書き下ろしホラー

空き部屋の返事

約3,042字 読了目安 約6分 2026年10月29日 公開

誰も住んでいない隣の部屋から、私の声がした。

「はーい。今、行きます」

録音だから、驚くことはなかった。

大家さんに頼まれて、その言葉を吹き込んだのは私だ。

ところが、声のあとに足音がした。

玄関まで、三歩。

そこで、止まった。

私が録音したのは、声だけだった。

若葉町のそのアパートに住み始めて、二週間がたっていた。

二階建ての古い建物で、私の部屋は二階の角。隣は空き部屋で、大家の春江さんは一階に住んでいた。

夜勤のある仕事を辞め、昼間の事務職に移ったばかりだった。貯金を減らしたくなくて、家賃の安さで決めた。

内見のとき、春江さんは鍵束から二本を選び、間違えて隣の鍵を開けた。

「こっちも空いてるの。せっかくだから、お部屋、お見せします」

隣は日当たりが悪く、私は角の部屋を選んだ。

「夜、何かあったら電話してね。すぐ下だから」

腰につけた鍵束が、立ち上がるたびに鳴った。

引っ越しの翌日には、古い電球を新しいものに替えてくれた。宅配の荷物を一階で預かってくれたこともあった。

実家を出てから、隣人の名前を知らない部屋にしか住んだことがない。ここでは、誰かが帰宅を知っている。それが少しうれしかった。

録音を頼まれたのは、その春江さんからだった。

「お隣、長く空いてるでしょう。先月、窓をこじ開けようとした跡があってね」

見せられたのは、小さな白い箱だった。

人が前を通ると音を流す、電池式の機械だという。

「家に人がいると思わせたいの。私の声だと、年寄り一人だって分かっちゃうから」

空き部屋の玄関に箱を置き、外廊下に向けてセンサーをつける。夜だけ動かすつもりだった。

録音は、私の部屋の食卓で行った。

箱の赤いボタンを押し、春江さんが指で合図をする。

「はーい。今、行きます」

すぐにボタンを止めた。

再生された自分の声は、思っていたより高かった。録り直そうとしたが、春江さんは首を振った。

「これがいいわ。普通に暮らしてるみたい」

録音の間、私は椅子から動かなかった。

春江さんも、息を止めていた。

足音が入る余地はなかった。

最初の三晩は、ただの録音だった。

帰宅して隣の玄関を通ると、私の声がした。

五日目の夜、その声のあとに、足音が加わった。

とん、とん、とん。

裸足の人が、板の間を歩くような音だった。

私は自分の玄関に差した鍵を抜き、隣を見た。

窓は暗かった。足音の止まった場所は、ドアのすぐ裏だった。

一階の春江さんを訪ねると、春江さんはエプロンのポケットを探った。

「十分くらい前まで、お隣を掃除してたのよ。私の足音じゃない?」

十分も前なら違うと思ったが、強くは言えなかった。

誰もいない部屋に誰かがいた、と口にすると、自分がおかしなことを言っている気がした。

翌朝、春江さんは箱を持ってきて、私の前で再生した。

「はーい。今、行きます」

それだけだった。

「音が割れて、足音みたいに聞こえたのかもしれないわ」

その日の帰りは、隣のドアから離れて歩いた。

声はしなかった。

自分の部屋に入り、鍵をかける。

靴を脱いだとき、壁の向こうから声がした。

「はーい。今、行きます」

とん、とん、とん。

廊下を通った人は、いなかった。

三歩のあとに、別の音がした。

かちり。

ドアの内側の、つまみを回す音だった。

電話をすると、春江さんは五分もしないうちに上がってきた。

「もう使うの、やめましょう。防犯のためなのに、怖い思いをさせちゃいけないわ」

鍵を入れ、隣のドアを開ける。

白い箱が、玄関の床に置いてあった。

奥の部屋には家具がない。押し入れも、流しも、昼間に見た空き部屋のままだった。

春江さんは箱を持ち上げ、裏の蓋を外した。

乾電池を二本取り出す。一本は春江さんが持ち、もう一本を私が受け取った。

「これで、もう鳴らないから」

二人で玄関から出た。

その背後で、私の声がした。

「はーい。今、行きます」

春江さんが振り返った。

電池を握った私の手を見て、それから、自分の腕の中の箱を見た。

とん。

部屋の奥で音がした。

とん。

春江さんは私の腕をつかみ、三つ目の音がする前にドアを閉めた。

鍵穴に鍵を入れようとして、一度、外した。

かちり、と向こう側で音がした。

春江さんの鍵は、まだ穴に入っていなかった。

ドアと枠の間に、細い黒い隙間ができた。

内側から、誰かがドアを押していた。

春江さんは体ごとドアにもたれ、外から鍵をかけた。

警察官が二人来て、隣の部屋を調べた。

押し入れも、浴室も、天井の点検口も見たという。誰もいなかった。窓は全部、内側から閉まっていた。

白い箱は、警察官の前では一度も鳴らなかった。

その夜は、駅前のホテルに泊まった。

翌朝、春江さんから電話があった。

「ごめんなさいね。あなたの声を、あそこに置いたりして」

声を置いた。

その言い方が嫌で、私は返事ができなかった。

解約を申し出ると、春江さんは、分かった、と言った。荷物を取りに戻る時間に、立ち会ってくれることになった。

夕方、アパートの外廊下に春江さんが立っていた。足元に、あの白い箱があった。

「捨てる前に、声だけ消しておこうと思って」

録音は、ほかの音を入れると上書きされる仕組みだという。

「あなたの声が残ってたら嫌でしょう。私の声に替えるわね」

春江さんは赤いボタンを押した。

「大家です。誰か、いますか」

再生する。同じ言葉が流れた。

それで消えたのだと、私に示そうとしていた。

「電池、抜いてください」

春江さんはうなずいた。

そのとき、隣の部屋で、春江さんの声がした。

「大家です。誰か、いますか」

同じ声だった。

でも、最後の「か」が伸びていた。

誰か、いますか。

いますか。

か。

春江さんが箱を取り落とした。

部屋の奥で、何かが床をこすった。人が両手をつき、体を引きずっているような音だった。

「開けないで」

私が言うと、向こう側でも音が止まった。

それから、春江さんの声がした。

「開けないで」

春江さんの唇は、閉じていた。

階段へ向かった。

春江さんが先に下り、私は落ちた箱をまたいだ。

右の靴が、動かなくなった。

下を見た。

隣のドアの下から、五本の指が出ていた。

最初は紙のように薄かった。

外へ出るにつれて、厚みを増していた。

指には爪がなかった。爪のあるはずの場所にも、指紋が渦を巻いていた。

指が、私の足首に巻きついた。

「春江さん」

思ったより小さな声が出た。

右足が引かれ、膝が折れた。

足首が、ドアの下の狭い隙間へ押しつけられた。

春江さんが駆け上がってきた。

私の脇に両腕を入れ、後ろへ引く。

靴が脱げた。足は抜けなかった。

春江さんは鍵束を出した。

「開けるわよ。足、引いて」

私は首を振った。

鍵が回った。ドアが外へ開いた瞬間、足首が自由になった。

私は手すりのほうへ転がった。

ドアを閉めようとした春江さんの手が、止まった。

細く開いた隙間の奥に、口が浮かんでいた。

唇の右端に、小さなほくろがあった。

私と、同じ場所だった。

「はーい。今、行きます」

白い指が、春江さんの手首に巻きついた。

私はエプロンの背中をつかんだ。

春江さんはドア枠に足を突っ張った。その足首に、もう一本の手が伸びた。

つかんでいた布が、私の手から抜けた。

ドアが閉まった。

鍵が、内側からかかった。

春江さんは見つからなかった。

鍵束も、見つからなかった。

翌朝、私は警察官と一緒に荷物を取りに戻った。

階段のそばには、白い箱が落ちたままだった。

警察官が拾い上げた。電池は、二本とも外れていた。

私が自分の部屋の鍵を、鞄の中で探していたときだった。

隣の部屋の鍵が、内側から開いた。

鍵束の鳴る音がした。

「大家です。お部屋、お見せします」

了