り返った。
電池を握った私の手を見て、それから、自分の腕の中の箱を見た。
とん。
部屋の奥で音がした。
とん。
春江さんは私の腕をつかみ、三つ目の音がする前にドアを閉めた。
鍵穴に鍵を入れようとして、一度、外した。
かちり、と向こう側で音がした。
春江さんの鍵は、まだ穴に入っていなかった。
ドアと枠の間に、細い黒い隙間ができた。
内側から、誰かがドアを押していた。
春江さんは体ごとドアにもたれ、外から鍵をかけた。
*
警察官が二人来て、隣の部屋を調べた。
押し入れも、浴室も、天井の点検口も見たという。誰もいなかった。窓は全部、内側から閉まっていた。
白い箱は、警察官の前では一度も鳴らなかった。
その夜は、駅前のホテルに泊まった。
翌朝、春江さんから電話があった。
「ごめんなさいね。あなたの声を、あそこに置いたりして」
声を置いた。
その言い方が嫌で、私は返事ができなかった。
解約を申し出ると、春江さんは、分かった、と言った。荷物を取りに戻る時間に、立ち会ってくれることになった。
夕方、アパートの外廊下に春江さんが立っていた。足元に、あの白い箱があった。
「捨てる前に、声だけ消しておこうと思って」
録音は、ほかの音を入れると上書きされる仕組みだという。
「あなたの声が残ってたら嫌でしょう。私の声に替えるわね」
春江さんは赤いボタンを押した。
「大家です。誰か、いますか」
再生する。同じ言葉が流れた。
それで消えたのだと、私に示そうとしていた。
「電池、抜いてください」
春江さんはうなずいた。
そのとき、隣の部屋で、春江さんの声がした。
「大家です。誰か、いますか」
同じ声だった。
でも、最後の「か」が伸びていた。
誰か、いますか。
いますか。
か。
春江さんが箱を取り落とした。
部屋の奥で、何かが床をこすった。人が両手をつき、体を引きずっているような音だった。
「開けないで」
私が言うと、向こう側でも音が止まった。
それから、春江さんの声がした。
「開けないで」
春江さんの唇は、閉じていた。
*
階段へ向かった。
春江さんが先に下り、私は落ちた箱をまたいだ。
右の靴が、動かなくなった。
下を見た。
隣のドアの下から、五本の指が出ていた。
最初は紙のように薄かった。
外へ出るにつれて、厚みを増していた。
指には爪がなかった。爪のあるはずの場所にも、指紋が渦を巻いていた。
指が、私の足首に巻きついた。
「春江さん」
思ったより小さな声が出た。
右足が引かれ、膝が折れた。
足首が、ドアの下の狭い隙間へ押しつけられた。
春江さんが駆け上がってきた。
私の脇に両腕を入れ、後ろへ引く。
靴が脱げた。足は抜けなかった。
春江さんは鍵束を出した。
「開けるわよ。足、引いて」
私は首を振った。
鍵が回った。ドアが外へ開いた瞬間、足首が自由になった。
私は手すりのほうへ転がった。
ドアを閉めようとした春江さんの手が、止まった。
細く開いた隙間の奥に、口が浮かんでいた。
唇の右端に、小さなほくろがあった。
私と、同じ場所だった。
「はーい。今、行きます」
白い指が、春江さんの手首に巻きついた。
私はエプロンの背中をつかんだ。
春江さんはドア枠に足を突っ張った。その足首に、もう一本の手が伸びた。
つかんでいた布が、私の手から抜けた。
ドアが閉まった。
鍵が、内側からかかった。
*
春江さんは見つからなかった。
鍵束も、見つからなかった。
翌朝、私は警察官と一緒に荷物を取りに戻った。
階段のそばには、白い箱が落ちたままだった。
警察官が拾い上げた。電池は、二本とも外れていた。
私が自分の部屋の鍵を、鞄の中で探していたときだった。
隣の部屋の鍵が、内側から開いた。
鍵束の鳴る音がした。
「大家です。お部屋、お見せします」
了