山の返事
私を壊す男は、毎朝、私に挨拶をした。
「おはようございます」
「おはようございます」
男の声を、私はそっくり返す。
私はこだまだ。山道の向こうに立つ岩壁で、人の声を返している。
聞いた言葉は、一息のあいだだけ持っていられる。同じ言葉を一度返すか、そのまま手放すか。それしかできない。
男は森といった。ここに新しい道を造る仕事をしていた。
私の岩壁には、赤い線が引かれている。削るところを示す線だ。
最初の日、森は線の下に立ち、私を見上げた。
「よろしくお願いします」
私は黙った。
森はヘルメットを取り、頭をかいて、もう一度言った。
二度とも、私は返さなかった。
*
雨の翌日だけ水の通る溝に、森は板を渡して、私の正面に立つようになった。
仕事を始める前に、弁当の袋を地面へ置き、その日使う図面を袋で押さえる。
「おはようございます」
挨拶だけなら、返してやってもよかった。
私が返すと、森は板から足を下ろし、靴の裏でぐらつかないことを確かめてから、仕事へ戻った。
ある朝、森は弁当の袋を持っていなかった。
「忘れた」
「忘れた」
返すと、森は私を見上げて、何か言った。声が小さくて、ここまで届かなかった。
昼、森は車の中でパンを食べた。袋を開くのに手間取り、膝に粉を落としていた。
私は、それを見ていた。
私のところへ来る人は、たいてい一度で帰る。
名前を呼ぶ。私はその名前を返す。笑って、もう一つ呼ぶ。最後に、ばかやろう、と叫んで帰る人もいる。
私がその人をどう思っているかは、誰も気にしない。
森は、前の日の続きを持ってきた。
「弁当、今日はある」
「弁当、今日はある」
「自慢することじゃないけど」
その言葉は、返さずにおいた。
森はひとりで笑った。
*
ある朝、森は紙を持ってきた。
「今日は晴れです」
返した。
「今日は雨です」
返さなかった。
森は空を見た。
「ここに、道を通します」
黙った。
「道は通さない」
私はすぐに返した。
「道は通さない」
森は図面から顔を上げた。
「わざと?」
疑問をそのまま返しても、返事にはならない。私は黙った。
森は紙を裏返し、ゆっくり読んだ。
「私は、返したい言葉だけ返している」
私は、その言葉を返した。
森は立ち上がりかけて、板から片足を落とした。靴に水が入った。
そのときは、声を出して笑ってみたかった。
濡れた靴を板にのせ、森は言った。
「削っても、いい」
返さなかった。
森は、口の端を少し上げた。
「そうだよな」
その言葉を返しかけて、やめた。
今うっかり返せば、森が考えた何かを、私も認めたことになる。
言葉を持ったまま、一息が過ぎるのを待った。空になってから、少し楽になった。
*
森には娘がいるのだという。
春から、隣の町の高校へ通う。毎朝、車で駅まで送ることになる。
今の山道は狭く、対向車が来ると、どちらかが角の手前まで戻らなければならない。雨で通れなくなったこともある。
「新しい道なら、あそこを通らずに済む」
返さなかった。
「別のところにも引けないか、調べたんだ」
森は図面を広げた。川の向こうを指し、集落のほうを指した。指の先の家や田は、私にも見えた。
私の手前で道を大きく曲げる線もあった。長い車はここを曲がれない、と森は言った。
図面を畳んでから、森は言った。
「娘の話をしたら、いいって言ってもらえると思った」
それも、返さなかった。
*
削られる日まで、あと十日になった。
山はなくならない。沢も木も残る。でも私の岩壁は、声を返せる形ではなくなる。
森は説明の途中で、何度も言葉を止めた。
「ほかの山で、また、っていうことは」
それきり、黙った。
私は、ほかの山を知らなかった。声の届くところしか知らない。ここを離れるやり方も知らない。
森は、弁当の袋の持ち手をねじった。
「工事を、やめてほしい」
私は返した。
「工事を、やめてほしい」
初めて、自分の言いたいことを声にできた。
森は頷いた。できるとも、できないとも言わなかった。
翌日は、来なかった。
次の日も、挨拶はなかった。
森の姿は機械のそばに見えた。私の前を通るときは、足元を見ていた。
人は、黙っている私にも、好きな意味をつける。
あの言葉を返さなければ、よかった、という返事にされていたかもしれない。
返したから、森は来なくなった。
*
四日目の朝、森が戻ってきた。いつもの板の上に立った。
「悪かった」
私は返した。
「悪かった」
森は首を振った。
「そっちじゃない。嫌だって言わせて、そのあと、こっちが逃げた」
返さなかった。
「やめられない。俺は、道を造る。だから、いいと言ってもらいに来るのは、やめる」
私は、その言葉も返さなかった。
森は袋を置いて、お茶を出した。
「今日は、卵焼きが焦げた」
「今日は、卵焼きが焦げた」
森は、口を閉じたまま頷いた。
それからの朝は、天気と、弁当と、ときどき娘の話をした。
娘は、送らなくていいと言ったらしい。友達と、駅まで自転車で行くのだという。
「早起きの練習までしてたんだけど」
「早起きの練習までしてたんだけど」
森は、少し遅れて笑った。
「それ、笑うとこか」
私には笑えなかった。
返したのは、話を続けてほしかったからだ。
*
最後の朝の前日、森は弁当を持たずに来た。
削る作業は、翌日の午前からだと言った。
「今日で、おしまいにしようと思った。明日、顔を合わせてからだと、手を上げられなくなる」
機械へ合図をする腕を、森は持ち上げかけた。
それから、急に言った。
「やめてくれ」
言ってから、自分の口を押さえた。
その言葉が、私のところへ来た。
返せばよかった。私の言いたいことは、初めからそれだけだった。
返したところで、工事は止まらない。でも森は、私が嫌だと言ったことを、もう一度聞いたうえで岩を削ることになる。
一息ぶんの時間が過ぎた。
言葉が消えた。
それは私の言葉ではなかった。森が、自分で言った言葉だった。
森がそれを自分の耳で聞いたことだけで、今日はよかった。
「明日も来る」と森は言った。
私は、その言葉を返した。
*
翌朝、森は作業服で来た。
ほかの人たちは、道の入口で待っていた。機械はまだ動いていなかった。
「これ、片づけていく」
森は、私の前で使っていた板を持ち上げ、道の脇へ寄せた。
溝の向こうに立つと、いつもより少し遠かった。
「今日は、一つだけ言います」
森は、ずいぶん長く口を閉じていた。
やがて顔を上げた。
「いってらっしゃい」
その言葉を、私は受け取った。
森は、この山から出ていくわけではない。道ができれば、またここを通る。娘は自転車で通るかもしれない。
私のなくなった場所を、ほかの人たちも通っていく。
出ていくのは、私のほうだった。
一息が終わる前に、私は返した。
「いってらっしゃい」
森が、小さく頭を下げた。
一度も振り返らずに、道の入口まで歩いていった。
しばらくして、森が腕を上げた。
了