書き下ろし幻想

山の返事

約2,723字 読了目安 約5分 2026年10月29日 公開

私を壊す男は、毎朝、私に挨拶をした。

「おはようございます」

「おはようございます」

男の声を、私はそっくり返す。

私はこだまだ。山道の向こうに立つ岩壁で、人の声を返している。

聞いた言葉は、一息のあいだだけ持っていられる。同じ言葉を一度返すか、そのまま手放すか。それしかできない。

男は森といった。ここに新しい道を造る仕事をしていた。

私の岩壁には、赤い線が引かれている。削るところを示す線だ。

最初の日、森は線の下に立ち、私を見上げた。

「よろしくお願いします」

私は黙った。

森はヘルメットを取り、頭をかいて、もう一度言った。

二度とも、私は返さなかった。

雨の翌日だけ水の通る溝に、森は板を渡して、私の正面に立つようになった。

仕事を始める前に、弁当の袋を地面へ置き、その日使う図面を袋で押さえる。

「おはようございます」

挨拶だけなら、返してやってもよかった。

私が返すと、森は板から足を下ろし、靴の裏でぐらつかないことを確かめてから、仕事へ戻った。

ある朝、森は弁当の袋を持っていなかった。

「忘れた」

「忘れた」

返すと、森は私を見上げて、何か言った。声が小さくて、ここまで届かなかった。

昼、森は車の中でパンを食べた。袋を開くのに手間取り、膝に粉を落としていた。

私は、それを見ていた。

私のところへ来る人は、たいてい一度で帰る。

名前を呼ぶ。私はその名前を返す。笑って、もう一つ呼ぶ。最後に、ばかやろう、と叫んで帰る人もいる。

私がその人をどう思っているかは、誰も気にしない。

森は、前の日の続きを持ってきた。

「弁当、今日はある」

「弁当、今日はある」

「自慢することじゃないけど」

その言葉は、返さずにおいた。

森はひとりで笑った。

ある朝、森は紙を持ってきた。

「今日は晴れです」

返した。

「今日は雨です」

返さなかった。

森は空を見た。

「ここに、道を通します」

黙った。

「道は通さない」

私はすぐに返した。

「道は通さない」

森は図面から顔を上げた。

「わざと?」

疑問をそのまま返しても、返事にはならない。私は黙った。

森は紙を裏返し、ゆっくり読んだ。

「私は、返したい言葉だけ返している」

私は、その言葉を返した。

森は立ち上がりかけて、板から片足を落とした。靴に水が入った。

そのときは、声を出して笑ってみたかった。

濡れた靴を板にのせ、森は言った。

「削っても、いい」

返さなかった。

森は、口の端を少し上げた。

「そうだよな」

その言葉を返しかけて、やめた。

今うっかり返せば、森が考えた何かを、私も認めたことになる。

言葉を持ったまま、一息が過ぎるのを待った。空になってから、少し楽になった。

森には娘がいるのだという。

春から、隣の町の高校へ通う。毎朝、車で駅まで送ることになる。

今の山道は狭く、対向車が来ると、どちらかが角の手前まで戻らなければならない。雨で通れなくなったこともある。

「新しい道なら、あそこを通らずに済む」

返さなかった。

「別のところにも引けないか、調べたんだ」

森は図面を広げた。川の向こうを指し、集落のほうを指した。指の先の家や田は、私にも見えた。

私の手前で道を大きく曲げる線もあった。長い車はここを曲がれない、と森は言った。

図面を畳んでから、森は言った。

「娘の話をしたら、いいって言ってもらえると思った」

それも、返さなかった。

削られる日まで、あと十日になった。

山はなくならない。沢も木も残る。でも私の岩壁は、声を返せる形ではなくなる。

森は説明の途中で、何度も言葉を止めた。

「ほかの山で、また、っていうことは」

それきり、黙った。

私は、ほかの山を知らなかった。声の届くところしか知らない。ここを離れるやり方も知らない。

森は、弁当の袋の持ち手をねじった。

「工事を、やめてほしい」

私は返した。

「工事を、やめてほしい」

初めて、自分の言いたいことを声にできた。

森は頷いた。できるとも、できないとも言わなかった。

翌日は、来なかった。

次の日も、挨拶はなかった。

森の姿は機械のそばに見えた。私の前を通るときは、足元を見ていた。

人は、黙っている私にも、好きな意味をつける。

あの言葉を返さなければ、よかった、という返事にされていたかもしれない。

返したから、森は来なくなった。

四日目の朝、森が戻ってきた。いつもの板の上に立った。

「悪かった」

私は返した。

「悪かった」

森は首を振った。

「そっちじゃない。嫌だって言わせて、そのあと、こっちが逃げた」

返さなかった。

「やめられない。俺は、道を造る。だから、いいと言ってもらいに来るのは、やめる」

私は、その言葉も返さなかった。

森は袋を置いて、お茶を出した。

「今日は、卵焼きが焦げた」

「今日は、卵焼きが焦げた」

森は、口を閉じたまま頷いた。

それからの朝は、天気と、弁当と、ときどき娘の話をした。

娘は、送らなくていいと言ったらしい。友達と、駅まで自転車で行くのだという。

「早起きの練習までしてたんだけど」

「早起きの練習までしてたんだけど」

森は、少し遅れて笑った。

「それ、笑うとこか」

私には笑えなかった。

返したのは、話を続けてほしかったからだ。

最後の朝の前日、森は弁当を持たずに来た。

削る作業は、翌日の午前からだと言った。

「今日で、おしまいにしようと思った。明日、顔を合わせてからだと、手を上げられなくなる」

機械へ合図をする腕を、森は持ち上げかけた。

それから、急に言った。

「やめてくれ」

言ってから、自分の口を押さえた。

その言葉が、私のところへ来た。

返せばよかった。私の言いたいことは、初めからそれだけだった。

返したところで、工事は止まらない。でも森は、私が嫌だと言ったことを、もう一度聞いたうえで岩を削ることになる。

一息ぶんの時間が過ぎた。

言葉が消えた。

それは私の言葉ではなかった。森が、自分で言った言葉だった。

森がそれを自分の耳で聞いたことだけで、今日はよかった。

「明日も来る」と森は言った。

私は、その言葉を返した。

翌朝、森は作業服で来た。

ほかの人たちは、道の入口で待っていた。機械はまだ動いていなかった。

「これ、片づけていく」

森は、私の前で使っていた板を持ち上げ、道の脇へ寄せた。

溝の向こうに立つと、いつもより少し遠かった。

「今日は、一つだけ言います」

森は、ずいぶん長く口を閉じていた。

やがて顔を上げた。

「いってらっしゃい」

その言葉を、私は受け取った。

森は、この山から出ていくわけではない。道ができれば、またここを通る。娘は自転車で通るかもしれない。

私のなくなった場所を、ほかの人たちも通っていく。

出ていくのは、私のほうだった。

一息が終わる前に、私は返した。

「いってらっしゃい」

森が、小さく頭を下げた。

一度も振り返らずに、道の入口まで歩いていった。

しばらくして、森が腕を上げた。

了